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16実験セクター44号、および夜空のブルースクリーンについて前編①

 ──蝉の一生は、長いようでいて酷く短い。  冷たく暗い土の底で、早くとも3年、長ければそれ以上の歳月をじっと耐え忍ぶ。  そうしてようやく辿り着いた地上の光のなかで、彼らに許された時間は運が良くて1ヶ月、平均すれば僅か1週間きりだ。  四方から迫る外敵と天敵の目を掠め、生き延びること自体が奇跡に近い。  途方もない潜伏の果て、ようやく掴み取った地上での生は刹那の如く掻き消えていく。  今年もまた、その儚き夏の風物詩たちが、命をすり潰すような大音量でわんわんと鳴き喚き、必死に雌を求めていた。 ◆ 「は──、あっつぅ……」  団扇で首元をせわしなく扇ぎながら、額から噴き出す汗を拭う。  今年も例年通りの容赦のない猛暑だ。  お使いを頼まれて外からイシュタルまで帰って来たが、次から次へと汗が滝のように滴り落ちていく。  その時、不意にうなじを襲った強烈な冷感に、俺は「うおあぁ゛!!」と底抜けに情けない悲鳴を上げて飛び上がった。  振り返ると、慶太がニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべ、缶ジュースを片手に佇んでいる。 「お疲れー。ほら、少し休もうぜ」  俺はありがたく頷き、慶太と共に隔離特区クラブ『イシュタル』の店内へと退避した。 「あつい~~、もう一歩も外歩きたくない~~」  フロアでは、キャストたちが魂の抜けたような顔でうんざりと呟いていた。  涼しげな太腿を大胆に露出し、大股開きでソファにどっかりと腰を下ろす姿は、まさに「よっこいしょういち」とばかりに項垂れている。  エアコンがガンガンに効いているとはいえ、外から持ち込まれた茹だるような熱気の前には、文明の利器も形無しだった。  通常、この世界のキャストたちにとって、上位客から同伴指名を貰うということは、その夜の過酷な『奉仕』が免除されることを意味する。  毎晩毎晩、やれあっちの専用席、そらこっちのベッドと、休日以外は休む間もなく夜のキャストをこなしている彼らにとって、昼間の同伴だけで業務が済むのは破格のラッキーなのだ。  例えば、いま世間で話題の映画があるとしよう。  本来なら貴重なキャストの休日を潰さなければ観に行けない代物だが、同伴ならそれ自体が任務(仕事)になる。  客におねだりして映画を観せてもらい、ついでに欲しい物まで買ってもらえる。  己のプライベートを一切犠牲にすることなく、残りの時間は部屋でだらだらとのんびり過ごせるのだ。  ──しかし、この殺人的な夏の間だけは、その法則が完全に反転する。  指名が入ろうものなら、容赦なく照りつける太陽の下、あるいは不快な湿気がまとわりつく熱帯夜の下、小綺麗に着飾って歩かねばならない。  場合によっては、涼しい顔をしてお洒落で可愛い服やスーツを着込む羽目にもなる。  特に昼間の炎天下となれば、滝のように流れる汗のせいで、プロの完璧な化粧すらあっという間にドロドロに溶け落ちてしまうだろう。しかもその対策も楽ではない。  こればかりは、とてもではないがラッキーとは呼べなかった。  かくして、冷房の冷気が吹き溜まるフロアの片隅には、行き場を失った大量のアザラシ──もとい、暑さで完全に野生を忘れたキャストたちが、肉塊のように身を寄せ合って群がっていた。  フロアに転がるキャストたちは、皆一様にボックス席の冷たいレザーに寝転がり、さながら打ち上げられたトドか死体の如くゴロゴロと虚無を貪っていた。  そこへ、くたびれたスケベおっさんこと宗像オーナーが、いつも通りの胡散臭い笑みを浮かべて現れる。おっちゃんはパンパンッと小気味よく手を叩き、死体たちの注目を集めた。 「え──皆、ちょっと聞いて~?  朗報朗報、グレ───ッツな朗報だよ!」  だらけきった空間に、おっちゃんのお気楽な声が響く。 「日本防衛特務機関エンブリオからの指示により、コル・ドラコ主導で『ノーブル・ドール組』と『ノーブル・ダルジャン組』のアルファ・ベータ候補生一同が、1ヶ月の合同訓練として離島に行くことが決まりました。で、なんと不憫なサポート役として、お前たちイシュタルの面々も一緒に行くことが決まったわ。まあ、有り体に言えば、ただのバカンス、つまり夏休みだね」  シ──ン……。  一瞬の間。フロアを支配する圧倒的な静寂。  次の瞬間、ワッ!!!! とイシュタルの店内が激しく沸き上がった。  先ほどまで死体が転がる無縁仏のようだった墓場はどこへやら、キャストたちはお互いに手を叩き合い、キャアキャアと黄色い悲鳴を上げて狂喜乱舞している。  文字通りの死者蘇生、ネクロマンシーである。  「こほん」と、おっちゃんが一拍置いてわざとらしい咳払いをした。  途端にピタッと静まり返る店内。このあたりの調教のされ方は流石というほかない。 「ただし、俺とスタッフ一同は行きませ~ん。あ、ナオちゃんは別ね。これはあくまで前線メンバーたちの訓練だから、その高尚なサポート(雑用)としてお前たちがついて行くわけ。いくら夏休みだからって、ちゃあ~んと仕事してもらわないと……」  ビシィッ!!  おっちゃんが徐ろに腰から取り出したのは、どう見ても趣味の領域にしか見えない黒い鞭だった。それが容赦なくしならされ、フロアの床を鋭く叩きつける。  なんだぁ? おっちゃんの私物かぁ? つまり夜のベッドで大活躍している愛用品かぁ? これで可愛いオメガに引っ叩かれたいお年頃なのかぁ? 「もしサボる奴がいたら……イシュタル100周、腹筋100回、腕立て100回、トイレ掃除1ヶ月、床掃除1ヶ月、夜指名専用部屋のベッドメイキング1ヶ月……お分かりかな?」  オーナーの底知れない笑顔の威圧に、キャストたちは一様に顔を真っ青にさせ、必死の形相でぶんぶんと首を振った。  あまりの勢いに、首の骨が関節ごとロールバックを拒否して消し飛ぶかと思うほどの拒絶の首振りだった。  ──ちなみにこれは後から聞いた話だが、俺たちが離島で汗を流している間、おっちゃんは他のクラブでお気に入り(Ω)を日替わりで取っ替え引っ替えしながらプライベート旅行を満喫し、裏方スタッフたちもそれぞれのパートナーとデート三昧で1ヶ月の有給を消化していたそうな。  まあ、彼らは普段から死ぬほどの過密労働をこなしているのだから、こういう時くらいゆっくり羽を伸ばしてほしいという気持ちは本物だったので、俺は心からほっと胸を撫で下ろしたのだった。  ──しかし。しかし、だ。 ◆ 「「う──み──!!!!!!」」  突き抜けるような青い空、どこまでも白い砂浜、そして目の前に広がるエメラルドグリーンの美しい海。  おまけに振り返れば大自然の山もあり、清らかな川もある。  イシュタルのキャスト共は、溜まっていたすべての鬱憤を吐き出すように目一杯叫びながら砂浜へと飛び出していく。  だが、この離島──『胞衣子島(えなこじま)』という場所は、どうもまともなリゾート地ではないらしい。事前に小耳に挟んだ話によれば、ここは昔、旧エンブリオのお偉いさんたちが表沙汰にできないヤバい人体実験を繰り返したり、有害な概念ゴミのパージに使っていたセクターの廃棄跡地なのだという。  ──遠い昔。世界が何だかよく分からない致命的なバグに直面したタイミングで、この島の職員が『全員一斉に入れ替わった』という奇妙な公式記録が残っている。  でもよ、と俺ちゃんは思うのだ。  それって普通の組織改編や総入れ替えじゃねえだろ、絶対。前にいた大量の職員たちが一体『何をやらかして』、完全に『何処へ消えたのか』。いま島に住んでいる人間に聞いても、誰も何も知りゃしねえ。  っていうか、新しい職員たちの目の玉には、最初から『その過去』を禁句の戒めにするための、強力な認識フィルターが焼き付けられているみたいなんだよな。  地下闘技場の奴隷時代、毎日のようにやらされた死体片付けの時と同じだ。肉が完全に腐り落ちる手前の、あの乾いた世界のバグの臭いが、この島全体からほんのりと漂ってくる。 「……なーんてな! 脳みそがムチムチのシックスパック並みに薄い俺ちゃんが、こんなマジメな顔して考えたって、頭の奥で焦げ付いた概念飢餓のフレーバーが増すだけだし!  わーい海だあ! 最ッッッ高にクールだぜぇ~~~~~!!!!」  俺は新しく買ったバルクサポーター(水着仕様)を盛大に揺らしながら、底知れぬ島の違和感なんて海の彼方へ放り投げ、ギラギラと照りつける灼熱の砂浜へ元気いっぱいに駆け出していった。  ──生まれて初めて生で見る海に、俺が内心めちゃくちゃ興奮していたのは確かだ。  この日のために、ノチェルオと炉舞の三人で連れ立ってエッチな水着を買いに行ったし、その場のノリでやたらと巨大な浮き輪まで購入してある。  準備は文字通り万端。いや、遊びに行くわけではなく、あくまで「過酷な合同訓練のサポート業務」なのだが。  しかし、島に足を踏み入れた俺たちを待ち構えていたのは、あまりにも残酷な現実だった。  1ヶ月の間、全員が寝泊まりすることになる巨大な屋敷。  あえて嫌がらせで放置されていたのか、それとも単に忘れ去られていたのかは分からないが、一切の手入れがされておらず、視界の至る所がクモの巣と分厚い埃だらけ。まずはこれを一から這いつくばって掃除しなければならなかった。  それだけではない。  この島にいるのは1ヶ月の間、候補生とキャストの身内だけ。  流石に総勢400名もの大所帯だ。厨房に食事を作ってくれる料理人自体は手配されているものの、配膳や片付け、山のような皿洗いをしてくれる従業員なんてどこにも居やしない。  食材こそ定期的に輸送機でガサッと運ばれてくるが、料理人たちだけではとても手が回るはずもなく、当然のように俺たちキャストがその激務を手伝わなければならなかった。  候補生たちは昼と夜、交互に過酷な合同訓練を行う。  その間、俺たちキャストが広大な屋敷の清労や料理の手伝い、雑用全般をすべて不眠不休の勢いでこなさなければならないのだ。  おっちゃん……笑顔で鞭をしならせていたあのくたびれたスケベ親父は、やはり本物の鬼だった。  かくして、島での最初の丸一日は、全員で屋敷の大掃除を行うことに決定した。 「こら──!! あんた達ちゃんと掃除しろ──!!」 「箒でフェンシングの真似事すんなボケナス!!」  埃の舞う屋敷内に響き渡る大声。怒声。そして魂の咆哮。  そのすべてが、額に青筋を立てたイシュタルのキャストたちによるものだ。  彼らがキレ散らかしている原因は──箒や塵取りを武器に見立てて、きゃっきゃと遊び呆けているアルファ・ベータの候補生どもに対するものだった。脳味噌ハッピーセットか。  まるで、真面目で正義感の強い委員長が、大掃除をサボってふざけている同級の生徒を怒鳴りつけているような、そんなベタな光景がそこかしこで繰り広げられている。 「なあなあ、ゴリラ君。ゴリラ君ってさ、いま特定のパートナーとか居るの?」  不意に、遊び半分で雑巾を丸めていた候補生の1人からニヤニヤと声を掛けられ、俺は床に向けていた視線をゆっくりとそちらへ向けた。  ひぃ、ふぅ、みぃ……見れば、10人ほどの候補生が、品性の欠片もない薄笑いを浮かべてこちらを取り囲んでいる。  それはまるで、動物園で珍妙な猛獣を安全なガラス越しに眺めて楽しんでいるかのような、酷く不躾で浅薄な雰囲気だった。 「……ぽっくんにはぁ~? 『真宵直忠』という立派な名前がありますのでぇ~」  俺がぞうきんをバケツに絞りながら寄り目に威嚇すると、候補生たちは顔を見合わせて爆笑した。 「ぶはっ、ぽっくんだって!!」 「やベェ──!! マジでゴリラが喋ってるみてえ!!」  何がやベェだ。俺より語彙力を著しく低下させてどうするんだ、この誇り高きエリートの諸君は。  彼らはお互いに肩を寄せ合い、俺に聞こえていないとでも思い込んでいるのか、小さく、だが確実に響く声で囁き合い始めた。 (でもよ、本当にあの噂マジなのか?) (ああ、ダルジャン組のトップたちが全員こいつに虜ってやつな。何でも既に4人とヤってるとか……) (普通の指名じゃ絶対に落とせないって聞いたぜ) (そこまで骨抜きにされないと抱けないって……見た感じ、そんな凄そうに思えないけどなぁ。ただの継ぎ接ぎ傷だらけのオメガじゃん)  下劣な詮索の空気が、果実の甘い香りに混ざってフロアの埃っぽさをチクチクと刺激する。  その時、廊下の向こうから、周囲の喧騒を一切無視した凄まじい威圧感を放ちながら、素知らぬ顔で通り過ぎようとする男の姿が見えた。 「あ、ナハト」  俺はいつもの調子で、その黒い三編みオールバックの頭を引き留めるように声をかけた。  途端に、俺を取り囲んで調子に乗っていた10人の候補生たちが、まるで冷水を浴せられたかのようにぎょっと身を強張らせ、ピシッと敬礼した。そして俺とナハトの姿を交互に見つめた。 「何処行くんだよ? サボるんじゃない。ちゃんと掃除をして下さい」  ピッと人差し指を床に向けながら声をかけると、ナハトは心底面倒臭そうにチッと派手な舌打ちを漏らした。態度悪……ッ。  すると、ナハトは俺の目の前にすっと自身の美しい指先を持ってくると、不意に親指と中指でパチンッと軽快な音を鳴らした。  ガララララララッ!!!!  一瞬にして1階の窓という窓が文字通り一斉に跳ね上がったような、凄まじい爆音が屋敷内に響き渡る。誰も触れてもいないのに、俺の目の前にある年代物の窓枠までが勝手にガタガタと開いたのだ。  直後、目を開けていられないほどの猛烈な強風がフロアを吹き抜け、驚天動地、何処から現れたのかきらめく魚の大群が、屋敷の廊下をゴオッ!! と音を立てて泳ぎ抜けていった。水など1滴もない空中を、まるで濁流のように魚たちが鱗を光らせて疾走したのだ。  そして魚の群れが窓から外へ去ると──何ということでしょう。あんなに埃とクモの巣だらけだった1階フロアの全てが、まるで新築の如くピカピカに磨き上げられていた。  恐らく、今の俺は言葉通り呆れるほどの間抜け面を晒していたと思う。  唖然として口を開けたまま立ち尽くす俺の様子を見て、ナハトはフッと満足げに軽く笑うと、俺の肩をポンポンと親しげに叩いて、そのまま優雅に去っていった。 「な、何が起こったんだ……」 「今のはあれか? ナハト隊長、召喚獣にでも掃除をやらせたのか……ッ!?」 「恐らく星座──黄道12星獣・魔導兵器:コード・アストロってやつじゃないか? 流石の俺たちアルファでも、あんな高位魔導は逆立ちしたって無理だぞ……。あの真宵直忠とかいうオメガからの掃除の命令1つで、あそこまでの大魔導を発動させたというのか……ッ!」  う~~んと深刻な顔で唸り、勝手に高度な考察を始めるモブ候補生たち。  成る程。ナハトは何か普通では有り得ない特別な方法で小魚を大量に操り、一気に一階の掃除を終わらせてしまったという事か……。うん、ますます訳が分からん。召喚獣の無駄遣いにも程があるだろ。  何はともあれ一階の掃除が終わってしまったので、俺はこれ以上考えても答えが出ないであろうと脳の思考をシャットダウンして諦め、まだ手付かずの2階へ行く事にした。 「──ねえ、なんで着いて来んの?  着いてくるなら掃除してくれんの?」  俺はジト目を隠そうともせず、後ろからぞろぞろと大名行列のように付いてくる10人のモブ候補生の野次馬たちを振り返った。  彼らは「え? 何のこと?」とばかりに素知らぬ顔を決め込み、頭の後ろに腕を組んで、下手くそな口笛を吹きながら視線をあちこちに泳がせて誤魔化している。授業の休憩時間か。  はあ、と深い溜め息を漏らしながら木製の階段を上がっていくまじい悲鳴が聞こえてきた。と、突如として上層階から、鼓膜を突き刺すような凄  慌てて悲鳴の発生源である廊下の奥へ向かうと──そこではイシュタルのキャストたちがキャーキャーと抱き合いながら、涙目で本気で怯えていたのであった。 「キャー!! 蜘蛛ー!! 蜘蛛が出たんだよぉぉ!! いやああぁあ!!」  お前達は可憐な乙女か──ッッ!! 一応、股間には俺と同じように立派なもんが付いてる男のくせに、この体たらく。情けない。お母ちゃん情けないよ。ヨヨヨ。  キャストたちは握り拳を作った両手を胸元できゅっと握りしめ、いやいやと激しく首を振って冷や汗を滲ませながら、生まれたての小鹿のようにガタガタと震えて情けない姿を晒している。  おいおい、それくらいのサイズの蜘蛛なら、俺が住んでるマゾン高円寺の格安アパートの脱衣所で腐るほど見たわい。一々パニックを起こすな。  視線をその恐怖の根源へと向けると──そこには、箒の先端に巨大な蜘蛛をぶら下げ、それを「うりうり~」とキャストたちの顔面に押し付けるようにして、ニタニタと底意地の悪い笑みを浮かべるモルドレッドの姿があった。 (やることが完全にタチの悪いガキ大将のそれ……)  灰色の長髪を揺らし、ギザギザの歯を見せて楽しそうに嫌がらせをしている色欲のアルファを前に、俺は本日2度目の深い溜め息を心の底から吐き出すのだった。 「あ~ん! ナオちゃ~ん! 助けてぇ!」  俺の姿を認めた瞬間、キャストたちがまるで救世主を見つけたかのように、慌てて俺の背後へと滑り込んできた。  大の男が10数名、俺のムチムチとした褐色シックスパックを盾にするようにしてガタガタと震えている。  余程虫の類が苦手なようだ。夜の街で客を転がしているいつもの快活さは微塵も感じられない。 (まあ、この狂った暑さの中、いつもの調子で激しく営業されたら逆に暑苦しくてたまらないのだが) 「おう、なんだァ。直忠ァ、俺とやる気かァ?」  クックックッと喉を鳴らし、ドスの利いた口調で挑発してくるモルドレッド。  だが俺は、そんな色欲 of アルファの脅しを完全に無視し、徐に太い腕を伸ばすと、箒の先で蠢いていた蜘蛛の糸を素手で躊躇なく掴み取った。そして、そのまま窓の外へとポイッと放り投げた。 「あァ……ッ!? お前ェ、何しやがるッ! 折角捕まえたのにィ……ッ!」 「下らない脳味噌ハッピーセットみたいな嫌がらせをしてないで、さっさと自分の持ち場を掃除して下さい」  俺が淡々と言い放つと、背後でキャストたちが「ふ──ッ」と一斉に安堵の胸を撫で下ろした。  モルドレッドは頭の後ろをガシガシと不機嫌そうに掻きむしりながら、「へいへい」と不貞腐れたようにぼやき始める。 「……チッ。立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花……くれェの可愛げは、お前ェの継ぎ接ぎだらけの身体には一片も無えもんかねェ」 「え~? 何か云ったぁ~?」 「い~~え~~? 何も云ってねえよォ!」  ギザギザの歯を剥き出しにしてそっぽを向くモルドレッドをスルーしていると、キャストの一人が涙目を拭いながら俺の肩にすがりついてきた。 「本当に助かったよ~ナオちゃん。もう蜘蛛だけはマジで無理でさぁ……」 「よぅ」  その時、不意に背後から、低くもどこか華のある声が掛けられた。  振り返ると、そこに立っていたのは、イシュタルでも見掛けたことのない特務機関の隊服を身にまとったドラコだった。  トレードマークは、今時珍しい見事なポンパドールのストロベリーピンクリーゼント。背は低いが鋭い眼光と堂々たる体躯は、さながら圧倒的カリスマのオーラを放っている。だが、その顔立ちは驚くほどの美青年だった。 「俺の仲間が、お前たちに余計な世話を掛けちまったナ。お詫びと云っちゃなンだが──」  彼は不敵な笑みを浮かべて徐にパンッと両手を叩いた。  ポポポポポンッ!!!!  何もない空間から、突如として小さな星が散りばめられると共に、半透明の緑色をしたスライムの群れが大量にドロドロと出現した。スライムたちは各々が雑巾や箒を器用にその半流動的な肉体にめり込ませると、物理法則を無視した物凄い勢いで2階の廊下や壁を這い回り、一瞬にして全ての掃除を終わらせてしまったのだ。 「おい、アクシャラァ。アストロ(高位魔導)の使用は禁止じゃなかったかァ? 宗像のおっさんから、今回の掃除は自分の手でやれと釘を刺されただろォ。このアホみたいにデカい屋敷の掃除も、候補生の初心に立ち返るための訓練がナントカァ……」 「堅いこと云いっこナシだ、モルドレッド。こンなカビ臭い大屋敷、非効率な手作業でやってたら夜まで掛かっちまうゼ。それに、こんな雑用は早く済ませて、候補生の本来の戦闘訓練に時間をあてた方がよっぽどマシだろ?」 「……ケッ。まァ、それもそうだなァ」  モルドレッドとアクシャラの二人は、お互いに顔を見合わせて、うふうふと肩を震わせながら邪悪に笑い合っている。  良いのか? 本当にそれで良いのか? 特務機関の優秀な候補生たちを、そんな大魔導の不正利得で甘やかして良いのか? 仮にも未来の戦士を育てるべき隊長(コル・ドラコ)たちが、初日から思いっきり手を抜いているって……いや、脳みそムチムチの俺ちゃんには何の関係も無いな。  だから、しーらないっ。  2人の大物アルファをその場に残し、3階への木造階段を上がると、そこでは炉舞と慶太たちが、他のイシュタルのキャストたちと一緒に汗だくになって雑巾掛けをしていた。 「ん? なんだ、直忠か。もう1階の掃除は終わったのか?」  炉舞が俺の足音に気付くと、床に滑らせていた雑巾を一旦止めて上半身を起こし、バキバキになった自分の腰をとんとんと叩いた。 「ああ、まあ……ちょっと色々あって、終わったというか、終わらせられたというか……」 「なんだよ、随分と歯切れの悪い返事だな。あ~クソ、腰が痛え……。まともに動かねえぞ」 「もう疲れたよ~。限界だよ~、少し休もうよぉ……」  廊下の隅でバケツに寄りかかっていたノチェルオが、この世の終わりとばかりにうんざりした表情で、俺と炉舞を見上げて哀れっぽく訴え掛けてくる。  見れば、他のキャストたちも一様に肩を落とし、過酷な肉体労働に早くもくたくたになっているようだった。 「やっとるかぁ~~?」  気だるげな足音と共に、丁度そこに現れたのは、これまた特務機関の隊服に身を包んだ見知らぬドラコ──ではなく、こいつの顔には見覚えがある。  以前の健康診断の時と、クラブ『イシュタル』のフロアで、たま~に見掛けたことがあったはずだ。え~と、名前は……そうそう、アンヘル──だったっけ?  ラベンダーアッシュのアシメツーブロックを揺らしたその暴食のアルファは、床にへたり込むキャストたちの姿を見るなり、眉を顰め目を眇めて呆れたように深い溜め息を吐いた。 「なんや……全然進んでへんやないか。何サボっとんねん」  まるで激渋の渋柿でも丸齧りしたかのような、露骨に不機嫌な顔。お陰で折角の整った美形も台無しである。  そんな教官様の態度に、日頃の激務と殺人的な猛暑で神経を逆撫でされていた俺ちゃんは、バケツを床に叩きつけるようにして真っ向から睨み返してやった。 「俺たちを何だと思ってんの? どこぞの青タヌキの便利道具じゃねぇんだからさぁ。体力的にも精神的にも、物事には限度ってものがあるわけよ。しかも俺たちはオメガよ? か弱くて繊細なの。分かる? そもそもさぁ、ドールとダルジャン組のコル・ドラコ隊長様方が、ちゃ~んと候補生に掃除をするように最初の指示を出さないから、そこに居るアホの集団みたいな穀潰しばかりが増えて、その皺寄せが全部こっちに掛かってるんだよ! 馬鹿!」  ビシィッと指を突き出し、1階からずっと俺の後ろをのこのこと付いてきていたモブ候補生の野次馬集団を盛大に巻き込みながら、アンヘルをガン飛ばしで糾弾する。  それを食らったアンヘルは、気だるげな顔のまま「う……」と声を詰まらせ、あからさまに気まずそうに視線を泳がせた。  その隙を見逃すはずもなく、背後のキャストたちが一斉に大粒の嘘涙を浮かべ、追い打ちを掛けるように縋り付く。 「そうだよぉ、アンヘル様ぁ~~!  もう僕達くたくたで一歩も動けないよぉ~~!」 「オメガを虐めて楽しいんですかぁ~~!?」  数多の客を狂わせてきたイシュタルのキャスト総出による、執拗かつ濃厚な精神パルス。 その凄まじい圧に屈したアンヘルは、「……はあ」と本日一番の深い溜め息を吐き出すと、懐から金色のコインを取り出し、それをピンッと空中に飛ばした。  その瞬間──3階の廊下にバチバチッと激しい電撃が走り抜けた。  凄まじい閃光の直後、カビ臭い廊下の真ん中に、青白い雷光をまとった、なんとも巨大で立派な2頭の牛と馬の幻獣が姿を現したのだ。  牛と馬は荒々しく蹄を鳴らし、鼻腔からフシュウーッと高熱の鼻息を噴き出す。そして3階の天井を震わせるような恐ろしい嘶きと咆哮を上げると、電気のバリアをまといながら、凄まじい速度で俺たち目掛けて一直線に猛突進してきた。 「「────ッッ!!!!?」」  余りの非現実的な光景に身体が完全に硬直する。この突進をゼロ距離で喰らえば、確実に生身の肉体が跡形もなく轢き潰される──そう直感して、俺は思わず強く目を瞑ろうとした。  しかし、予想していた肉体破滅の衝撃はやって来なかった。  なんと雷光の牛と馬は、俺たちの身体を一切の抵抗なくすり抜けると、そのまま3階の複雑な入り組んだ廊下をあっという間に一瞬で1周し、最後にバチンッと電気が激しく弾けるような大音響と共に掻き消えたのだ。  恐る恐る目を開けて周囲を見回せば──何ということでしょう(2度目)。クモの巣だらけだった3階の全域が、まるで鏡のように綺麗さっぱり、見違えるほどピカピカに磨き上げられていた。 「「「え……、えええぇええ~~ッッ!!!?」」」  俺以外のその場に居た全員が、まるで顎が外れるかと思うほど口をあんぐりと開けていた。今目撃した超常現象がとても信じられないのか、イシュタルの面々は一瞬の静寂ののち、どよめきと共に一斉に大声を上げた。 「なにこれ!? 手品!?」 「分かんないけど、すっご~~い!! 綺麗になってる!」 「でもさぁ……あんな一瞬で終わる便利技が使えるんなら、最初からやっておいてくれれば、僕たちが腰を痛める必要なんてなかったんじゃ……」 「確かに……絶対わざとサボらせてたんだわ……」  キャストたちが口々に思ったことを正直にブツブツと口走ると、アンヘルは顔を盛大にしかめて、いつもの関西弁のまま怒鳴り散らした。 「アホウ。 ホンマはこんな高位術式、雑用なんかで使ったらあかん云われとるんじゃ。……はあ、最悪やわ。本部に帰ってバレてたら、確実に上から怒やされるわぁ……」  アンヘルは力無くガックリと両肩を下げ、左右に首を振って、今後の説教ルートを想像しているのか表情をドロドロに曇らせていた。  しかしだ、と俺ちゃんは冷徹に思う。  これはそもそも、アンヘルの意志の弱さが引き起こした結果なのだ。俺たちは絶対に悪くない。決して。何故なら、ちゃんと候補生の指導をせずに初日からアストロで手抜きをしまくっている隊長たちの責任なのだから。  ──よし、そういう事にして脳内ロールバックを完了しよう。

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