10 / 66

5アノマレコード:001-A(新宿特区因果災害記録/中古の軽トラの新境地①

「んおお!? ──あれ?」  目を醒ますと、そこは見慣れた高円寺の九龍城オンボロアパート、6畳一間の自室だった。  鼻を突くのは高級ホテルのアロマではなく、いつものなんの変哲もない畳の匂いと生活感のある香り。 「ぽふっ、ぽふっ」  俺のシックスパックに割れた腹の上で、「毛玉」が、飯をよこせとねだるようにぴょんぴょんと跳ねている。  窓の隙間から差し込む容赦のない朝日の眩しさに、俺は目を眇めた。(へ? 俺、あのホテルで──夢?)  俺は自分の股間を大真面目に確認する。チンコは相変わらず、冬眠中のカタツムリのようにピクリとも動いていない。 「おいおい……いくら欲求不満だからって夢であんなもん見るかね……」  はあ~~と、部屋の酸素をすべて吐き出すようなクソデカ溜め息が口から漏れた。  地下闘技場での奴隷時代、おっさんをベッドで鳴かせる哲学ばかりを叩き込まれ、自分自身は一度もイッたことがない哀愁の訓練生境遇。  情けない、とは思いつつも、脳髄にねっとりとこびりついた「あの時の情事」を思い出す。 (……夢じゃなかったら良かったのになぁ)  俺は思わずベッドに仰向けに倒れ込み、全身の継ぎ接ぎだらけの傷跡を撫で付けた。中イキアクメもメスイキアクメも、俺の純朴なダチョウの脳みそにとっては初めての経験だった。  想像を遥かに超えて脳髄を破壊してきたのだ。  それが例え、内臓が裏返るような不条理な夢の話だったとしても、だ。  放心状態で天井のシミを数えていたが、ふと、枕元に転がっていたスマホの画面を確認する。  マナーモードになっていた所為で、液晶画面は見たこともないような通知の山で埋め尽くされていた。発信元は──腐れ縁のような友達、三毛猫慶太。  および黒鶏武臣たち。 「げ、行き違いで夜会ぶっちしちまった……でもでも! ちゃんと行った! 行ったんだよぉ~!!」  俺ちゃんは頭を抱えて絶叫した。  彼ら友達という名の鬼達のルールは、地下闘技場よりもある意味で容赦がない。おピンクな夢の余韻は、一瞬で冷や汗へと変わった。  その日の夕方。最高級会員制クラブ『イシュタル』(六本木ヒルズ地下特区)へ出勤するため、魔法時計を起動しようとしたが、その前に高円寺の路地裏で「それ」は待っていた。 「おい、中古の軽トラ」  物陰から現れたのは、ツンデレDVポジションの三毛猫慶太、そして手になぜか工業用ホチキスを握っていた。  俺はこいつを見て思わず身震いした。 「ひぇ……っ」  立派な体躯から情けない悲鳴が無意識に漏れた。 「あ、三毛猫。いや、これには深いわけが。俺ちゃんの脳内で、中イキの概念がバグを起こして──」  ゴッ!!!  言い訳を並べる俺の鼻面に、三毛猫の容赦のない乾いた拳がクリーンヒットした。  鼻骨がひしゃげるかのような凄惨な音が路地裏に響き渡り、俺は身体をアスファルトに叩きつけられる。普通の人間なら即死、良くて全治3ヶ月の暴行だ。 「うるせえよバカ。次ぶっちしたらホチキスで耳とケツの穴を縫い合わせるからな」  三毛猫は死んだ魚のような目で吐き捨て、俺のポケットから詫び代として100円玉を数枚ふんだくっていった。  余りにも理不尽である。  衣服は汚れ、鼻血をダラダラと流しながら、俺は「やっぱり夢じゃなくて、これが現実か……」と大真面目に天を仰ぐ。  だが、俺の器のタフさは異常だった。鼻血を袖でゴシゴシと拭い、ポキッと鼻筋を直すと、衣服の位置を直し、何事もなかったかのように立ち上がる。 「よし、鼻血も止まったし、イシュタルに行って裏方労働でおピンクな資金を稼ぐとするか!」  喉の奥に残る夢の甘酸っぱさと、現実の鼻血の鉄の味を混ぜ合わせながら、俺は魔法時計の針を回すのだった。 ◆  ──世界とは、時に理不尽である。  新宿セクター01は、すでに現世の物理学が脳溢血を起こして死亡した不条理な屠殺場と化していた。 かつて大都会と呼ばれた絢爛なビル群は飴細工のように歪み、ひしゃげたアスファルトからは焦げ付いた重油と排気ガスの匂いが間欠泉のように噴き出している。  日本防衛特務機関『エンブリオ』の地下数百メートルに位置する、シェルター兼中央管制室。 そこは生冷たい解剖室のように冷徹で、無機質な空間だった。   空間を埋め尽くす幾百のモニター。 そこに狂ったように鳴り響くアラートの群れが、血の気の引いたオペレーターたちの顔面を不気味な血紅色に染め上げている。 『堕竜、地上への出現まで十、九、八──』 『最高位魔人個体、コードネーム:アン・クルダ号の出撃まであと十、九、八──』  空間の割れ目、虚数領域の深淵から突如として2体の巨大な怪物が姿を現した。  冷徹な防爆ガラスの向こう。 新宿の空を蹂躙する、不気味なオーラを放つ異形の堕竜を、アン・クルダの鋭い眼孔が、絶対的な捕食者の視線で捉える。 「新宿特区、半径5キロ圏内に重度因果災害を展開中! 空間位相の崩壊を確認! ターゲット、概念深度フェーズ4へ移行!」 「エンブリオ地上固定重魔力砲、全軸物理ロック完了!」 「第1から第8エネルギー伝導管、充填率120%を突破! 反応炉が融解寸前です!」  管制室のオペレーターたちが、ミリタリー独特の冷徹な高速詠唱でコンソールを叩きつける。キーボードを打つ指先が火花を散らすほどの過密なお役所仕事の熱量。  前線指揮官の怒号が、鼓膜を破らんばかりに響き渡った。 「対竜魔力、完全解放! 一斉射撃用意!! ターゲット、眼前の醜悪な肉塊の塔!!」 「っテ──ッッッ!!!!」  激震。大気を、分子レベルで融解させるほどの超高密度魔力弾頭が、現世の夜を切り裂く純白の光の槍となって堕竜の巨躯へと撃ち込まれた。 太陽が地上に降りたかのような爆光。 誰もが勝利を確信した。 「直撃──!!」  歓声が上がる、その一瞬の寸前。 「──魔法弾、駄目です! 全く効果がありません! 弾頭質量、熱量、放射エネルギーともに中和……いえ、完全に無効化されています!」 「バカな、熱線浸透率ゼロだと!?  エンブリオの最新戦術理論をすべて無視した概念装装甲で弾かれているのか!?」  血の気の引いたオペレーターの悲鳴が重なり、管制室の空気が凍りつく。 通常の戦術データでは一切太刀打ちできない、完全なイレギュラー。  メインモニターをくたびれた目で見上げる宗像司令官は、無精髭を撫でながら、ただ一本のタバコに火をつけた。 その指先はわずかにも震えていない。 すべてを諦め、世界の歪みを知り尽くした大人の冷静さ。 「……やっぱり特殊個体に効くわけ無いよねぇ、お役所の作ったオモチャじゃ」  気だるそうで、それでいてすべてを見通したような冷酷な一言が、静かに室内に落ちる。 「バカな、アン・クルダ(ナハト)の通常攻撃すら通じないだと!?  一体こいつは何なんだ!」  オペレーターの絶叫が、防爆ガラスを微かに震わせる。  いつもなら圧倒的な暴力で戦場を支配するはずの『イル・マヘシュヴァラ種』たる黒き煌めきの巨竜アン・クルダが、その絶対的な質量の暴力を、戦場にそびえ立つ醜悪な肉塊の塔に拒絶されていた。  千切れた指、爛れた人間の内臓、皮膚、誰のモノとも知れぬ剥ぎ取られた頭皮が、狂人の手によってデタラメに、そして緻密に縫い合わされた、データ解析が不能な巨大な堕竜。  数階建てのビルに匹敵するその肉塊の塔が歪に蠢くたび、ブチブチと太い縫い糸が弾け、その裂け目から数千リットルの黄色い脂肪組織と、ドロドロの死臭、焦げた有機物の比喩そのものの悪臭が津波となって新宿の街にぶちまけられる。  その熱線と悪臭の渦中、ひしゃげたガードレールに腰掛けている真宵直忠にとっては、そんな世界観の戦況など知る由もない。 「おいおい、なんだよこれ。何がどうなってんだよ……」  直忠は、熱風で焦げ臭い煤を巻き上げる黒の刈り上げポニーテールを気にしながら、ただ呆然と呟いた。  夢見ていた「オメガとしての輝かしいおピンクな酒池肉林ライフ」は、高円寺のボロアパートから外に出た瞬間、この質量と体液の暴力によって完膚なきまでに圧殺されていた。 すべての放置車両の防犯アラームが狂ったように共振し、鼓膜を不快に震わせる。  だが、本当に最悪なのはそこからだった。  人間とドラゴンを繋ぐ、逃げ場のない魂の直結パス。 それは操縦者と巨躯が神経を融解させ合うような、地獄の同調(シンクロ)だった。  何の因果か、ナハトのアルファとしての魂の波動と、直忠のオメガとしての特異な器が不可視の回線で繋がり、ダメージがそのまま直忠へとダイレクトに流れ込んできたのだ。  煌めく黒き竜、コードネーム『アン・クルダ』が受ける、世界がひっくり返るほどの衝撃、死線での一瞬の恐怖、ねっとりとした性刺激の残滓、および生理的な汚辱のすべてが、直忠の細い脊髄を容赦ない超高電圧の電流となって駆け抜けていた。 「ガ、はッ……なんだよこれ……!?  頭、が、割れ……雄っぱいが、ハイドロプレスで潰されそうに、痛え……っっ!!」  特注の衝撃吸収型メンズブラが防弾繊維の意地で直忠の胸を完璧にホールドしているが、背面が削ぎ落とされる引き算の美学で作られた薄手タンクトップの隙間からは、肉体の躍動に伴って汗が淫らに食い込んでいる。  直忠の視線の先で、黒い巨竜──アン・クルダが、大気を圧縮する咆哮とともに、漆黒のジャガーのごとき俊敏さで突進した。  強靭な爪が、音速を超えて眼前の堕竜の脂肪の山を激しく抉り、引き裂く。 じゅ、と脂の爆ぜる嫌な音が新宿に響いた。 凄まじい肉片が飛び散る──はずだった。 『グガァアアアアアアアアッ!!!!』  悲鳴を上げたのは、攻撃を仕掛けたはずのアン・クルダだった。  何が起きたのかすら分からない。 与えたはずの数万トンの超質量物理ダメージが、そのまま世界の因果の法則をバグらせて、100%の純度で反転したのだ。  アン・クルダの煌めく漆黒の強靭な鱗が、まるで濡れた雑巾のようにベチャベチャと自壊し、肉が腐ってボロ切れのように剥がれ落ちていく。 「あガッ、あああああああッ!! カヒュッ、ガヒューー……ッッ」  同時に、魂が直結している直忠の肉体にも凄惨な狂気が伝播した。 五感を特大のハンマーで叩き潰されたような、言語を絶するルールエラーの激痛。  アン・クルダが肉体を自壊させるたび、直忠の全身の記憶領域に不条理な苦痛が襲う。  肢体・五体の一時的部位消失ペナルティ。 世界との同調率が崩壊し、直忠の左目が一瞬で光を失って漆黒に変色する。  それだけではない。 味覚と嗅覚が深刻な障害に支配され、直忠の鼻腔と口内に、じっとりとした錆びついた鉄パーツと焦げたレバーの味が広がった。 脳ミソの裏側を錆びたノコギリで執拗に抉られるような、論理崩壊した不条理が、直忠の五感を内側から蹂躙していく。  直忠の目と、耳の穴から鮮血がピッと噴き出し、褐色肌の美しい顔面が真っ赤に染まった。 当事者たちは文字通り命がけで超大真面目なのに、起きている現象があまりにもグロテスクで、あまりにも意味不明すぎる認識災害。 「バイタル低下! アン・クルダの魔力反応が急速に減衰しています!」  地下管制室の大型モニターに、巨大な赤文字のアラートが明滅する。 「駄目です、精神汚染が第3層を突破して脳幹まで侵入! アン・クルダの状態が……! バイタル、神経パルス共にこれ以上の計測は不可能!  このままでは魂殻が強制パージされ、ナハト部隊長の精神が死滅します!」  アン・クルダが絶望の淵で痙攣し、その巨躯からドロドロとした黒い血ヘドを新宿のビル群にぶちまける。  その圧倒的な質量による自壊の痛みが、そのまま倍加して、直忠の脳髄にダイレクトに叩き込まれる。 「ひ、ぐがぁぅっ……! 痛え、なんてレベルじゃね、え、ぞこれ……脳ミソが、ドロドロに溶けて、ケツの穴からゲロになりそ、おエェ……ッッ!!」  戦況は、完全なチェックメイトを迎えていた。 味方の最高位ドラゴンが自滅の濁流に呑まれ、管制室に絶望の沈黙が広がる。  死んだ魚の目をしたグレーのスーツ姿の男──宗像司令官が、くたびれた顔でマイクを掴んだ。 その口元に浮かぶのは、冷徹な絶対の確信だった。 「通常のログじゃダメだ。……あの最高機密(オーパーツ)をぶち開けろ」  オペレーターたちが一斉に息を呑み、管制室の温度が数度下がったかのような錯覚が走る。 「司令! しかし、あれはまだ実験段階の……!」 「構わん。システム、全知のログ──『アノマレコード (Anomarecord)』へのアクセスを強制承認。これより、堕竜の因果エラーを強制記述する」  ドン、とコンソールが叩かれると同時に、管制室のすべてのモニターが一瞬で冷徹なバグノイズで埋め尽くされた。 白黒の砂嵐の奥から、現世のシステムをハッキングする不可視のコードが這い出てくる。  エンブリオが堕竜対策のために最高機密として管理・運用している、世界を規定する全知のデータベース『アノマレコード』。  それは、現世のバグを観測し、記録し、その不条理なルールを逆手に取るための、冷徹なお役所仕事の結実だった。  画面上に、血のような紅い機械文字が猛スピードで走る。 【アノマレコード 認識ログ:001-A】 【対象識別:堕竜『モザイクの母』】 【固有属性:痛覚反転・肉体置換──物理ダメージをそのまま対象の痛覚と肉体に置換・変異させる因果災害規則性を検出。中和プロトコルの記述を開始します】  『アノマレコード』が容赦なく敵の正体を剥ぎ取る。 但し、そのオーパーツを現実世界に固定し、堕竜の絶対的な能力を中和するための、本当の「器」は地上にいた。  直忠のダチョウ並みの脳みそが、ついに恐怖と苦痛の限界を迎えて弾けた。  おピンクな未来、まだ見ぬ酒池肉林のパラダイスを、こんな泥ネズミのような場所で、わけのわからない肉塊のせいで諦めてたまるか。前立腺は冬眠したままだが、生きる本能だけはド変態ビッチの片鱗を見せる究極の楽観主義。  お人好しなアホ面を血と涙でぐちゃちゃに歪め、直忠の特殊体質【器】が、エンブリオのシステム介入と同時に完全起動する。  世界の不可視の力が、直忠の魂を物質の檻から強引に引き剥がした。 「が、あ、あ、あああああッ!!」  直忠の肉体がアン・クルダのダメージの肩代わりとアノマレコードの強制連動で限界突破する。  アノマレコードが導き出した「エラーの逆流先」として、戦闘規模が違いすぎる神々の暴力を、その魂の器で強引に頭上から一括して引き受けるためだ。 ナハトの絶望も、堕竜の汚辱も、すべてが直忠の体に集中する。 「アン・クルダのバイタル、さらに低下! 完全に沈黙──いや、感知されません! アノマレコードの同期完了、エネルギーの逆流先が『人間1人』に集中しているぞ!?」 「神経パルス、計測限界を突破! 被験体マヨイ・ナオタダ、負荷容量99%! 精神崩壊まであと数秒です!」  地下の管制室では観測機器が火花を散らして爆発しているが、上空の精神体となった直忠には知る由もない。  彼はただ、『モザイクの母』が撒き散らす半径5キロの因果災害、数万トンの苦痛と汚辱のすべてを、己という一つの器に濁流として受け止めていた。  脳細胞をチェンソーで引き裂かれるような、激烈なルールエラーの負荷。 「ゴブッ、ぶふぉ、おごっ、ヴぇロォオオオオオオッ!!」  直忠は四つん這いのまま、勢いよく虹色のゲロと凄惨な血ヘドをぶちまけた。  鼻血と血涙、および魂の髄から搾り出された汚物をぐちゃぐちゃに撒き散らしながら、大真面目に臓物を裏返すような勢いで絶叫し、吐き続ける。  凄惨な地獄の汚辱でありながら、あまりにも唐突で突き抜けたアホさの落差。 最高にシュールなコメディが、灰色の新宿に炸裂していた。  だが、直忠がその汚物と共に因果災害のすべてを吸い尽くし、中和した瞬間、世界のバグがパチンと弾けた。  『モザイクの母』の因果置換ルールが、完全に消滅する。

ともだちにシェアしよう!