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16実験セクター44号、および夜空のブルースクリーンについて後編②
肺の奥に溜まっていた水分が逆流し、激しく咳き込む。喉の粘膜を刺激する強烈な塩化ナトリウムの味が、機能停止しかけていた俺の意識を強引に覚醒させた。
「生きてる! 良かった、生きてるよ!!」
重い瞼をゆっくりと押し上げると、視界のなかに慶太たちの歪んだ顔や、青ざめた清守、そしていつの間にか戻ってきたコル・ドラコたちの面々が、代わる代わるに飛び込んできた。
「くそう、心配させよってからに……!」
アンヘルがこれまでにないほど深く眉を顰め、その大きな手で俺の身体を強く抱き起こす。
そのすぐ側では、ナハトが胸の奥に溜まった澱を吐き出すように、ふう、と深く長い息を漏らしていた。
次第に網膜のピントがハッキリしてくると、俺は己の五体の無事を確認するよりも早く、アンヘルの腕を押し退けるようにして清守の姿を探した。
「清守! 大丈夫か!?」
「……見れば分かるだろ」
相変わらずの不機嫌そうな面構え。けれど、俺を睨みつけるその瞳の奥には、いつも尖らせていた刺々しさが嘘のように、どこか柔らかく揺れる光が宿っていた。
「あれは、あれは……なんだ? 一体、何がいたんだ……?」
「分からない……」
清守は自身の細い肩を微かに震わせながら、力なく首を振った。
「コイツが何かに底へ引きずり込まれたてェのを、お前が遮二無二追い掛けて潜ったんだってェ?」
モルドレッドが俺たち二人に不審な視線を注いだ直後、やにわに立ち上がり、飢えた獣のような鋭い眼差しで静まり返る海面を睨みつけた。
「全く……死ぬつもりかよ!」
「心臓に悪いよぉ~~ッ!」
左右から炉舞とノチェルオに潰されそうなほどの勢いで抱きつかれ、俺はいつもの調子でへらへらとした愛想笑いを浮かべて誤魔化すしかなかった。
後から聞いた話だと、俺がいきなりシュノーケルを着けて海に潜り出したのを見て、周囲は最初こそ首を傾げていたらしい。
だが、何十秒が経過しても一向に上がってこないことに異常を察知し、全員が慌てて海に飛び込もうとしたその瞬間──俺が清守の身体を抱えて海面から飛び出し、そのまま気を失ったのだそうだ。
◆
その日の夜。
地獄の試練を突破したご褒美として、候補生たちは料理人が腕によりを掛けて作った豪華なパーティー料理に舌鼓を打ちながら、屋敷の中で大歓声のどんちゃん騒ぎを繰り広げていた。
俺はその狂騒から少しだけ距離を置き、静かなウッドデッキから外の海を眺めていた。
昼間のエメラルドグリーンの美しさは完全に鳴りを潜め、わずかな屋敷の灯りと外灯だけが、波打ち際を白く浮かび上がらせている。辺りは濃密な暗闇に呑み込まれており、どれほど目を凝らして遠くを見渡そうとしても、鼓膜を打つ重々しい波の音しか聴こえない。
「なにを見てんだよ」
不意に、背後の暗がりのなかから声を掛けられた。
振り返ると、そこには昼間の冷たい水に濡れた髪を乾かした、清守がぽつんと立っていた。
やっぱりと言うべきか、夜の灯りに照らされたその横顔は、何やら酷く不機嫌そうだった。
「ん~~……なんだろなぁ? 自分でもよく分かんねえや」
「昼間の事、考えてたのか?」
清守はウッドデッキの硬い木製の手摺に細い手を掛け、眼前に広がる、暗闇に浸食された砂浜を見つめた。
「怖いな」
「そうだな……」
俺たちはそれ以上言葉を重ねず、黙って寄せては返す波の音に耳を傾けた。
静かだ。
背後のガラス戸の向こうから漏れ聞こえる候補生たちのどんちゃん騒ぎが、まるで遠い世界の出来事のように掠れて聴こえる。
「……お前、一体何なんだよ?」
「え?」
不意に、清守が低く絞り出すような声で口を開いた。
「俺がコル・ドラコたちの『運命の番』としてここにいるはずなのに、ダルジャン組の連中は俺に目もくれない。それどころか、ドール組の奴らだって、あからさまにお前に興味を示しているみたいだし……」
「そんなこと訊かれたって、俺が知るわけねーじゃん。俺はただの人間だしさ」
「正直言って、目茶苦茶ムカつく」
「そうね~。だって運命の番ってアレだろ? 番と絶対的に繋がってるっていう、お伽話みたいな仕組みだもんな」
「そうだよ! なのに、なのに……」
清守はふう、と熱い息を吐き出すと、やれやれとばかりに頭の後ろを乱暴に掻いてから、堰を切ったように本音を零し始めた。
「イシュタルに所属して暫くしたある日、宗像司令官と八乙女副司令官に思いきり大目玉を食らったんだよ。キャストってのは、そんな腐った性根の奴がなるものじゃない、って……。美しさは当然、教養も品格も、そのいずれもが一級品じゃなきゃいけないって。俺ら魔人ハーフのキャスト達は、お前ら人間を見見下してたし舐めてたからな……要は、裏で手を抜いてぬるくやってた訳だ。キャストなんだから、蝶よ花よと持て囃され、大事にして貰って当然だってね。何の努力もしなかった」
「へ~ぇ……」
「……はっ。お笑い種だね。自分達が舐めてた連中のほうが、俺よりもずっと泥臭く自分を磨いて努力してた訳だ。俺は……ただ浮かれて……イシュタルがこれから俺を一流に育てるって時に、ドールからの指名が入った。おのぼりさんのまま、裏で他のキャスト達に笑われてるのも知らなくて……ッ」
清守はきゅっ、と小さな唇をきつく噛みしめた。指先にぎゅう、と不自然なほど力が籠もり、木製の手摺を握る拳が微かに震えている。
笑顔の裏に潜む世界の歪みと、彼の執着の奥にある、正気と恐怖が混ざり合った「数ミリの表情の揺らぎ」。
その震える肩にそっと手を置いて、俺はいつもの能天気な調子のまま、こう言い放った。
「清守……。ぶっちゃけると、俺はお前があんまり好きじゃない」
「は……?」
唐突にそんな現実を突きつけられ、鳩が豆鉄砲を食らったような顔になる清守。呆然とする彼に対し、俺はさらに言葉を続けた。
「だって、意意地悪だし性格悪いし我が儘だし、すぐ殴るし……」
「な、……ッ」
「でも、他のどのキャストよりもお前が一番綺麗なのは確かだ。それだけは胸を張って良いと思うぜ! 足りない部分が馬鹿みたいにあるなら、これから頑張って埋めれば良いんだよ。あ、あとお前がノチェルオにしたこと許してないので後で誠心誠意謝っとくこと」
ニカッと笑って親指を立て、サムズアップを突きつけた瞬間、清守の容赦ない拳が俺の腹に炸裂した。
流石は暴君。そこに痺れないし憧れないッッ!!
「痛いんッ! も~、すぐ手が出るんだからぁ~」
「お前のは慰めでもフォローでも何でも無いッ! ただの直球の悪口だッ」
「悪口じゃないって、本当の事だろ」
「この……ゴリラ~~ッッ!!」
「うひいいい~~ッ! こ、殺される~~ッッ!!」
そうして俺と清守は、夜の静かなウッドデッキの上で、いつまでも子供のように泥臭い追いかけっこを続けていたのだった。
◆
[環境システム・ログ:199X-08-26]
当該領域は、生体肉質化に伴う有害概念の「濾過槽(フィルター・チャンバー)」として機能。
土着の「胞衣(えな)信仰」と異常融解し、数万の死産・未熟児の胎盤が、底なしの泥のスープとして堆積している。
それは、産み落とされなかった肉塊たちの巨大な『飢餓』だ。
──五感の引き算。存在の欠落。その絶対的な「欠け」を埋めるため、島は常に、強靱で、血の通った、圧倒的な「生の器」を求め、虚数空間の底からペダルを踏み続けている。
[現在時刻:7月末]
「──おかしいな、鉄パイプの味がする」
離島のうだるような熱帯夜、真宵直忠は、新品のメンズブラ(2枚重ね)に大胸筋を締め付けられながら、誰もいない夜空を見上げていた。脳みそは薄いが、地下闘技場の奴隷闘士として培った野生の直感が、鼓膜の奥で警告のノイズを鳴らしている。
視界の端が、一瞬だけブルースクリーンに爆ぜた。
頭の中で、すべての境界線が融けていく。
最初は、いつもの「部位消失(おてんとうさまへの等価交換)」のちょっとキツいやつだと思ってたんだ。
8月も終わろうとした頃、数日前から口の中にこびりついてた感覚が、この島の本質に触れた瞬間、もっとドロドロした、脂ぎったナマモノの感触に変質しやがった。
目の前では、慶太や武臣たちが呑気に笑いながら、俺の胸に蛍光グリーンの海パンやら競パンやらを押し当ててホールドさせようと騒いでる。
だけど、その声が、何層もの分厚いアクリル板を挟んだみたいに、遠くて、歪んで、ちっとも聞き取れない。
呼ばれている。ちぎり取られた肉の断片が、絶対的な生の器(マザー・コア)を求めるように。直忠の体内に宿る【オメガ】の最奥が、島の死んだ泥と、目に見えないソウルパスでガチガチに噛み合っていく。
それが、すべての因習が融解する地獄のバカンスへの、最初の一歩だった。
頭の中で、すべての境界線がドロドロに融け始めていた。
最初は、ただの視覚障害の延長のはずだった。
ここに来てから続いていた嫌な予感は、この旧実験セクター『胞衣子島』に足を踏み入れた瞬間、より濃密で凄惨な物質へと変質した。
部屋の薄暗い床に四つん這いになりながら、俺は自分の身体から溢れ出す『異常な液体』に絶望していた。
はだけたシャツ、汗と脂でギラつく俺の屈強なシックスパック。その隙間を吹き出しているのは、汗じゃねえ。
生温かくて、どこか甘酸っぱい──ドブ川のガソリンと細胞が異常融解した、半透明の羊水の匂いだった。
「──ねぇ、直忠。それ、ガソリンの味じゃないよ」
不意に、口内に直接、べっとりとした生温かい「声」が這り込んできた。
唾液が瞬時に粘ついた脂へと変わり、喉の奥からせり上がってくるのは、完全にドブ川の底に半世紀沈んでいた軽トラックのガソリンタンクを、剥き出しの舌で何度も何度も舐り回しているような、金属質で腐敗した汚辱の味。
いや、味じゃない。これは、この島の地下深く──錆びついた鉄格子に囲まれた肉のゴミ箱、『生体肉質化・概念濾過槽(フィルター・チャンバー)』からの直接の侵食(囁き)だ。
「僕たちはね、ここでずっと待っていたんだよ。余ったアルファの指先も、引き千切られたオメガの最奥も、みんなここに投げ込まれてね。腐ることも許されずに溶け合って、毎日毎日、自分の骨の爪で自分の肉を削いでるんだ。乾燥した薪を叩き割るような快音を立ててね」
ごくり、と喉が鳴る。五感の一時的部位消失のメーターが、音もなく上限値を突き破った。
俺の左目から、ツーと黒紫色の生体液が溢れ出し、顎を伝って畳を汚していく。
「ヒハッ! こりゃあ本物の地獄だね。直忠ちゃんの包容力が、地下の濾過槽に眠る何万個もの死んだハラワタを覚醒させちゃったってか? あいつら、直忠ちゃんの羊水の匂いを絶対的な子宮だと誤認して、直忠ちゃんの腹の奥、オメガの胎内の中に、逆流して戻るつもりかもよ!?」
突如、部屋の机の上に駆け上がったのはこの島に居ないはずの宗像のおっちゃんが、いつもと違う引きつった薄笑いを浮かべている。だが、その姿すら、ガガガと激しい砂嵐のようなノイズに掻き消されていく。
視界が、完全に変色していく。
目の前の景色も、コミンジ5の奴らの顔も、一瞬にして「脂ぎった赤黒い肉壁」へとジャックされた。
アスファルトの地面はミシミシと波打ち、まるで巨大な怪獣の結腸の内壁みたいに、粘液を滴らせながらドクドクと脈動を始めている。
畳の隙間、床板の割れ目からじっとりと這い上がってきたのは、赤黒い無数の人間のような何かだった。
それだけじゃねえ。そのドロドロとした有機物の残骸が融解したような、名もなき赤ん坊の肉塊(胞衣子)がびっしりと張り付き、俺の太もも、大胸筋へと、吸盤のように「ピチャッ、ピチャッ」と吸い付いてきた。
吸い付いた場所の俺の皮膚が、物理的に融解し、奴らのドロドロした肉と同化を始める。
もう耳もイカれてる。慶太やノチェルオたちの叫び声も、全部は濾過槽の底で「溶け残った骨が激しくぶつかり合う破砕音」に変換され、
「オ、オ、カ、ア、サ……」
「一、緒、ニ、溶、ケ、ヨ、ウ……?」
という、湿った肺が潰れるような何万もの生命サインの途絶えた未覚醒個体の声となって鼓膜を容赦なく引き裂いていく。
「戻るじゃ、ねえよ……っ! 俺には……っ! お前らにやる胎内なんて、ねえ、バカ……ッ!」
自分で返事をしてるつもりなのに、唇から漏れ出るのは不気味な呻き声だけ。
奴らは「肉の等価交換」を求めて、毛穴という毛穴からじっとりと侵入し、俺の本当のオメガの最奥──体内の【器】へ直接触れようとズルズルと潜り込んでくる。内臓ごと裏返るような生理的嫌悪感で、肉体の芯が激しく痙攣した。
武臣と斗真が、錆びた包丁や薪を手に取って、俺の身体に群がる肉塊を必死に削ぎ落としようとする。
だが、その包丁で肉塊を切り裂いた瞬間、「ブシュッ!」と生温かい血が弾け飛び、切り口からさらに何十本もの未発達な「赤ん坊の指」が生えてきて、武臣たちの腕に絡みついた。
「うわあああ! 腕が、腕の皮膚が、コイツらとくっついて離れねえ!!」
炉舞が、絡みつく肉の感触に絶叫し、白目を剥きかける。
「あ、あわわわ、わ、僕の気のせいでしょうか……!?」
その地獄の中、ノチェルオが恐怖の涙をボロボロとこぼし、ガタガタと膝を震わせながら、巨大トングを構えていた。
「僕たち、直忠くんを入れて6人いるはずなのに、なんで今、僕のトングの先に『メンズブラを頭に被った鉄パイプ肌の、異形幼体の指だらけの半裸のおっさん』が挟まってるんですかぁ……っ!? 妖怪プラスワンだよぅ、怖いよぅ……!」
世界システムが『妖怪プラスワン』の引き算バグに過剰反応し、濾過槽のガソリン毒素が凝固した「謎のおっさん怪異」まで物理実体化して、コミンジ5たちを泥濘へと引きずり込んでいく。
「ひ、ぐぅ、……うあ゛ァァァッ!!」
俺の身体が、肉塊の重みと融合の苦痛で、物理的に内側から引き裂かれそうになる。
エンブリオの自動修復システムが、この『生物的融合ハザード』のあまりのグロテスクさに深刻な処理落ちを起こし、島の夜空がブルースクリーンから、完全にバグったモザイク模様へと明滅し始める。
コル・ドラコたちのラット化すら届かない、完全に孤立した怨念の檻。
自分自身、もうここに立っているのか、それとも地下の濾過槽のプールに頭から沈められて、ドロドロの肉片たちに肉体を貪られているのか、現実と地獄の境界が溶けて、何も、分からねぇ。
奴らの鋭い細胞の触手が、俺の最奥へと侵入する、その刹那だった。
──ドクン。
俺の胸の奥、コル・ドラコのダルジャンたちと繋がれた、目に見えない深層の【器のソウルパス】が、俺の絶望と羞恥のフェロモンを媒介にして、世界の方程式を無視して強制覚醒した。
『──見つけた』
脳裏に、直接響いたのは聞き覚えのある誰かの声だった。
だが、それはいつもの気取った声じゃねえ。脳髄の芯まで狂愛(ラット)で茹で上がり、瞳孔を極限まで裂いた、本物の『竜の王』の咆哮だった。
次の瞬間、俺の精神世界(胎内)の闇に、島を取り囲んでいた銀竜アルファ7人の「狂暴な精神的熱量」が、文字通りディープインパクト級の津波となって直接流れ込んできた。
「が、はァァァァァァァァァァッッ!!!」
俺は背中をのけ反らせて絶叫した。
体内に、ダルジャン達の凶悪すぎるアルファフェロモンの概念が、濁流となって一気にブチ込まれた。
それは生殖なんて生ぬるいもんじゃねえ。精神の蹂躙であり、絶対的な独占欲だった。
ドラコたちの脳を無意識にラット化させた俺の濃厚なオメガ汗と、彼らの放つ狂愛の熱量が、俺の器の奥でガチガチに噛み合い、超巨大な核融合反応を起こす。
『その有象無象を、その綺麗なハラワタから今すぐ1匹残らず焼き尽くせェェェェエエ!!』
誰かのバグり散らかした絶叫が精神世界に木霊する。
俺の身体から、まばゆいばかりの『真紅の暴走業火』が、爆発を伴って外側へと大噴射された。
「ギ、ギャァァァァァァアアアアッッ!?」
俺の体内に潜り込もうとしていた胞衣子の肉塊どもが、内側から放たれたアルファの熱量によって、一瞬で「焼き肉の網の上で炭化する生ゴミ」みたいに、悲鳴を上げて黒焦げに弾け飛んだ。
それだけじゃねえ。床下、そして島全体の土底に眠っていた何万個もの因習の血肉の泥が、細胞レベルで完全消滅(デリート)していく。
独占欲という不条理な暴力を前に、因習の論理がベチャッと粉砕されたのだ。
「うわあああ! 直忠大丈夫かぁああ!!?」
慶太が、ネバネバの泥を浴びながら叫ぶ。
「つーか、直忠の体から出てる熱気、ヤバすぎ! 部屋の柱が焦げてんだけど! この屋敷が火事になるよぉッ!!」
斗真が煙を吸い込んで激しく咳き込む。
「完全に炭だろ! つーか直忠の顔、完全に白目剥いちゃってんだけど! 妖怪より怖いよ!」
「直忠!! 直忠大丈夫か!? おい! おい!! しっかりしろ!!」
炉舞が、白目を剥いて倒れかけている俺の顔を見て、この世の終わりみたいな悲鳴を上げた。
「はぁ、はぁ、はぁ、……あ、熱、い……、全部、焼き、尽くした、のか……?」
体内の因習の呪いは完全に消滅し、俺の【オメガ】の最奥は、ドラコたちの濃厚なフェロモンの残熱でトロトロに蕩け去っていた。
パツパツだった黒レースブラのホックが、筋肉と熱の圧力についに耐えかねて、「パチィィィンッ!」と盛大な音を立てて千切れ飛ぶ。
はだけたシャツの隙間から、傷だらけのパーフェクト・バルクが夜風に晒されるなか、俺は脳髄までアルファの狂愛に満たされ、そのまま意識を失ってベッドへと崩れ落ちるのだった。
俺の、最高にエグくて、最高にホラーで、世界で一番脳のネジがぶっ飛んだ夏の終わりは、世界のバックアップシステムがエラーを吐き出す音とともに、幕を閉じるのだった──。
◆
…………。
……チ、チ、チ、チ。
無機質なデジタル時計の音が、耳の奥に突き刺さる。
「……んあ? う、うう……」
直忠は勢いよく上体を起こした。
そこは、あの泥と血肉にまみれた最悪の呪縛特異点ではない。島にたたずむ、候補生やキャストたちが寝泊まりしている巨大な古屋敷──その、いつも通りのどんよりと薄暗い自分の部屋の畳の上だった。
窓の外には、変わらない8月末の、重苦しい島の朝焼けが広がっている。
「なんだよ……夢かよ。すげえリアルな、おっさんとブラジャーの夢見た気がする。俺ちゃん、ちょっと頭おかしくなっちゃったかなあ」
頭を掻きむしり、テキトーに笑う。だが。直忠が身に付けている黒レースブラのホックは、筋肉の自重に耐えかねたように、綺麗に「引きちぎられて」いた。その裏地には、乾燥してカピカピになった、異様に甘く濃厚な「半透明の粘液」のシミがべっとりと付着している。
時系列が、合わない。日常ギャグのバカンスの後にホラーが来たのか。
それとも、ホラーの後に、世界システムが強制リブートをかけて日常の「古屋敷」に直忠の肉体を書き戻したのか。
引き算のできない世界は、直忠の記憶から、何か決定的なピースを「引き去って」いた。
廊下に出ると、アホ集団コミンジ5の武臣が、大あくびをしながら歩いてくる。
「よお、直忠。お前なんか、すごい寝汗だぞ?」
「おう武臣、おはよう……って、お前、その腕どうしたんだよ?」
武臣の右腕。
そこには、まるで皮膚の融解が逆再生で無理やり癒着したかのような、醜く歪んだ「異形幼体の指の痕(逆再生痕)」が、生々しく焼き付いていた。
「え? これ? ……さあ、なんか昨日、七輪のハザード肉をひっくり返そうとした時に、ノチェルオにトングで挟まれた痕じゃねえかな?」
武臣はケラケラと笑う。記憶は改変され、時系列の不条理は、何事もなかったかのように日常の皮を被っていく。直忠は首を傾げながら、古屋敷の窓から外を見た。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ、島のどんよりとした曇り空が、激しく処理落ちした「モザイク模様」に激変し、すぐに元に戻った。
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