20 / 66

10アノマレコード:003-C(池袋特区強制日用品化・液体感染災害記録/氷の女王に口付けを①

 梅雨の池袋セクター03は、神が天空の巨大な底を抜いたような、凄惨な血の泥雨に浸されていた。 『堕竜、地上への出現まで十、九、八──』  オペレーターの冷静な声が池袋セクター03に木霊する。 『サンドリヨン号の出撃まであと十、九、八──』  生温かく、錆びた剃刀の味がする泥雨は、降水確率100%の絶対的な質量となって街を圧殺していく。アスファルトに叩きつけられるたび、それは「じょぼ、じょぼ」と、出来損ないの生前贈与みたいな嫌な音を立てて弾けた。  最悪なのは、この雨粒がたった一滴でも皮膚に触れた瞬間、人間という精密な肉の塊が、不条理な物理法則によって「折りたたまれる」ことだった。 「ひ、あ、あぐっ、お、お母さ──」  駅前を逃げ惑うサラリーマンの背中に泥雨が染み込んだ瞬間、彼の脊椎が不自然な角度で外側に逆折れした。  バキバキッ! と、乾燥した薪を薪割り機で一撃のもとに叩き割るような快音が響く。  大腿骨は瞬時に一本の強固な中棒へと融解し、内臓の全ては引き絞られた黒い高級布地へと引き伸ばされていく。  隣を走っていた厚底ブーツの女もまた、悲鳴を上げる暇もなく四肢を内側に巻き込まれ、肋骨が傘の親骨へとパキパキに組み替えられていく。  最後は──ポンッ。  あまりにも軽快な、おもちゃのクラッカーを鳴らしたような乾いた音が響き、濡れたアスファルトに、英国王室御用達と見紛うばかりの「綺麗な高級ブランドの黒い雨傘」が二本、垂直に突き刺さった。  ほんの数秒前まで住宅ローンの残高や明日の合コンの段取りに頭を悩ませていた人間たちが、今や梅雨時のマストアイテムとして、美しく、そして冷徹に整列している。  命がけで生を叫んでいた当事者たちの真面目さと、結果として生じる日用品化というシュールな不条理。その凄惨な落差こそが、この地獄の本質だった。  その変異の行列を、不気味な黒づくめの集団が手際よく「回収」していく。カルト組織『ザルヴァートル』の狂信者たちだ。彼らは「供物ゥ、確保ォ!」と狂ったように叫びながら、かつて人間だった雨傘を次々とトラックの荷台へ投げ込んでいく。  彼らにとって、この不条理災害は極上のバイオテロであり、神への貢ぎ物を集める大収穫祭に過ぎなかった。  この惨劇の元凶は、池袋駅東口の、かつて巨大百貨店があった場所に鎮座していた。  大怪獣サイズ──その巨大な質量を持つ超巨大堕竜。  何万、何十万本もの黒い雨傘がウジ虫のように密集し、蠢き、巨大な女のシルエットを形作っている。それが動くたび、周囲のビル群は時間差を置いて、おからでも潰すようにズズズと垂直に圧壊した。  水道管が破裂し、泥血の水と混ざり合った間欠泉が地下から吹き上がる。咆哮は空気を圧縮する衝撃波となり、街中の自動車のアラームを一斉に共振させ、大気を低周波で震わせた。 「──各員、正気度を保て! 認知保護フィルターを最大にしろ! 対象の不条理ルールに脳を焼かれるな!」  エンブリオ日本防衛特務機関の作戦指令室(オペレーション・ルーム)は、精神汚染の電子アラームで発狂寸前だった。モニターには、池袋の人口が急速に「日用品の在庫数」へと置き換わっていく絶望的なグラフがリアルタイムで明滅している。 「だ、ダメです! 通常の戦術データベース、完全にフリーズ! 敵の変異規則(プロトコル)がこちらの予測アルゴリズムを遥かに超越しています! 白銀組(ダルジャン)、ジーヴァの肉体組織にも結晶化を伴う『傘化』の兆候が発生!」 「クソが、マニュアル通りにしか死ねない無能どもめ!」  指令席で、グレーのスーツを気怠そうにヨレさせた宗像司令官が、吸い殻の山にまた一本、安煙草を押し付けた。  その目はいつもの気怠げなスケベさを完全に消し去り、冷徹な絶対者のそれへと変貌している。 「通常のログじゃダメだ。あの最高機密(アノマレコード)をぶち開けろ! 脳味噌をバグらせるクソゲーには、それ専用の攻略本が必要だろ!」 「──了解、アノマレコード(Anomarecord)、強制開錠。データベース・コード"Fata-Morgana"を展開。認知災害に対する防壁、最終フェーズへ!」 『【アノマレコード 認識ログ:003-C】 【対象識別:堕竜『泣き濡れた黒い雨傘(レディ・イン・ザ・レイン)』】 【固有属性『広域概念日用品化災害(規則型重度認知汚染降水)』池袋セクター03の局地的な気層をハッキングし、有機生物の構造定義を強制的に書き換える「泥雨」を降らせる固有規則。この雨に含まれる未知の重粒子が一滴でも皮膚に接触した瞬間、対象の生物学的存在価値は失われ、特注の『高級ブランドの黒い傘』へと不可逆的に置換される】』  オペレーターの指先が血が滲むほどの速度でキーを叩き、冷徹なお役所仕事感に満ちた全知のログが、戦場へ強制介入する。脳を直接削るようなシステム音が鳴り響き、敵の不条理ルールの解析データがジーヴァの脳内へ直接転送されていく。  その池袋の泥濘の最前線に、真宵直忠は立っていた。  先日、宗像に男気爆買いしてもらったばかりの、銀座の高級仕立て屋によるネイビーのスリーピース。ピンストライプの織目が美しい正装だ。中に着た赤シャツとソックスガーターが、褐色肌のムチムチとした肉体をエロティックに引き締めているが、今の直忠にそんな色気を感じている余裕は微塵もなかった。 「お、おいおいおい……おろしたての高級スーツが台無しじゃねえか……!  エンブリオに特殊クリーニング頼むと高いんだぞ……!」  直忠の脳内は、己の命の危機よりも、明日の洗濯の手間と、セックスがご無沙汰であるという哀愁で占められていた。しかし、彼の身体はその意志とは裏腹に、世界で唯一の【器】として、すでに最悪の稼働を開始していた。 『──アノマレコードより警告。対象の特性:【強制変異:雨傘】。中和を開始します──』 「が、は、あぐ、ぅぅぅぅぅぅぅぅっッッッ!!!!」  直忠の口から、どす黒いゲロと血ヘドが同時に、凄まじい勢いで噴き出した。  痛覚と感覚の許容量が完全にバグっている彼をして、今回の不条理脳内汚染はあまりにも理不尽で、あまりにも生理的嫌悪感に満ちていた。  今、直忠の魂は、池袋全域で傘に変えられた何千人もの人間の、肉体が裏返り、骨が軋んで日用品へと変質させられる瞬間の「生理的汚辱と絶望」を、全て自分の神経へと引き受けていた。  その脳内に直接叩き込まれるイメージは──【百万人のおっさんが、濡れた泥臭い靴下を口に無理やり詰め込んできて、直忠の脳味噌の上で一斉にタップダンスを踊る】ような、狂気と汚濁の極み。 「げ、ほっ、ご、ごめんな……おっちゃん……せっかく買ってくれた、いい服なのに……う、うう、おっさんの靴下の味が頭から離れねえ……! 誰か、誰か最高に相性のいいアルファ、俺ちゃんの前立腺に電気ショックをくれぇぇぇ!」  直忠は四つん這いになり、ネイビーの高級ジャケットを自身の血と胃液で盛大に汚しながら、なおも快楽的未来(酒池肉林)への執着を叫ぶ。  当事者は命がけで超真面目に苦しんでいるのに、その姿はあまりにも不条理で、恐怖と爆笑の紙一重だった。直忠が絶叫ゲロを吐けば吐くほど、世界の中和が進む。  カチ、カチ、カチカチカチカチ──!  時間が逆再生するように、池袋の街に不条理な音が響く。ザルヴァートルのトラックの荷台や路頭に転がっていた「黒い雨傘」たちが、一瞬にして人間の肉体へと巻き戻り、五体満足で復活していく。  衣服も肉体も無傷。ただ、そのすべての精神的・肉体的摩耗を、直忠一人だけが肩代わりして、ズタボロの肉体で引き受けていた。直忠はそのまま、魂を削り取られたように白目を剥いてアスファルトに気絶した。 『──よく耐えた。実に見事な血反吐だ』  その直忠の背後に、ヌッと、池袋の空を完全に覆い尽くすほどの圧倒的な質量を持つ影が降り立った。 白銀組(ノーブルダルジャン)が一人、純銀の竜──サンドリヨンのジーヴァ・スロウス。  人間の姿の彼は、白髪オールバックに紫瞳の絶世の冷徹絶世美人だが、今の彼は、世界のマクロな崩壊を背負う、最大質量の神たる巨竜(コードネーム:サンドリヨン)へと完全変態を遂げていた。  直忠が不条理ルールを命がけで中和したことで、ジーヴァの肉体を蝕んでいた「傘化」のバグが完全に霧散する。  自由になった純銀の巨竜が、泥雨の空に向けて、空気を一瞬で真空へと圧縮するような咆哮を放った。ズズズズズ! と周囲のビルに残っていたガラス窓が、低周波の衝撃波で一斉に粉々に爆砕する。 『──チッ、不快な雨だ。この世界をこれ以上汚す権利は今のお前には無い』  サンドリヨンの得意属性──【氷属性攻撃】。  それはアノマレコードの支援によって最適化された、単なる冷気ではない。絶対零度を遥かに超越した、空間の分子運動そのものを強制停止させる神の暴力。  純銀の竜がその巨体を震わせた瞬間、池袋の空間そのものが「凍りついた」。  空から降り注いでいた血の泥雨が、地上に届く前に一瞬で「数万本の巨大な氷の槍」へと凝固し、逆に上空の『泣き濡れた黒い雨傘』に向けて、猛烈な逆流を始めて突き刺さっていく。  爪が肉を削ぐ「脂の爆ぜる音」が、池袋セクターに生々しく響き渡った。  サンドリヨンの巨大な爪が、数万本の傘で構成された敵の巨体を、容赦なく削ぎ落とす。飛び散るのは金属の骨組みと、ドロドロとした人間の怨念が混ざり合った、生理的なグロテスクさを極めた肉片。  敵はギチギチと、黒い布地が擦れ合うような嫌な悲鳴を上げながら、サンドリヨンの圧倒的な質量物理によって、文字通り「すり潰されて」いく。カルト組織ザルヴァートルの回収部隊も、その圧倒的な余波の衝撃波で、哀れなほど一瞬で消し飛ばされて壊滅していった。  純白の氷竜は最大質量で敵の核を完全に圧殺した。  バゴォォォン! と音を立てて『レディ・イン・ザ・レイン』は完全に崩壊し、池袋は静寂に包まれる。  敵撃破の瞬間、エンブリオによる【記録再生魔法】が最終駆動した。戦闘中の破壊、巻き込まれた人間たちの死亡、飛び散った肉片は、時間が逆再生して一瞬で何事もなかったかのように綺麗に復活していく。池袋は、ただの「雨上がりの少し賑やかな街」へと戻った。  ただし──直忠の受けた精神的ダメージと、ドロドロに汚れた高級スーツ、そして気絶したままの直忠の肉体だけは、そのままであった。  人間の姿に戻ったジーヴァが、濡れたアスファルトの上をゆっくりと歩み寄る。  白髪オールバックを濡らし、紫の瞳で、泥と血とゲロに塗れて気絶している直忠を見下ろした。 (なぜだ……オメガなんて、ただの繁殖の道具、あるいは星の子への繋ぎに過ぎないはずなのに……なぜ、この泥塗れの男が、これほどまでに愛おしく、脳を支配する──? 理解が、出来、ない……)  ジーヴァの胸の奥で、冷徹な理性を焼き切るような強烈な感情 of バグが、静かに、しかし決定的に灯っていた。彼は無言のまま、直忠の身体を抱き起こし、自分の膝の上に引き乗せた。  その顔はどこまでも冷徹天然な美貌のままであったが、その腕は、気絶した直忠を二度と離さないと言わんばかりに、強く、深く、抱きしめていた。ジーヴァは、己の胸に宿った「本物の恋心」を、微かに自覚し始めていた。 ◆  ──「ジ、ジーヴァ様ッッ!!」  慌てた様子の職員がジーヴァの元まで駆け寄ると敬礼した後、「あっ」とか「うっ」とか云いながら身振り手振りで混乱しているのが見てとれた。  ジーヴァは胡乱な目をしながら暫くその職員の一人劇場を眺め、飽きてきたので「なに」と声を掛けた。 「そのっ、はっ、……真宵様に強制ヒートが起こって、解こうとしたのですが……宗像司令官が仰るにはペナルティ3の強制ヒートが発動、それがあまりにも強すぎて術式担当の職員達が倒れました!!」  と息を乱しながら青ざめた顔でジーヴァに訴え掛けた。  ジーヴァは無表情で冷静に「なに。アレ(直忠)まだ家に戻して無かったの」と云う。 「無理です!! あまりにもヒートが強力過ぎて、関わった職員が全員卒倒しました!!」  そう云われて、(面倒臭い事になった……)とジーヴァは頭の中でぼやいた。 「人払いはしておりますので、よ、宜しくお願い致します!!」  ナニをヨロシクされたのかちっとも理解出来ないが、兎に角、職員は頭を下げると改めて敬礼しその場をばたばたと去って行った。  溜め息を吐きながらジーヴァは直忠の居る部屋へと向かった。

ともだちにシェアしよう!