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9雨に唄えば②

 こいつから漂っていた不穏な空気の正体は、魔人や人間が無抵抗の人間に加える最も卑劣な「暴力の残滓」だった。  俺は何も言わず、青年の身体を湯船に沈め、優しく泡立てたスポンジでその傷跡を撫でるように擦ってやった。温かい湯の中で、青年は声を押し殺し、大粒の涙をポロポロと流して静かに泣いていた。 「あんた、名前は?」 「……ノチェルオ。ノチェルオ・フォン・ミラーシュカです……」 「ふ~ん。俺真宵。真宵直忠。宜しく~」 「……し、知ってます」 「?」 「来客用の屋敷で……清守君から水を掛けられた時、僕を庇ってくれた……」 「……?? あ~、あの時の、あの白アスパラみたいな細い坊主か! あの時は災難だったな~!」  俺は、前月に『運命の番君』である清守奏のヒステリーからこいつを庇ったことを思い出し、アハハと笑った。  風呂を上がり、白犬の持ってきたぶかぶかのスウェットを着たノチェルオをリビングに連れていくと、キャストたちの間で本格的な「お役所仕事(事情聴取)」が始まった。何故こんなことになったのか、ノチェルオはホットミルクの湯気の向こうで、ぽつりぽつりと話し始めた。 「僕……ハーフだけど佳宵組で上手くいってなくて……それで清守君達に、『用事があって行けないから、代わりに俺の指名に行って来て』って云われて……行ったら……」  その言葉の裏にある「地獄」を察した瞬間、居間の空気が一変した。  指名の押し付け。それも、佳宵組の狂ったオメガどもが、気に入らないオメガを精神的・肉体的に「調教」するために用意した、凄惨な部屋への投入だ。  キャストたちが静かにざわめき、三毛猫慶太にいたっては、さっきまで被っていたピンクのパーティーハットを床に叩きつけ、額に青筋をビキビキと立ててマグカップを粉砕せんばかりに握り締めていた。も~高血圧~。 「あの野郎~~ッ! 清守のクソガキ、相変わらず脳みそが膿んでやがる!」 「佳宵組、頭おかしいんじゃない!? いくら番の序列争いだからって、虐めで仲間をそんな風に傷付けるなんて……!」 「僕……もう、あそこには戻れない……ッ!  戻りたくない……ッ! でも、僕には帰る所がない……ッ!」  ノチェルオの大きな瞳が潤み、大粒の涙がまろい頬をいく筋も伝って、畳の上にポタポタと染みを作っていく。  その姿は、世界の不条理に押し潰される寸前の哀れな仔羊そのものだった。  俺は、食いかけのマカロンを口に放り込み、ムシャムシャと飲み込みながら、信じられないほど軽いトーンで言った。 「じゃ、俺のアパート来る?」 「へ……?」  ポカンとするノチェルオに、俺は腕を組んで言葉を続ける。 「高円寺の、すげえ変なオンボロアパートだけどさ。なんかあったら俺ちゃんが助けてやるし。あんなクソみたいな組の屋敷に居るよりは、よっぽどマシだろ? どっちにしろ、明日は全員東京に戻るんだし、希望者は宿舎か東京の一般特区で生活するか選べるルールなんだろ?」 「い、良いの……? 僕みたいな、落ちこぼれのハーフオメガが、そんな……」 「別に俺は構わないけど。丁度部屋、空いたっぽいし」 「俺も行く!!!」 「は???」  突然リビングに響き渡った大声に、俺は首を傾げた。  ソファから勢いよく挙手したのは、モデルの芥川炉舞だった。その綺麗な顔を限界まで必死に歪め、直忠を凝視している。 「俺も直忠と一緒のアパートが良い! クラブもイシュタルにする!  兼業とかどうでもいい、お前と同じ場所じゃなきゃ絶対に嫌だ!」 「お前……普段はクールを気取ってる癖に、実は誰かに依存しないと生きていけない重度のかまってちゃんタイプか~?」  俺が呆れた目を向けると、テーブルの上で、小さな手でケーキのイチゴを「むいむい」と器用に口に運んでいた謎の毛玉が、すべてを見透かしたような目で「ミ゛ィ」と、哀れみの鳴き声を上げた。 ◆ 「うわぁ……」  翌日。東京セクター・高円寺の路地裏。  眼前に立ちはだかるようにして構えるその『奇妙な建造物』を見上げた瞬間、炉舞の口から、モデルとしてのプライドが完全にドブに落ちたような素直な呻き声が漏れた。  ノチェルオにいたっては、恐怖のあまり俺の太い腕に両手でしがみつき、ガタガタと震えながら無言でアパートを見上げている。  九龍城を日本の昭和レトロで雑に煮込み、トタンと謎の配管でパッチワークしたかのような、建築基準法という概念をあざ笑う限界突破木造アパート。時折、配管から「ブシューッ!」と下水混じりの蒸気が間欠泉のように噴き出し、不条理な香りを漂わせている。 「……住むの止める? 今ならまだ、宗像のおっちゃんに頼んで普通の綺麗なマンション手配できると思うけど」  俺が胡乱な目で訊ねると、炉舞とノチェルオは、まるで首がもげるかと思うほどの勢いで「ブンブンブン!」と首を横に振って拒否した。  地獄のような佳宵組や、孤独な東京の闇に一人で放り出されるくらいなら、この「スカーフェイス(直忠)」という怪物の隣のほうが、どれほど救いになるか分かったものではなかった。 「え~と、鍵はこれだな。炉舞が203号室で、ノチェルオが204号室か。お、俺ちゃんの部屋の隣続きじゃん」 「本当に!? やったぜ、最高の立地じゃねえか!!」  炉舞が「203」と書かれた錆びた鍵を握り締め、周囲の視線も気にせずブンブンと拳を振り回して歓喜している。  ノチェルオのか弱い表情にも、ようやく6月の青空のような柔らかな笑顔が戻ってきた。 「……お前ら、そんなにこのボロアパートが嬉しいかぁ?」  理解不能といった胡乱な眼差しを二人に向けながら、俺は毛玉をポケットに突っ込み、一歩、限界突破アパートの中へと足を踏み入れた。   「──あ」  1ヶ月以上ぶりに、東京セクター・高円寺の我が家へ帰宅した俺が、建付けの悪い扉を「ギィ……」と開けた瞬間だった。  カビと埃、そしてかすかな硝薬の匂いが混ざった6畳間のど真ん中に、見知らぬ男が立っていた。  男は俺の継ぎ接ぎだらけの巨躯と、その背後にいる絶世の美形オメガ2人(炉舞、ノチェルオ)を一瞥すると、一切の猶予もなく、網戸をぶち破って2階の窓から外へ向かって魚のように跳ねて逃げた。アスファルトに「グシャッ」と肉が激突する嫌な音がしたが、男は何事もなかったかのように四足歩行で路地裏へ消えていった。 「なんだ今の……」  炉舞が乾いた声で呟く。 「なんだ今の!!!!」 「さあ~~??? 新手の泥棒か、あるいは時空の歪みから漏れ出たアホだな」 「なんでお前はそんなに平静で居られるんだよ!! 部屋に知らない、しかも人間かどうかも怪しい男が居たんだぞ!?」  炉舞がモデル用の綺麗な顔を般若のように歪め、俺の胸ぐらを掴んで激しく揺さぶる。  ノチェルオは恐怖のあまり、すでに俺の腰にコアラのようにしがみついて白目を剥きかけていた。 「いや、このアパートだと、こういうのよくあることだし……。先々月なんか、押し入れを開けたら見知らぬおっさんが『ここがアルゼンチンか?』って言いながら死んでたぜ?」 「よくあること!!?? どんな治安の特区に俺たちを連れてきたんだよ!」 「やっぱ住むの止める??? 今ならまだ引き返せるぞ、お姫様方」 「止めない!! 止めないけど!  なんかあったら絶対にその無駄な筋肉で助けてくれよな……!」  泣きそうな顔で交互に訴えかけてくる炉舞とノチェルオを見て、俺は「はいはい」と、まるで出来の悪い大型犬の面倒を見るような温度感で答えた。 「わぁ~~、可愛い子ちゃん連れてんじゃん、お隣さ~ん。一晩いくら~?」  廊下から、ねっとりとした、人間の視床下部を直撃するような下品な声が響いた。  俺がめんどくさそうに振り返ると、そこには201号室の住人であり、この限界突破アパートが誇る地獄のヤリチンが、前はだけたシャツから胸元を覗かせてニコニコと立っていた。 「誰……?」  炉舞が、まるでドブネズミの死体でも見るかのような胡乱な眼差しを男に向ける。 「あ、俺、この人のお隣の藤堂。宜しく~。それにしても、あんたらめっちゃ可愛いね~。オメガの最高級品じゃん。ねえ、今から俺の部屋に来て、ちょっと『大人の社会科見学』しない? 3人で仲良くさぁ──ぃ痛ぁあ!?」 「ミ゛ィ」  俺の刈り上げポニテの上で、大福のようにのんびりとおねんねしていたはずの謎の生物『毛玉』が、音速を超えた速度で射出された。  毛玉は藤堂の突き出た鼻頭にガチィッ! と強烈な力で噛み付くと、鼻の軟骨がパキリと鳴る乾いた音とともに、俺の頭上へと何事もなかったかのように帰還した。  藤堂は「ぶふっ!?」と情けない悲鳴を上げて涙目になり、ボタボタと鼻血を垂らしながら毛玉の『神の如き威圧感』に完全に怯え、蜘蛛の子を散らすように自分の部屋へとそそくさと逃げ戻っていった。 「おお、毛玉は本当にかしこちゃんだな~」  俺が毛玉の白い毛並みを「よしよし」と撫でてやると、気がつけば炉舞とノチェルオの二人が、恐怖と不条理のあまり、床に膝をついて毛玉に向かって熱心に手を合わせ、拝み倒していた。毛玉は偉そうに「ミ゛ィ」と鳴いた。 ◆  その夜。  高円寺の洗礼を乗り越え、三人で適当な夕食を済ませた後、秘密の転移扉を使って最高級会員制クラブ『イシュタル』へ向かった。  六本木ヒルズの地下特区。相変わらず頭のバグるような豪華絢爛なエントランスに足を踏み入れた瞬間、待機していたスタッフ仲間のファニーちゃんとルルちゃんが、肉食獣のような勢いで突撃してきた。  因みにファニーちゃんには以前、デブのおっさんに襲われた時に助けられた経緯がある。 「「きゃあああ──! ナオちゃ──ん!」」  盛大な、肉と肉が激突するようなハグ。しかし、彼女たちのターゲットは直忠の背後に隠れていた新人二人だった。 「ちょっとぉ! これからよろしこ~♡」 「あ~ん♡ 可愛い~♡ 可愛いの大渋滞よ、これぇ!! 可愛すぎて滅!!」  ぎゅう、ぎゅう、と、シリコンと脂肪の暴力のような豊満な胸に抱き締められ、濃厚な海外製香水の匂いとともに頬擦りされる。  炉舞は「ぐ、ぐるじい……顔面の骨が、折れる……」と、モデルとしての死活問題に悶え苦しみ、一方でノチェルオは、佳宵組での虐め(暴言と暴力)しか知らなかったため、この「過剰なまでの、しかし確かな歓迎の肉の温もり」に触れた瞬間、何故か決壊したように大粒の涙を流して二人に抱き返していた。 「アハハハハ! 何それ、超ウケるんだけど!」  スタッフルームのソファには、すでにパーティーハットを被り直した三毛猫慶太、白犬斗真、黒鶏武臣も来ており、新入り二人の狼狽ぶりを見てお腹を抱えて大爆笑していた。 「よお、お前ら。引越し早々、随分と賑やかじゃねえか」  奥のオフィスから、グレーのくたびれたスーツを着た宗像司令官が、相変わらず気怠そうな、しかし全てを見透かしたようなスケベな目で現れた。 「おっちゃん、お疲れ~」 「おう、直忠ちゃん。お前が連れてきた新入りも含めて、店は今日はお休みにする。これから、お前たちの『夜の戦闘服(スーツ)』を買いに行くぞ」  宗像のおっちゃんの言葉に、テンション高めのファニーちゃんとルルちゃんが「待ってました!」と跳ねる。 「さぁ~て、良いスーツにしないとね。男は布切れ一枚で化けるからね!」 「おっちゃん、何処にする? 新宿の闇市?」 「バカ言え、取り敢えず銀座の最高級店ね」 「良いわね! オーナー太っ腹!」  イシュタルを出た一同は、宗像のおっちゃんが用意した、国の予算を不当に私物化したとしか思えない「9人乗りの超特別製高級防弾外車」に詰め込まれ、豪雨の東京を切り裂いて銀座へと向かった。  銀座の、一般人が入れば一瞬で資産を差し押さえられそうな大通り。その一角に佇む、歴史ある仕立て屋の大きな店構えの前に、一行は降り立った。  ショーウィンドウに飾られた、人間の業(カルマ)をそのまま具現化したような漆黒や白銀のスーツは、どれも見るからに高額で、三毛猫たちが「うわ……格が違いすぎる……」と、普段のイキり具合を忘れて狼狽えていた。  俺はその中から、一際妖しい光沢を放つ、胸元が大胆に開いたムチムチの褐色肌が映えそうなタイトなスーツを指差した。 「おっちゃん、俺ちゃんこれ欲しい。前立腺が喜びそう」 「余裕の20万超え!!?? 馬鹿ナオ!! 値札見ろ!!」  三毛猫慶太が血相を変えて叫び、次の瞬間、俺の頬にバチン! と強烈な平手打ちを食らわせた。肉の爆ぜる良い音が店内に響く。も~、ジョークなのにぃ~。  俺は頬をさすりながら、宗像のおっちゃんに頭を撫でられつつ、三毛猫に向かって「てへぺろ」と舌を出した。  三毛猫は無言で、直忠の顔面に突き刺すように中指を立てていた。 「それも良いけど、取り敢えず中で採寸してからね。お前らの身体は、イシュタルで輝く為にあるんだ。安物の布じゃ、アルファどものフェロモン一発でボロ雑巾みたいに引き裂かれちまうからな」  宗像のおっちゃんがドライに笑いながら、店の重厚な扉を開ける。  店内にずらりと並んだ高級スーツの何れもが、昼間の光の下で着るためのものではなかった。  それはすべて、夜の店、あるいは神々のバイオレンスバトルの裏舞台で、オメガたちがその身をイシュタルような最高級クラブの濁流に委ねるための、冷酷で、淫らで、血生臭い『夜の鎧』だった。  採寸のために上着を脱がされた俺の、褐色ムチムチのシックスパックと、全身の生々しい継ぎ接ぎの傷跡。  その様子を、店の片隅の高級ソファに座った炉舞とノチェルオが、息を呑んで見つめていた。  6月の雨は、彼らの新しい夜を、じっとりと濡らしながら加速させていく。  仕立て屋の磨き抜かれた三面鏡の前で、俺は自らの褐色ムチムチの肉体を所在なげに揺らしていた。  直忠の周囲に揃った仲間たちの体格は、実は一般的な基準からするとかなり「異質」な部類だった。  三毛猫慶太の身長が167cm、白犬斗真が168cm、黒鶏武臣は170cm。  それから新入りのノチェルオが167cmと慶太と同じで、モデル業を営む芥川炉舞が172cm。  国が管理する一般的なオメガ(Ω)の平均身長が160センチ前後であることを考えると、彼らはオメガの割にはかなり発育が良い方だろう。  勿論、俺みたいに縦にも横にもデカい、肉厚脂多めなオメガだって居ない訳じゃない。数は少ないが。ファニーちゃんやルルちゃんとかが最たる例だ。 「これはこれは、宗像様!」  彼らの背後に立つ軽薄なくたびれたおっさんを認め、店の奥から黒服の店員が驚いたように慌てて駆け寄ってきた。 「いつもご利用有り難うございます。今回はどんなお召し物をお探しですか?」 「おう。俺の所に新しい可愛い雛たちが東京に2人移籍してきてさ。とりあえずまとめて6人分、バシッと決まる上等なスーツを繕ってやってくれ」  宗像のおっちゃんは慣れた手付きでタバコに火をつけ(当然、禁煙の札は無視だ)、慶太たちに似合うスーツを次々と指定し、店員と何やら専門的な数字を交えて話し込んでいく。  列をなすオメガたちの姿は、ちょっとしたアイドルの撮影会のようだ。そして、いよいよ俺の番がやってきた。 「こちらの方には、どのように?」  店員が、俺の全身を走る「地下闘技場の奴隷闘士(スカーフェイス)」としての傷跡を一瞬だけ見つめ、すぐにプロの無表情に戻って訊ねる。棟方は直忠の褐色肌とムチムチの胸板を値値踏みするように見つめ、ニヤリと笑った。 「うーん、そうだね……。コイツには、ネイビーのスリーピースで、ピンストライプが良いかもな。少しは引き締まって見えるだろ」 「畏まりました」 「あとシャツは、ボタンダウンのロンドンストライプの赤でいこう。……そうだ。ループタイとブローチ、袖を留めるアームクリップ。それにベルトにブラウンシューズ。靴下と、ついでにソックスガーターも一式欲しいね」 「それでしたら此方に」  高級感あふれるイギリス調の重厚なセット一式だ。  全ての採寸を終え、仕立てられた極上のスーツ一式を受け取って、一行が高円寺の限界突破アパートへ帰宅した頃には、夜の11時をとうに回っていた。  車中でおっちゃんから改めて、「そういや所属祝いとか、あの寄宿舎からの脱出祝いをやってなかったから、丁度良いね」と告げられた。  尚更イイモノを身に付けて夜の街を歩くべきだという、司令官なりのこだわりらしい。  決して安くは無い最高級スーツを、ポンポンと6人分。総額で小さな高級車が買える額をキャッシュで支払う手際の良さ。 (流石はおっちゃん。無駄にエンブリオで最高司令官任されてるだけあるね)  と、俺は単純な脳みそで深く納得していた。  さらにイシュタルの先輩であるファニーちゃんとルルちゃんからは、おすすめのブランド香水をプレゼントして貰った。 「お前らが成人して大人の箔をつけたら、今度は本物のフルオーダーメイドを作ってやるよ」  宗像のおっちゃんはそう言って、俺達を家の前で下ろすと、軽薄に笑いながら車で闇の中へ消えていった。 「ふぅ──、生き返ったぜ……」  我が家の202号室に帰宅するなり、俺は買って来たスーツの箱を床に放り出し、万年床のベッドに泥のように倒れ込んだ。  すると、足元にいた白い大福のような生物『毛玉』が、俺の足首のあたりを「くん、くん」と不機嫌そうに嗅ぎ、次の瞬間。 「ミ゛ィッッッ!!!」 「痛えっ!? やだ~噛まないで~! 俺ちゃん疲れたの~。お風呂は明日で良いでしょ~」  毛玉は容赦なく直忠の肉に歯を立て、潰れたゴム人形のような声で文句を云った。お風呂に入らずに寝ようとしたのがお気に召さなかったらしい。 「お風呂は朝入るぅ~、眠いんだよぅ~」 「ミ゛ィ、ミ゛~~ィッ!!」 「分かった、分かったって! も~、すぐにDVに走るんだから、この白いヒモは~!」  渋々起き上がり、ジトジトと湿ったバスルームの扉をガラリと開けた瞬間だった。  そこには、見知らぬ見事なハゲ頭のおっさんが、完全なる全裸で突っ立っていた。  探偵か何かの真似事のつもりか、おっさんは俺の洗濯かごの中から、数日前の下着(フリル縞パン)を取り出し、犬のように熱心にフガフガと嗅いでいる真っ最中だった。 「はあ?」  俺が乾いた、あまりにもドライな声を出す。  おっさんは驚いて「ひえっ!?」と心臓が止まるような悲鳴を上げて振り返ると、俺の182cmの褐色巨躯に恐怖したのか、大きく身体を震わせ、窓の隙間から全速力で、まさに野生のゴキブリのような速度で部屋から逃げて行った。高円寺の夜闇に、真っ白な尻が消えていく。 「……本来なら警察を呼ぶ所ではあるけどな」  俺は、逃げていったおっさんの残臭を鼻でフンと嗅ぎ、面倒だったので通報はしなかった。高円寺の警察署で長ったるくて怠い事情聴取に付き合うくらいなら、一秒でも長く寝たい。何より眠い。  軽くシャワーで汚れを洗い流し、寝るためにタンスを開けると、下着が既に幾つか根こそぎ盗まれていた。 「まあ、おっさんに俺ちゃんのフェロモンが染みた下着をプレゼントしてやったと思えば、徳を積んだようなもんだろ」  薄っぺらい単純な脳みそで不条理を自己完結させると、俺は毛玉を抱っこして深い眠りに落ちた。  東京に戻ってから、何日目かの夜がやってくる。  俺はおっちゃんからプレゼントされたネイビーのピンストライプ・スリーピースに、燃えるようなロンドンストライプの赤シャツ、そしてソックスガーターで「夜の正装」を完璧に着こなしていた。  最高級会員制クラブ『イシュタル』のフロア。  豪華なシャンデリアの下、俺はカウンターやテーブル席を給仕であちらこちらと忙しなく動き回り、注文された料理や高価なアルコールを運んで行く。  俺の最近の日課は、最高にアホで、そして最高にドライに確立されていた。  朝から夕方までは、高円寺のオンボロ部屋でリモートの授業を受けつつ(画面の向こうの教師の顔を見るだけで眠くなる)、膨らんだ毛玉をクッション代わりにだらだらし。  夜になればイシュタルに行き、こうやって注文された飲み物や料理を運んだり、時折「おっさんをベッドで鳴かせる哲学」を披露してチップを稼ぐ。  高円寺での炉舞やノチェルオとの賑やかな隣人生活と、イシュタルでの華やかな夜の給仕。  俺の東京での新しい、そして相変わらずズレまくったアホな日常が、こうして本格的に回り始めていた。 ◆ 「キャアアアアアッッッ!!」 「ドール組の皆だよっ!!」  イシュタルの重厚なエントランスの方向から、鼓膜の裏を直接金属ベラで削り取るような黄色い歓声とざわめきが沸き起こった。  この手の、空気が一瞬にして「一流芸能人のスキャンダル」じみた熱気と退廃にすり替わる時は、大抵ドラコ(竜の一族)が店に現れた合図だ。それも主に、表舞台のアイドルとして人間どもを崇拝させる役割を担う『ノーブルドール(黄金)組』の兄弟たちである。  人集りが、まるで旧約聖書のモーセの十戒の如く綺麗に左右へ割れていく。現れたドール組の面々は、待機する訓練生やキャストたちに向けて、いかにも育ちが良さそうな、しかし中身が完全に空洞のレプリカじみた笑顔を浮かべながら、大忙しで手を振り返していた。 (アイドルヒーロー今日も大忙しっと……。俺には一生縁のない、おピンクな世界だぜ)  新調したネイビーのピンストライプ・スリーピースの胸元をポリポリと掻きながら、俺はトレイを片手に単純な脳みそで他人事を決め込んでいた。 「さてと、次の注文はカシスウーロンと……」  ガチャンッ!!  不意に、フロアの隅のテーブル席から、ガラスが硬い床に激突して粉砕する乾いた音が響いた。  驚いて音のした方へ視線を向けると、複数人の配属前のエリート候補生がテーブルを囲み、顔を真っ赤にして何やら犬のように喚き立てている。  せっかく運ばれた高級料理は、無惨にも床にトレーごとひっくり返され、どす黒いソースが絨毯に嫌な染みを作っていた。  そこには、完全に困り果てて胃に穴が空きそうな顔のウェーターと、胸元を怒りで膨らませている候補生、そして困惑して細い肩を縮めているキャストの姿があった。 (やれやれ、お仕事お仕事……)  俺は呆れながらその場へ向かい、乾いたトーンで経緯を訊ねた。  なんてことはない。ただの、人気のキャストを指名できないのは何でだと、金を払えば法律すら曲がると信じ込んでいるアホの理不尽な憤りだった。 「おい! 何で金芽(かなめ)君を指名出来ねェんだよ! どうなってんだ此処は! 金ならいくらでも出すって言ってんだろ!」  唾を飛ばしながら、俺のロンドンストライプの赤シャツに向かって捲し立てる候補生。  俺は「まあまあ」と、まるで興奮した家畜を宥めるような手つきで改めて説明を試みる。  店内の退廃的な雰囲気とアルコールの香りに勝手に脳を酔わせた候補生どもが、時折こうして気が大きくなって暴れるのが、イシュタルの日常的な風景だった。 「お客様~、此処はモルガナでの実戦評価の登録候補生によって指名優先順位が厳格に決まるシステムなんです~。それにコル・ドラコ(竜の番)たちが指名被りしていたら、その時点で自動キャンセルになりますよ~? これ以上フロアで暴れるってなら、裏のゴミ捨て場にポイして外に行って貰うけど」 「う、ウルセェ!! 俺はこれでも 実戦評価第100位以内だぞ! 選び抜かれたエリートだ! とっとと金芽君を此処に呼べ、この継ぎ接ぎ野郎!!」  候補生は、手に持っていた残りのグラスをブンブンと危険な軌道で振り回す。びしゃびしゃと中身のアルコール炭酸水が散り、俺のネイビーのスーツやそこら中の床が濡れまくっていく。せっかくおっちゃんが買ってくれた靴が台無しだ。 「お客様、現実は残酷ですよ。10位以内とかなら兎も角、100位以内じゃ呼べるわけねーだろ。上には上が、ゴロゴロと化け物みたいに詰まってんだから」  俺が何の感情も籠っていないドライな正論を吐き出すと、現実を突きつけられた候補生のプライドが限界突破して弾けた。 「な、ンだとぉ!? テメェ、ただのオメガの裏方のくせに──ッッ」  候補生の拳が、俺の鼻頭めがけて真っ直ぐに突き出される。 (あ、──殴られるな、これ。まあ、大人しく一発殴られて、そいつの気が収まるならそれでいいか。イシュタルの警備を呼ぶのも面倒だしな)  俺が「鼻血が出たら赤シャツに染みて目立たないな」などと薄っぺらい脳みそで考えていた、その時だった。  眼前に迫った候補生の拳の真横から、まるで氷の蛇のような白い手が音もなく伸びてくると、その手首を「ガシィッ」と捕らえ、空間ごと固定するようにピタリと止めた。 「あ……?」  俺と、殴りかかろうとした候補生は、如何にもな間抜け面を晒して目の前に突き出されたままの拳をポカンと見つめた。  そこに立っていたのは、見知らぬ白髪の男だった。  氷の結晶のような鋭い紫の瞳に、透き通るような白い肌。ノーブルダルジャン(白銀)組の絶対的な気配を纏った男は、殴りかかろうとした候補生を一瞥し、鼓膜が凍りつくような冷徹な声で小さく告げた。 「おい。此処は暴力を振るう所じゃない。喧嘩をしたいならモルガナに戻って、演習場で内臓をぶちまけ合え」 「ど、ドラコ……白銀組の、ジーヴァ……ッ!」  殴り掛かろうとしていた候補生は、一瞬にして顔面を真っ青に染め、捕まれていた腕を慌ててぶんと振りほどくと、己の股間が縮み上がる恐怖に耐えかねてイシュタルから脱兎のごとく走って出ていった。  それを見ていた仲間の候補生たちも、取り残される恐怖から「待ってくれよ!」と慌てて後を追いかけて行った。 「あ~、有り難うございます。すんません、フロアを汚しちゃって。ご迷惑お掛けしました」  俺は「タダでトラブルが解決してラッキー」程度に頭を下げ、それから床のソースを掃除する道具を取りにその場を去ろうとした。  だが、振り返ると、さっきモーセの十戒で割れて入ってきたノーブルドール(黄金)組どもが、いつの間にか俺を取り囲むようにしてでんと立ちはだかっていた。 「あはっは! ジーヴァはお人好しだからなぁ~、そんなゴミみたいな裏方を助けてやるなんてさ」 「あれ? お前──」  ドール組の一人が、俺の顔面を至近距離で「じっ……」と見つめ、その全身を走る地下闘技場の無惨な裂傷の痕に気がついた。  次の瞬間、彼らは思い出したように、お互いの顔を見合わせて「ハッ!」と下品に、馬鹿にするように笑い出した。 「やっぱりそうだ! コイツ、あの地下の『スカーフェイス』じゃん!  おっさんたちをベッドで鳴かせてたっていう、あの薄汚い奴隷闘士(スカーフェイス)だよ!」  その醜悪にねじ曲げられた通り名がフロアに響き渡る。  白髪の男、ジーヴァは、その言葉を聞いて、ちら、と俺を一瞥してから、冷たい唇で小さく呟いた。 「スカーフェイス……」 「あはは、面白いじゃん! 指名してやろうか、スカー? おい」 ドールの一人が、俺の顎を「ガッ!」と爪が食い込むほどの強さで乱暴に掴み上げ、強引に上を向かせる。 「アンタ、地下で奴隷やってたんだろ? セックス上手いの? アルファをベッドで鳴かせる哲学だっけ?」 「はあ? 当たり前だろ。俺のテクニックは国家機密レベルだぜ」  俺が顎を掴まれたままアホ面で真面目に答えると、ドールは鼻で笑い、俺のピンストライプのズボン越しに、その肉厚でムチムチとしたケツを「ガッッ!!」と大きな手で容赦なく鷲掴みにした。  そして、自分の身体の方へとぐっと引き寄せる。高級香水の薔薇の匂いが、俺の鼻腔にねっとりと絡みつく。 「男日照りのオメガのくせに。良いから、お前は大人しく俺たちの云う事を聞いとけば良いんだよ。このクソビッチが」  耳元で、脳がバグるような蔑みと愛憎の混ざった言葉を囁かれ、俺が「ん~、お財布が厚いなら、お尻くらい幾らでも触らせてやるけどな~」と呑気にボケようとした、その時だった。 「──そいつは、俺が指名してる」  ドール組の喧騒を切り裂くように、すぐ横のテーブル席から、乾いた低い声が響いた。  見れば、白髪の男──ジーヴァ・スロウスが、いつの間にかテーブル席の高級ソファに深く腰掛け、細い指先で煙草を燻らせながら、冷徹な瞳でこちらをじっと見据えていた。 煙の向こうの紫の瞳には、ドール組に向けられた明確な不快感が露となっていた。 「は……?」  ドールは頭の上に巨大な疑問符を浮かべ、俺のケツを鷲掴みにしたまま完全にフリーズした。  俺はその隙を逃さず、ぬるりとドールの腕からすり抜けると、これ幸いとばかりにジーヴァの向かいの席にどっかりと座り込んだ。ネイビーの高級ピンストライプが、肉厚な太もものラインに合わせてパツパツに悲鳴を上げる。 「そうそう、お兄さんから今、熱烈なご指名貰ってっからさ。そういうルールだから。お触りはここまでな、ごめんな~」  俺が「しっしっ」とハエを追うように手を振ると、ドールたちは屈辱に顔を歪めて激しく舌打ちした。  しかし、相手はノーブルダルジャン組の戦闘狂、ジーヴァだ。  ここで逆らえば銀座の夜ごと凍結ミンチにされると本能で察したのか、彼らは捨て台詞代わりに別のキャストたちを派手に侍らせ、そそくさとVIP席の奥へと消えていった。 「いやぁ、何回も助けて貰ってすいません」  俺がアホ面でペコリと頭を下げると、ジーヴァは感情の起伏が一切ないドライなトーンで低く返した。 「別に。アイツ等、ただでさえ声がデカくてウザいからな」  ジーヴァはフーッ、と薄い唇から紫煙を燻らすと、俺のムチムチした胸板から興味を失ったようにメニュー表へと視線を移した。  俺は、改めて目の前の男を観察した。  彼が放つオーラは、触れただけで人間の指先を壊死させるような、冷たく凍えそうな絶対零度。それでいて、どこか儚げで、触れたら硝子細工のようにパリンと消えてしまいそうな危うさを秘めた、美しい雪肌の持ち主だ。  氷の中に閉じ込めた様な永遠の美美(びび)しさはまるで高慢な女王様の様で、妖しく輝く紫色の切れ長の二重の瞳は、濃い睫毛と隈取りに縁取られている。白髪をオールバックにしたその姿は、浮世離れした絶世の美人そのものだった。白豹の耳と尾が、退屈そうにふわりと揺れている。  世界防衛の最前線に立つドラコ(竜の一族)には特権として特別仕様のアルコール度数が異常に高い専用酒と煙草が用意されている。ジーヴァもその例外に漏れず、慣れた手付きでスピリタスベースの超高濃度モスコミュールと、ピスタチオのおつまみを注文した。 「ほいよ、モスコミュールお待ち──」  俺がグラスをテーブルに置いた、その瞬間だった。フロアの至る所から「キャーッ! ジーヴァ様よ!」「こっち向いて!」と、ジーヴァの存在に気づいたキャストや客たちが、飢えたアリの群れのようにわっと集まってきた。  一瞬にしてジーヴァの周囲に肉の壁ができあがり、給仕係の俺が「おっとっと」とフロアの隅へ弾き出されるところまでが、もはやイシュタルの完璧なお決まりのパティーン(お約束)になっていた。 (さて、ドールたちのセクハラからも逃げ切れたし、そろそろ俺ちゃんの仕事も仕舞いだな。帰って寝るかぁ……)  バックルームへ戻った俺は、一人で「う──ん!」と、大きな身体を限界まで反らせて大きな背伸びをした。新調した赤シャツのボタンが、はち切れんばかりに引っ張られる。  手早く着替えと帰り支度を済ませ、三毛猫慶太や炉舞たち仲間に「お先~」と軽い挨拶を残すと、後は高円寺の限界突破アパートを目指して、ジトジトとした梅雨の帰路に着いたのだった。

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