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15孤独に捧ぐララバイ①

 クラブ・イシュタルに放り込まれてから、数ヶ月が経ったらしい。  カレンダーの数字を数える機能は、俺の脳ミソからはとっくに摩耗して消え失せていた。その日は、エンブリオが管理するこの巨大なファタモルガナで、初めての「定期検疫」──もとい、健康診断ってやつを受ける羽目になった。専属の医者が、俺という『器(ヴェセル)』の肉的耐久度を測定するらしい。  白衣を着た恰幅の良い初老の先生は、まるで家畜の競り市で上等な肉を選ぶように、丁寧で親切な手つきで俺の五体を調べ上げた。結果は、至って健康。鉄パイプと焦げたレバーの味がべっとりと張り付いた俺の舌が、どれだけ飯の味を拒絶していようが、組織の精密機械は「生存に問題なし」と冷酷な太鼓判を押してくる。  だけど、大真面目に前々から気になっていたクソみたいな疑問が、俺の喉の奥からせり上がってきた。誰かに性事情、それも発情の話をするのは、元奴隷闘士の俺だって流石に恥ずかしい。だが、そんなもん、四の五の言ってられるかってんだ。 「──あの、先生。俺の前立腺、普段は完全に腐った泥みたいに死んでるんスけど、コル・ドラコの連中や、宗像のおっちゃ、じゃねぇ司令官とヤる時だけ、脳ミソのヒューズが飛んだみたいに覚醒するんスよ」 「ふむ……」  先生は顎に蓄えた綺麗な髭を優しく撫で、うんうんと頷いた。その目は優しげだったが、どこか顕微鏡のレンズ越しに珍奇なアメーバを観察するような、乾いた光が混ざっている。すぐに、追加の精密検査──俺の血液と分泌液を、冷たいガラス管に吸い上げる作業が始まった。  後日。再度呼び出されて診察室の重いドアを開けると、無機質な静電気の匂いが鼻を突いた。椅子に座るよう促され、俺は太もものシックスパックにうっすらと汗をかきながら、恐る恐る検査結果のモニターを見つめた。 「──真宵直忠君。君のデータベースから、僕の権限で閲覧できる『深層』を調べてみたんだがね。驚いたことに、君の身体は普通のオメガのヒートを起こさないことがわかった」 「うっす……?」 「普通、通常起こるヒートというのは、一定期間おきに肉体が強制的に発する潮汐のような生理現象だ。だが君の場合は、システム自体が起動していない。……1つ、質問しても良いかな?」 「うっす!」  質問? 何だ?  ドクドクと、胸の奥で心臓が錆びたピストンみたいに跳ね回る。緊張で黒レースブラのワイヤーが、ムチムチの胸板に食い込んで痛い。だけど、まだ発情期を迎えていないってどういうことだ? だって俺、堕竜の毒が溜まるとペナルティで熱が出て、あのゾンビ大群を呼び寄せる『強制中枢狂乱』の強制発情ハザードがバカみたいに起動するっていうのに──。 「君は──とても鼻が利きすぎる、ということはないかね? ああ、誤解しないでくれ。単に匂いを嗅ぎ分けるという意味じゃない。相手の『感情の興奮度』が、揮発したガスのような匂いとして脳に直接流れ込んでくる……という意味だよ」 「あ、──」  思わず、全身の傷跡だらけの指先で口元を覆った。確かにそうだ。あいつらが興奮した時、獣の耳をピクつかせながら発する、あの脳が破裂しそうな「心の声」。あれは、俺の鼓膜じゃなくて、鼻の粘膜が異常な濃度でアルファのフェロモンを吸い上げて、脳の認識規則をバグらせていたんだ。 「やはりか。どうやら君の肉体は、異常なまでの特異体質のようだ。嗅覚の受容体(レセプター)が過剰に変異している。相手の匂いに脳を文字通り『充てられて』、一時的なバグ作動、つまりごく局所的な発情が引き起こされている。恐らく、君の脳を破壊するほど相性の良い特異な匂い(アルファ)だけが、その致命的な起動トリガーになっていると云っていい」  先生はそこで一度言葉を切り、灰色のキーボードをカタカタと叩いた。液晶の青白い光が、先生の眼鏡の奥の瞳を、昆虫の複眼のように無機質に反射している。 「ただ……非常に言い難い、凄惨な事実なんだがね。君の体内には確かにオメガの絶対法則である『本物の子宮』が宿っている。にもかかわらず──君の身体が例えヒートを起こしたとしても受胎する確率は、現段階で、ほぼ0に近い」  先生の声のトーンが、まるで不良品の水耕栽培カプセルを廃棄処分にする時のように、わずかに曇った。 「絶対に受胎しない、という訳では無いのだがね……。勿論、今後の変異や環境刺激によって、システムが正常に子宮を起動させる可能性は充分にある。だからそう悲観することはないよ、安心したまえ」 「因みに、すでに複数の上位アルファや特務機関幹部との『交接行為』は経験済みとのことだが……その、子宮口の深部へ直接、最深部まで到達(ペネトレーション)されたことはあるかい?」 「え~と……そこまでは、まだ未遂っスね」 「なるほど……まあ、兎に角だ。すぐに何か肉体的なエラーや最悪の事態が起こるという訳でもない。ハッハッハ!」 「……ところで、人間界では運命の番というロマンチックな伝承があるのは知ってるかね?」 「聞いたことあります。あれっすよね? 文字通り相性ピッタリの特別な運命で結ばれた番のことっすよね」 「そうそう。因みに魔人が居た天界にもそういう伝承があるんだよ」 「へぇ~どんなですか?」 「魂の番。文字通り、魂で繋がっている。天界にも遠い昔にはオメガが居た───しかし今はアルファしか存在しない。だから下界(ここ)に下りてきた。これはあくまでも噂だが───堕竜は元々魔人の片割れ、もしかしたらオメガだったのではないか? そして、神の座から下ろされた───オメガで無くなった堕竜は失った子宮を求めてる。日本を狙うのはそこに堕竜の子宮の生まれ変わりが居るから───なんて、話もあるね。伝承では魂の番の痛みすら肩代わりするとも云われている」 「堕竜の子宮の生まれ変わり……痛みの肩代わり……」  先生は俺のムチムチした太ももが緊張で硬直しているのを察してか、家畜を安心させるような穏やかな微笑みを浮かべると、ぽんぽんと俺の肩を叩いた。その手の温もりだけが、この無機質な白い部屋で唯一、人間の血の通ったものだった。  お礼を言って頭を下げ、診察室の重い防音扉をすり抜けた。  俺は、宗像のおっちゃんに支給された黒レースブラが擦れる胸板を丸め、自分のお腹──オメガの絶対法則が眠るという下腹部を手のひらで擦りながら、廊下を歩いた。 いつか──本当に、いつか。  地下闘技場の奴隷として、他人の血と泥を啜りながら適当自堕落に生きてきた人生だけど。俺にも好きな人が出来て、普通の家庭を持って……子供が出来て……。そんな、硝子細工みたいに漠然として不透明な将来の、ほんの一粒を、この世界の理不尽な神様の手によって気まぐれに毟り取られたような、そんな奇妙な空虚が胸の奥に広がった。  ハッとして首を振る。陰気臭いのは俺のタマじゃねえ。フンスと鼻息を荒く吹かすと、俺は自分自身に言い聞かせるように、ゴツゴツした拳を握り締め、うんうんと頷きながら一人で呟いていた。 「いやいや! 妊娠の可能性が0に近いってだけで、絶対にしないって訳じゃねえって先生も言ってたしな!  大丈夫だって、俺の身体は無駄にタフなんだから!」 「へえ──。君、オメガの癖に、次世代を残す確率がほぼシステムエラー(ゼロ)だなんて。驚きを通り越して、ちょっと面白いね」  突如、鼓膜の裏側へ滑り込んでくるような声がした。びゃっと背筋に冷水が走るような感覚に身体を震わせ、驚いて振り返ると、そこには見知らぬ男が立っていた。俺が地下闘技場仕込みの野生の警戒心で身構えるよりも早く、その男は爽やかで人好きしそうな、あまりにも完璧な笑顔を浮かべたまま、ぬう、と俺の鼻先にまで顔を近付けてきた。 (ち、近ぇ……!! 睫毛の数が数えられそうなんだけど!?)  向けられた微笑みに視線を絡め取られた瞬間、足元から底なしの沼に沈んでいくような錯覚に囚われた。  そこにいたのは、あまりにも知的で、驚くほど人当たりの良い爽やかさを湛えた男だ。  さらりと流れるプラチナブロンドの髪は上品なボブとハーフアップに結われ、宿舎の照明を滑らかに反射して神秘的なハローを紡いでいる。 完璧な造形で整えられた灰褐色肌の顔立ちには、切れ長の輪郭を美しく縁取る鮮烈な青の隈取りが施され、ジャッカルの耳が微かに揺れるたびに、人智を超えたレガリア一族としての妖艶な魔力をこれでもかと放っていた。  長い睫毛の奥で、優しげに細められた銀眼の双眸に俺の姿がハッキリと映り込んだ瞬間、胸の奥が心音を忘れたようにひやりと凍りついた。  その男の額から天へと伸びる双角は、まるで冷徹な計算を司るアンテナのように凛と美しく、男のまとう『竜の心臓』の特別仕様隊服──青と黒のグラデーションに不穏なほど完璧に調和している。  気さくな好青年のオーラを完璧にコントロールしながらも、男の瞳の奥は一切笑っていない。そいつが柔らかく口角を上げ、外堀を埋めるような巧みな歩みで距離を詰めてくるたび、背後で静かに佇むジャッカルの尻尾が、逃げ場を失わせるサイコパスの重圧となってこちらの皮膚を粟立たせる。  笑顔のままこちらの全細胞をハッキングしてくるような、底の知れない暗黒の独占欲と圧倒的なビジュアルの美に、俺はただただ魂を毟り取られるように魅入るしかなかった。 そして何より脳がバグりそうになったのは、その男の額だ。プラチナブロンドのハーフアップの髪が微かに揺れるその隙間に、閉じられた『第三の目』の横の裂け目が、はっきりと刻み込まれていた。  男がクスリと、俺という存在を値踏みするような意味深な笑みを浮かべる。その瞬間、俺の過剰変異した嗅覚の粘膜が、コイツの輪郭を捉えた。 (この──独特な、脳の奥がチリチリする匂い。これは、『竜の心臓(コル・ドラコ)』だ……!)  ナハトやモルドレッド、ジーヴァやミハイルの、あの脳破壊された狂犬どもが撒き散らしていた竜のフェロモン。それらと完全に共通する遺伝子の残響を、俺はコイツの皮膚の裏側に見つけた。コル・ドラコの魔人どもは、何とも形容し難い共通の匂いを持っている。死線をくぐり抜けた猛獣の体臭。それは決して不快な臭気ではなく、どこか甘く、野性味の尖った鋭い誘惑の匂い──。  五感を消失しかけている今の俺にとっては、皮肉なことに、それが狂おしいほど心地よく脳の髄へ沁み渡っていくのだった。  ト……、と。あまりにも自然な所作で、男の人差し指が、棟方支給 of 黒レースブラに守られた俺のへその下──ちょうどさっき医者から「機能停止(エラー)」を告げられたばかりの下腹部へと突き立てられた。 「じゃあ、中出しし放題だね」  爽やかな笑顔のまま、男は文字通り臓物を引き摺り出すような非道い台詞をのたまう。 「……は? アンタ、何の話してんの?」  俺は眉を顰めると、初対面にしてはあまりにも無作法で失礼なその魔人に視線を合わせた。すると男は、まるで地下闘技場のドロドロの賭け試合で勝った胴元みたいに馴れ馴れしく俺の肩を組み、まあまあと宥めるような声を出しながら、吐き気がするほど甘い声でこう続けた。 「良いかい? ゴリラ君。坊やは『生』でヤることの至高の素晴らしさを、まだシステム的に理解出来ていないようだ。スキンを付けた上からでは決して味わえない、粘膜よりも敏感な、生身の、肉が爆発するような快楽がそこにはあるんだよ。これこそが本当の意味で、魂のレベルで繋がっているって事だと俺は思うね」  今、ゴリラって言ったな? 霊長類最強の、檻の中でバナナ食ってるあのゴリラって言ったなコイツ? 「確かに生は最高だよ。そこは俺としても100%同意する。でもって、防壁も何も、コル・ドラコの魔人どもは元からそんなスキンなんか要らねえだろ」  俺はそう吐き捨てながら、この不躾な男のホールドから逃れようと、肩に回された腕を押し返した。だが、鉄パイプを素手で握り潰すようなコル・ドラコの馬鹿力だ、びくともしやがらねえ。 「あれ。俺のこと、知ってるの?」 「知らねーよ。お前みたいに顔が良くて失礼な奴、一回見たら忘れるかってんだ」  男はくくっと喉の奥で、ハイエナが獲物の骨を噛み砕くような不穏な音を鳴らして笑うと、「云うねぇ」と俺の刈り上げポニテの頭をぽんぽんと叩いた。チクショウ、俺よりほんの少し背が低いくせに、なんでこんな圧倒的な格上捕食者ムーブをかましてきやがるんだ。

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