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1 雨の裏通り②
馬車が屋敷へ向かって走りだしたのは、雨の降りはじめた時刻だった。
石畳を打つ雨音のなかで、ユリアンは窓の外を眺めていた。眺めていたというより、そこに目を置いていただけだ。
二十三年生きて、彼は自分が何ひとつ望んだことがないのに気づいていた。これまで、望む前に与えられるか、望む前に奪われるか、そのどちらかしか起きない人生だった。
——何か、面白いことが起きればいい。
この世に自分の知らないものが、まだひとつくらい残っていればいい。
そう思っていた時——馬車が、停まった。暗い角の裏通りで、何かが道を塞いでいた。
荷車だった。闘技場の裏手にある、使い物にならなくなった奴隷を捨てるための荷車。
|御者《ぎょしゃ》が舌打ちをするのを聞きながら、ユリアンは扉を開けて降りた。従者が慌てて傘を差しかけてきたが、彼はそれを手で払った。
荷台から、三つ、泥の上に落とされていた。
二つは動かない。息をしていないのが、遠目にもわかる。
最後のひとつが、動いた。
鎖につながれたまま、真っ黒い髪は腰まで伸びて固まり、肌が見えているのか布が張りついているのか判別がつかない。痩せているのに、肩から腕にかけての線だけが異様に太い。栄養が骨へ行かず、殴り合いのぶんだけ筋肉に持っていかれた身体だ。
闘犬だ、とユリアンは思った。人を殺させるため——殺し合いをさせるため——に飼われ、殺せなくなったから捨てられる類の。
檻番らしき男が、その脇腹を長靴の先で蹴った。骨が鳴る音がした。
男は、声を上げなかった。逆らう体力が、気力が、今の彼にはもう、ないのかもしれない。
呻きもしない。許しを乞いもしない。ただ、雨に濡れた顔をわずかに上げて、彼は降ってくるものを見ていた。
——ユリアンの足が止まったのは、そこだった。
これまで、彼の前で膝をつかなかった人間はいない。誰もが乞う。金を、地位を、婚姻を、名前を。乞いながら目を伏せる。伏せた目の裏で計算している。そういう生き物ばかり見てきた。
だが、死にかけの奴隷は、何も乞わずにただそこに在った。そんな算段も、彼には出来ないのだろう。
ユリアンは一歩踏み出した。従者の掲げたランタンが、彼の背後にまわった。
光を背負った白い影が、泥の中の男の上に落ちた。
その顔が、はじめてまともに見えた。
——子供だったのか。
骨の細さ。背丈。顎の輪郭。見たところ、十六ほどだろうか。まだ育ちきっていない年頃の身体が、大人の闘犬と同じ扱いで捨てられている。
ユリアンの中で、この数年一度も動かなかったものが、かすかに軋んだ。それが持たざる者への後ろめたさなのか、或いは憐憫なのか、分からない。
男の目が、ゆっくりとユリアンへ向いた。焦点の合わない、獣のような昏く青い瞳。それが見開かれ、泥だらけの唇が動いた。
「……あんたは……天使様……?」
かすれた、ほとんど息だけの声だった。
ユリアンは、しばらく黙っていた。
それから、声を立てずに笑った。この夜はじめての、角度も長さも決めていない笑いだった。
「いくらだ」
「は?」
檻番が間の抜けた声を出す。
「そいつは、その、もう売り物じゃ——」
「いくらだと訊いている」
檻番は、犬一匹より安い値を口にした。
ユリアンはその十倍を財布から出し、男の顔が驚愕に歪むのをしばらく観察してから、従者に言った。
「馬車に乗せろ」
「閣下、席が汚れま——」
「張り替えればいい」
なぜ、と誰も訊かなかった。訊かれたところで答えはなかっただろう。気まぐれだ、とユリアンは思った。ただの気まぐれ。
雨の中、ユリアンはもう一度その顔を見下ろした。
泥に塗れ、しとどに雨に濡れた男は、惚けた顔でまだユリアンを見上げていた。
——まるで、天使を見るような目で。
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