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2 湯と鋏①

 2 湯と鋏  湯は、三度替えて、三度とも黒く濁った。  ヴァレンハイト邸の浴室は大理石で、湯気のなかに薔薇油の香りが立ちこめている。そこに泥と血と、なにか名前をつけたくない臭いが混じって、侍女は二人とも青い顔をしていた。|年嵩《としかさ》のほうは口を押さえて廊下へ出ていき、そのまま戻ってこなかった。 「下がれ。全員」  ユリアンは上着を脱ぎ、袖を肘までまくり上げた。  執事長のゲルハルトが「閣下」と絞り出すような声を出した。ユリアンが生まれる前からこの家に仕えている男が、はじめて主人に逆らおうとしていた。 「閣下。お手を汚されるようなことでは——」 「私の手だ。どう使おうと私の勝手だ」 「しかし」 「ゲルハルト」  ユリアンは石鹸を手に取り、顎をしゃくって少年を示した。 「あれを、誰かに任せられるか」  執事は言葉に詰まった。任せられる者は、この屋敷にいなかった。侍女たちは怯えている。|従僕《じゅうぼく》は嫌がっている。医師は「洗ってからでないと傷が見えません」と言って帰った。どいつもこいつも、職務怠慢だ。 「では、私が洗います」 「良い。あれは私が拾ったものだ。下がっていろ」  根性があるのはゲルハルトだけだ。まだ食い下がるゲルハルトを手を払って追い出し、扉が閉まると、浴室には水音だけが残った。  少年は湯船の縁に座らされ、されるがままになっていた。抵抗する体力もないのだろう。少しも脂肪がなく筋肉だけが付いた身体は痩せぎすで、今にも死にそうに見える。ユリアンが布に湯を含ませて肩に当てると、びくりと筋肉が跳ねた。きっと、殴られると思ったのだろう。 「動くな」  低く言うと、少年は本当に動かなくなった。よく躾けられている。それがまた不愉快だった。  汚れが落ちていくにつれ、下から出てきたものにユリアンは眉を寄せた。  傷だ。  背中に鞭、|肋《あばら》に|刃《やいば》、腕に噛み傷。古いものから新しいものまで、時系列に並んだ暴力の記録。肋骨は左が二本、明らかに曲がってくっついている。折れたまま放置されて、そのまま治ったのだ。  そのくせ、剥がれた汚れの下の肌は驚くほど白かった。日の当たらない場所で飼われていた肌だ。  そして左の鎖骨の下に、焼き印があった。  丸に数字。二十七。  ユリアンの指が、そこで止まった。濡れた指先でその縁をなぞると、少年の喉が鳴った。 「痛むか」 「……いえ」 「いつ付いたものだ」 「……今より、ずっと小さいころに……」 「そうか。では、今の年はいくつだ」 「たぶん、十六……だと、思います」  少年は、自分の歳すら知らないらしい。ユリアンはそれ以上何も言わず、洗い続けた。  指の股。耳の裏。膝の裏。爪の間には、洗っても洗っても黒いものが残った。爪自体が何枚か割れていて、根本から歪んで生えている。  次は髪だった。腰まで伸びて、もはや繊維のかたまりのようになったそれを、ユリアンは|鋏《はさみ》で根本から切り落とした。自分の鋏で。銀細工の、書類を開くためにしか使ったことのない鋏で。

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