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9雨に唄えば①

 その日は生憎の雨だった。  空の蓋が腐り落ちたかのような鈍色の雲から、最初はねっとりとした霧雨が、やがてアスファルトの皮膚を容赦なく打ち据える冷酷な地雨へと姿を変えていく。  東京各セクターの排水溝からは、人間の生活から吐き出された脂と汚泥が、まるで瀕死の家畜のゲロのような匂いを立てて溢れかえっていた。  特務機関エンブリオのファタモルガナに設けられた畳敷きレトロモダン巨大専用宿舎の一室で、俺は己の股間と人生の不条理について深く瞑想していた。 「……乾かねえ。俺ちゃんの、この勝負下着(フリル縞パン)が、これっぽっちも乾く気配を見せねえ。世界の終わりか?」  しかし、どれほど肉体が強靭であろうとも、6月の梅雨がもたらす『湿気という名の精神汚染』の前には無力だった。特に、ナハトに次いでモルドレッドとの経験を経て、心なしかおねんね中だった前立腺がピクピクと妙な感度を覚え始めている俺にとって、湿った下着は不快極まりない。  寄宿舎での生活は、特に面白いことがあるわけでもなかった。  一方で、高級会員制クラブ『イシュタル』での裏方仕事は、給仕や指名(といっても俺の場合はおっさんをベッドで鳴かせる人生に最も不要な哲学を披露するだけだが)をこなし、つつがなく過ぎていった。宗像という軽薄なくたびれたおっちゃん上司に「可憐さがないから裏方な」と邪険に扱われつつも、明日で約束の1ヶ月。同時に、東京へと本格的に拠点を戻す日が迫っていた。 「なあ、直忠。俺たち、もうここを出ようと思うんだ」  宿舎に残っていたキャストのオメガたちが、すり減った絨毯の上に座り込み、おずおずと切り出してきた。三毛猫慶太が、ツンと尖らせた口元から猫のようなため息を漏らす。 「当然でしょ。あの魔人ハーフのオメガどもの嫌がらせ、まともな神経してたら胃に穴が空くぜ直忠みたいに脳みそがスポンジでできてるバカなら平気だろうけどな」 「おいおい慶太、俺ちゃんの脳みそは一応、これでも成績順位10位以内ってデータが出てるんだぜ?  スポンジじゃなくて高級な高反発ウレタンだ」  俺が大腿部をポリポリと掻きながらボケると、黒鶏武臣や白犬斗真たちが、のんびりと笑う。  彼らファタモルガナの学生でもあるオメガたちは、全員が寄宿舎を離れ、東京の各セクターへと移り住む決意を固めていた。せっかく全員でゴミ屋敷を大掃除し、ピカピカの畳敷きにしたものの、魔人ハーフである佳宵組からの陰湿な重圧と距離の近さは彼らの精神を確実に汚染していたのだ。  幸いにも、ついこの間、ファタモルガナから東京へと繋がる秘密の空間転移扉──通称『賢者の扉』がモルガナへも開通していた話を既に聞いていたのもある。  これによってファタモルガナもイシュタルも、物理的な距離を無視して楽に行き来ができるようになっている。 「じゃあさ、ここへの『お別れ会』と、東京への『引越し祝い』を同時にやろうぜ!」  俺の提案に、一同は賛成した。前月にタルト・タタン51人分のお使いで大惨事(怪獣大戦争)に巻き込まれた俺は、今回こそは平和に役目を果たしようと、自ら東京での「スイーツ買い出し担当」に立候補した。 ◆  東京セクターへ魔法時計と賢者の扉を使い、無自覚に時空のバグを「中和」しながら転移した俺が向かったのは、超高級ホテルの内部に店を構える有名パティシエのケーキショップだった。  そこは上流階級の人間どもが「可憐さ」と「財力」を競い合う戦場だった。俺は継ぎ接ぎだらけの巨体をすぼめ、場違いな肉体を揺らしながら、大挙して並ぶマダムやセレブの列にじっと耐えた。  まるで屠殺場へ向かう牛のような忍耐力で2時間並び、ようやくお目当ての、1個数千円はする高級フルーツケーキやら何やらを大量に手に入れる。 「ふぅ──、生き返ったぜ。おっさんを鳴かせるより、女の行列に並ぶ方がよっぽど骨が折れる……」  ズッシリと重い特製紙袋を両手に抱え、ホテルから出ると、東京の夜はすっかり本格的な豪雨に支配されていた。  俺は片手でビニール傘を差し、ずぶ濡れのアスファルトを歩き出す。  寄宿舎へ戻る前に、ホテルの敷地内に広がる広大な『フランス式整形庭園』を横切る近道を選んだ。  そこは、見惚れるほど美しく、それゆえにどこか厳かな空間だった。  ガゼボ(西洋風東屋)には鮮やかなツルバラが絡みつき、色とりどりの花々がスクリーンやポール、アーチにパーゴラに絡みついて、闇夜の中に濃厚な植物の芳香を放っている。  豊かな緑と美しい大理石の裸婦像が中心に鎮座し、巨大な水瓶から澄んだ水を「とくとくとく」と、一定の律動で流し続ける噴水。  その、噴水のすぐ近くにある、濡れそぼった鉄製のベンチに──そいつは座っていた。  この豪雨の中。傘も差さずに。 「──なんだぁ? ナンパ待ちか?  にしては、ずいぶんと景気の悪そうな濡れネズミだな」  俺は足を止めた。  よく見れば、そいつの衣服は、泥と雨水で酷く乱れている。  うつむいているため、前髪の間から水滴が滴り落ち、顔の造形は判然としない。  しかし、その細い肩から立ち上る空気はとてもじゃないが雨の中震える仔犬そのものだった。  さてどうするか……と考えてはみるが、俺の単純な脳味噌が出す答えは、いつでも一つしかなかった。  俺は身体を前傾させ、特製ケーキの袋を濡らさないように庇いながら、ベンチの主へと近づいた。  そして、自分のビニール傘を、そいつの頭上へと差し掛けた。  バサバサと激しい雨音が、ビニール傘の薄い膜一枚を隔てて、二人の間に奇妙な静寂を作り出す。 「雨だぞ。なにやってんの」  俺はビニール傘の柄を握り直して言った。 「…………」 「あ~あ、びしょ濡れじゃん。風邪引くぞ?」 「……僕のことは、放っておいて下さい……」  蚊の鳴くような、今にも雨の音に掻き消されて世界から霧散してしまいそうな声だった。俯いた青年が、小刻みに震えている。その頼りなさは、まるで水路に落ちて這い上がれなくなった生まれたての小動物のようだ。 「も~~。しょうがない子ねぇ」 「あ……!?」  青年が何かを言いかける前に、俺は考えるのをやめた。自慢のアームを伸ばし、青年の細い手首を「ガシィッ」と無造作に掴み取る。 「な、何を……っ、離して……!」  俺は「はいはい、お家に帰る時間だぞ~」と完全に耳にカビでも詰まっているかのような聞こえない振りを決め込み、ぐいぐいと青年を牽引し始めた。  次第に抵抗の威力を失い、最後にはドナドナされる仔牛のように大人しくトボトボと着いて来るようになった。  ジトジトと鳴く6月の雨の中、俺は高級ケーキの袋と、青年を拾って、畳敷きの巨大専用宿舎へと歩みを進めた。 ◆ 「でさー、聞いてよも~っ!」  数日前。宿舎の居間では、キャストが座布団をバンバンと叩きながら、ひっくり返って爆笑していた。  窓の外は相変わらずの梅雨空だが、部屋の中はオメガたちの熱気で満たされていた。 「一昨日さ、イシュタルから帰って来たら門の所に人集りが出来てんの。アルファやベータのイキったエリート訓練生どもが群がってるから、なんだろー? って思って見てたらさ。人集りの隙間からナオのあの、締まりのないアホ面が覗いてんのよ。ナオったらどうしたと思う?」 「えー? ナオちゃんまた何かしたの? 今度はどこのおっさん鳴かせたの?」  他のキャストが、のんびりとした声を上げる。  事の発端は、数日前に直忠が専用宿舎の庭を、竹箒で熱心に掃除していた時のことだった。  以前から、地位と血統を笠に着て、規則によって敷地内には入って来ないが、柵の外からキャストたちに「おい、オメガの出来損ない」「一晩いくらだ?」とセクハラ紛いの冷やかしや精神的暴力を働いていた悪質なアルファやベータの候補生が複数人、嫌がらせの獲物を探して現れたのだ。  彼らは庭で尻を突き出して掃除をしていた直忠の、継ぎ接ぎだらけの傷跡とムチムチした身体を見て、一斉に顔を顰めた。 『うわっ!! 化け物!?』  下品な嘲笑が響いた瞬間、直忠は掃除の手を止めた。  普通なら泣き寝入りするか、怒るか、あるいは宗像司令官に報告する場面だ。  だが、地下闘技場で「人間の肉体がどれほど簡単に壊れ、どれほど無様に悲鳴を上げるか」を骨の髄まで学んできた直忠の脳みそは、全く違う角度で出力された。  直忠はつかつかと、逃げも隠れもしないアルファの訓練生たちの至近距離まで歩み寄ると、まるで今日の晩御飯の献立でも話すかのような、乾いたドライな温度感で語りかけ始めたのだ。 『ちんぽが折れるの見たことある?』 『は……?』  怪訝な顔をする訓練生たちを182cmの体躯で見詰めながら、直忠は優しく微笑みながら言葉を続けた。 『ビンビンに勃起してんのを、片手で根元から掴んで、こう、雑巾みたいに雑に捻るんだよ。あんなにガチガチになって硬そうに見えても、人間のぽこちんって実は驚くほどやわっこいんだよな。だから、簡単に折れる。ボキッて焼きたてのソーセージみたいに肉の弾ける嫌な音がしてさ』 『おい、お前、何を言って──』 『折れた瞬間、物凄い絶叫がするんだ。鼓膜が破れるかと思うようなおっさんの悲鳴。でね、折れた根本の裂け目から、ピンク色したドロドロの肉の繊維と、どす黒い血が、じょぼじょぼって津波みたいに流れてくんの。それで終わりじゃないんだぜ?』  直忠は、愛おしそうに持っていた竹箒の柄を「ナデ……ナデ……」と愛撫しながら、さらにトーンを落とした。その目は完全に据わっており、狂気と平穏の紙一重だった。 『時間の経過とともに、内出血で青紫色に、ぱんっぱんに腫れ上がるんだ。まるで行き倒れた犬の死体のキンタマみたいにさ。そうなると尿道だった穴が引き裂かれて、締まりがなくなるから、そこからしょんべんやら、脳がバグって出した精子やらが、だらだら垂れ流しになって止まらなくなる。当の本人は、あまりの激痛で口から蟹みたいに泡吐いて、白目剥いて意識無いんだけどさ──』  直忠の、美化を一切排除した「泌尿器科的ディストピア」の生々しい描写に、さっきまでイキり散らしていたアルファの訓練生たちは、みるみるうちに顔面を紙のように真っ白にしていった。彼らの股間が、本能的な恐怖で一斉に縮み上がる。 「──で、いきなり持っていた箒を撫で回しながらさ、ナオの奴、さらに身を乗り出して『ちんぽの尿道に、こういうガサガサした竹の棒を本気で突っ込んで、中で折ったらどうなると思う?』とか『金玉を素手で本気で潰したらどうなるか知ってる?  ゆで卵を握りつぶした時みたいに、にゅるっと──』って云い始めた途端よ!」  話始めていたキャストは涙を流しながら息を詰まらせる。 「候補生達、自分の股間を両手で押さえながら、大声張り上げて蜘蛛の子散らすみたいに、わーわー悲鳴上げながら逃げてってさぁ! もう可笑しくって可笑しくって……笑いすぎでお腹が痛くて、暫くその場から動けなかったよー!」 「アハハハハ! なにそれ最高、ウケる! ナオっちって本当に顔に似合わず面白いよねー!」  キャスト達が手を叩いて転がる。彼らは普段、彼らエリートの絡みに心底辟易していたため、直忠のこの「不条理すぎるハードボイルドな撃退劇」に、宿舎の影で拍手喝采を送っていたのだ。 「ねぇ、炉舞、あんたもちゃんと聞いてるのー?」  キャストの1人が、部屋の隅で黙々と何かを読んでいる芥川炉舞に話を振る。 「ん~~、」  炉舞は生返事をしながら、スマホとにらめっこしていた。  いつもの如く副業のモデルの仕事を終えた後に、居間のへたったソファで寛いでいた芥川炉舞は、まるで呪われた遺物でも見るかのような複雑な顔でスマホを睨みつけていた。  画面に表示されているのは、最高級会員制クラブ『イシュタル』のキャスト管理アプリ──国が厳重に管理するオメガ(Ω)たちの「戸籍兼指名カタログ」だ。  利用するアルファ(α)やベータ(β)どもは、国から思想信条や資産、血統にいたるまで家畜の競売並みの厳格な審査を受け、承認されて初めてこの画面を閲覧できる。  キャストプロフィールを加味した上で予め予約を入れたり、当日の空きに指名を入れたりするシステムだが、受けるか弾くかの生殺与奪の権はキャスト側にもある。  お別れ会の準備を進めながら、一人のキャストが炉舞の肩越しにスマホの画面を覗き込んだ。  炉舞は撮影の仕事で直前まですれ違っていたため、お別れ会の詳細を聞いていなかった。なぜ周りの連中がこんなにも、明日の世界の終わりを忘れたかのように、はしゃいでいるのか頭上に疑問符を浮かべつつ、取り敢えず目下の「進路課題」について頭を悩ませていたのだ。  炉舞が液晶画面をガサガサとスクロールしながら、モデル特有の整った前髪をめんどくさそうに掻いた。 「あー糞、どこのクラブに移動所属すっか……」 「炉舞、まだ決めて無かったの!?」 「明日だよ、ここを出て行くの~」  周囲のオメガたちが、まるで終末論を囁く預言者のような気怠さで口々に言う。 「そりゃイシュタル以外にも所属出来るクラブは沢山あるけどさぁ、一番大きいイシュタルで良いじゃん。売上も警備も国のお墨付きだし、結局、皆あそこが本拠地(ホーム)だよ?」 「ん~~、でもさ、俺、モデルの仕事もあっから。イシュタル兼業だと、あのアルファの成金どものクソ重い情念を捌くだけで一日が終わっちまいそうで……更に忙しくなりそうでさ。今のクラブ継続でも良いけど、そろそろ変えようかな~とは思うんだが、う~ん」  炉舞はため息をついた。  この1ヶ月、特務機関エンブリオの直下に建てられたこの畳敷きの宿舎は、ある種の奇跡的な平穏を保っていた。理由は明白だ。  真宵直忠という、脳みそのネジが4、5本まとめて吹き飛んでいる褐色ムチムチの怪物が、あらゆる不条理をその能天気ぱわあ~で中和していたからだ。 「結局、皆、東京のセクターに住むって決めたから、ここも明日からは空き家になっちゃうね~」 「この1ヶ月はナオが居たから、初めて夜中に内臓を裏返される悪夢を見ずに、安心して暮らせたけどさ。ナオが居ないのにこんな特務機関のど真ん中に残ってたら、モルガナの他組の奴らとか佳宵組のキチガイどもにSAN値削られて、一週間で狂い死ぬ自信があるわ」 「ちょうど東京への『賢者の扉』も開通してるし、これからは東京のセクターから安全に登校できるから本当にラッキーだわ」 「──で、炉舞、まだ悩んでんの?  本当に時間無いよ?」 「んなことわかってる。でも、なかなか決めらんなくて……」 その時、居間の引き戸が「ガラガラッ」と、建付けの悪い音を立てて開いた。  両手にズッシリと重い高級パティスリーの紙袋を抱えた直忠が、雨の匂いをプンプンさせながら帰ってきたのだ。キャストたちが、飢えた野良犬のようにわらわらと集まって行く。 「ほい、お姫様方。東京セクターの超人気店『シエロンブラゼ』の有名パティシエが、魂を削って作ったプレミアムケーキ達だよ~っと。並びすぎて俺ちゃんの自慢のムチムチ大臀筋が凝り固まっちゃったぜ」 「待ってましたぁー!」 「いよっ! ナオちゃんお疲れ様ー!」  直忠がリビングの中央に入り、大理石のような白さのケーキ箱をテーブルにドスンと置くと、ソファで寝転んでいた炉舞がそれを一瞥して「なにそれ」と不機嫌そうに呟いた。 「明日で皆とお別れだろ? だからお別れ会開くっつって、ケーキとか色々な」  直忠の足元で、白い大福のような謎の生物『毛玉』が「ミ゛ィ」と、まるで潰れたゴム人形のような鳴き声を上げる。 「……お前さぁ」  炉舞はむくりと起き上がると、長い脚を苛立たしげに動かしてつかつかと直忠の目の前までやって来た。そして、モデル仕込みの細い人差し指で、直忠の汗と雨に濡れた胸元の開いた礼服の、シックスパックの胸板を「ツン、ツン」と激しくつついた。 「夜に、オメガが、一人で街を出歩くとか……一体何考えてんの? 危機感が前頭葉ごとドブに落ちてんのか? 何かあったらどうするんだよ」  ──直忠の肉体は182cm、82㎏のムチムチとした生々しい巨躯だが、炉舞から見れば「ただ図体がデカいだけの無防備なオメガ」に過ぎない。世のアルファどもが、どれほど狂暴で、どれほど容赦なくオメガの肉を貪るか、炉舞は嫌というほど知っていた。  ──不機嫌極まりない炉舞の剣幕に、直忠が「いや、俺ちゃんこれでも──」と言いかけた瞬間、横から短い手が伸びてきた。 「この馬鹿、強いよ」  いつの間にか頭にピンク色のゴム紐付き「パーティーハット」を斜めに被り、完全に目が死んでいる仏頂面の三毛猫慶太が、俺のムチムチの尻を「パンッ!」と良い音を立てて叩いた。どうして叩くの? 「は??」  炉舞が呆気に取られる。 「うんそうそう~、ヨー君はめっちゃ強いんだよ~」 「なー!」  慶太の後ろから、同様にパーティーハットを被り、さらにプラスチック製の「ヒゲめがね」を装着して「吹き戻し(ピロピロ笛)」を咥えた白犬斗真と、パーティークラッカーを両手に握りしめた黒鶏武臣がひょこっと顔を出した。二人で一緒に「うん、うん」と赤べこのように深く頷く。  それから慶太は俺の横を通り過ぎ、買って来たケーキの箱を覗いて「へえ、美味しそうじゃん」と手のひらを返し、他のキャストたちと「私はイチゴ!」「俺はチョコ!」と好みのケーキを選び始めた。 「え、直忠って……強いのか……?」  一人取り残され、あまりの温度差に狼狽える炉舞に、ヒゲめがねをピロピロと鳴らしながら白犬と黒鶏が淡々と答える。 「東京の、あの国家最高機密の地下闘技場で、同じ闘士たちを素手で引き千切ってたランカー(奴隷闘士)だからね~」 「アルファのバケモノ遺伝子持ちとかも、マウント取って顔面の形が変わるまで薙ぎ倒してたってよ。その時のリングネームが、全身傷だらけだから『スカーフェイス』! クソかっこよくねぇ!? 俺も来週から『ブラックコック武臣』って名乗るわ!」 「──マジかよ……」  炉舞は絶句し、俺の継ぎ接ぎだらけの褐色肌を凝視した。このただの「スケベな身体をしたお人好しのアホ」が、そんな血生臭い地獄の底から這い上がってきた戦闘生物だとは夢にも思っていなかったようだ。 「まあ、強いって言っても、俺ちゃんは平和主義だからさ。ちんぽを捻る以外は滅多に暴力振るわないよ?」  俺はアホ面で笑うと、「あ、そうだ。忘れるとこだった」と、そのままスタスタと玄関の方へ戻っていった。 そして数秒後。  俺は、先ほどフランス式整形庭園のベンチから、まるで「不法投棄された大型ゴミ」を回収するかのように引きずってきた、あのずぶ濡れのネズミ──もとい、美青年を片手でがっちりとホールドしたまま、リビングへと戻ってきた。 「みんな、ごめーん。庭で行き倒れてる高級そうな濡れネズミがいたから、とりあえず拾ってきたわ」  引きずられてきた青年は完全に魂が抜けたような目で、俺のムチムチとした褐色のアームに大人しく挟まれていた。  彼をソファのど真ん中へと無造作に放り投げる。  そんな空気もなんのその、下ネタ全開のオメガたちのお別れパーティーが、最高のテンションの中で交錯しようとしていた。 「「おいひい~~!!」」 「なにこれマジでヤバいんだけど!!」 「夜に食べるケーキ……悪魔的だわ」 「また体重が~~でも止めらんない!  シュークリームも食べちゃお~」 「ん、マカロンもウマ~!」  さっきまで俺の「地下闘技場のスカーフェイス」という凄惨な過去に驚いていたはずのキャストたちは、箱を開けた瞬間に前頭葉の恐怖をリセットし、プレミアムスイーツの暴力的な糖分の前に完全降伏していた。フォークが皿を叩く金属音が、まるで飢えた家畜の檻のように響き渡る。 「──って、拾ったって……その子どうしたの???」  はた、とスイーツに舌鼓を打っていたキャストたちが、クリームを口の周りにつけたまま、目を真ん丸にしてソファの方を見た。  俺が引きずってきた濡れネズミは、この世の終わりでも目撃したかのように怯えきった目で、俺の背中に、すっぽりと隠れてガタガタと震えている。 「なんか可哀想だったから連れてきた」 「はあ???」  俺の薄っぺらい単純な脳みそから出力されたあまりにもドライな言葉に、キャスト全員のフォークが止まる。 「風呂と着替えと用意しねーとな。ちょっと待ってろ。あ、慶太ぁ、タオルくれ~」 「はいはい、ったく、いつも妙なもん拾ってくんだから……」  慶太が呆れ顔でバスタオルを直忠の頭に投げつける。直忠はそれを濡れネズミの頭にパサリと掛け、大きな手で「わしわし」と犬の毛並みを整えるように雑に、しかし温かく擦ってやった。 「僕、着替え用意する~」 「じゃあ俺、何か温かい飲み物出すわ」  白犬斗真がクローゼットへ走り、黒鶏武臣が台所でマグカップをチンする。  差し出されたホットミルクを、濡れネズミは両手で包むようにして受け取った。 「熱くない?」と聞けば、遠慮がちにコクリと頷く。  前髪の隙間から覗いたその顔は、どこか繊細で、壊れた硝子細工のような可憐さを秘めた青年そのものだった。  とりあえず、こいつをこのままにしておけば床が腐る。俺は青年を抱え上げるようにして、湯気の立ち上る風呂場へと連行した。 「ひ、一人で入れるから……ッ」  脱衣所で、青年は消え入りそうな悲鳴を上げて自分の身体を抱きしめた。だが、俺の相変わらずバグっている感覚許容量と、奴隷闘士としての経験則が、青年の衣服の下にある「嫌な空気」を察知していた。 「なんで? ちょっとおにーさんにカラダ見して?」 「ひ……」  俺が無造作にそのシャツを剥ぎ取ると、予感は最悪の形で的中した。 (……やっぱりな)  青年の、雪のように白い柔らかな身体には、どす黒い打撲の痕や、タバコの火を押し付けられたような無数の痣が、まるで醜悪な刺青のように散らばっていた。

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