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6 本と羽根ペン②

 覚えはじめると、速かった。  数は三月で四則演算まで行った。字は半年で、十歳の子どもが読み書きする程度までは出来るようになった。語学は、闘技場に各地の奴隷がいたおかげか耳だけは異常によく、発音だけなら三月で板についていた。  ある晩、シリウスが書斎に来なかった。  綴りの稽古を欠かしたのは、ユリアンが家庭教師を始めてから半年ではじめてのことだった。ユリアンは五分待ち、十分待ち、それから自分が待っていることに苛立って立ち上がった。  シリウスは、図書室にいた。梯子の下の床に座り込み、分厚い星図を膝に広げて、動かなくなっていた。肩が、震えていた。 「……何をしている」  シリウスは慌てて立ち上がり、それから、ぐしゃぐしゃの顔でユリアンを見た。 「読めました」 「何がだ」 「自分の、名前です」  彼は星図を掲げた。指が、その一行を押さえている。 「シリウス。……夜空で、いちばん明るい星だと」  ユリアンは、動かなかった。 「知っていましたか」 「……さあ、どうだったか」 「あなたは」  シリウスの声が割れた。 「あなたは、俺に、そんな名前を」  ユリアンは口を開きかけて、やめた。かわりに踵を返し、扉のところで足を止めて、振り返らずに言った。 「とっくに、綴りの稽古の時間だ。私を待たせるな。……シリウス」  与えた名前を、舌で転がす。犬と呼ばれる、その星の名を。  廊下に出てから、ユリアンは自分の胸を手で押さえた。  なぜ押さえたのか、そのときはまだ、わからなかった。  ◆  その夜から、シリウスは本を読むようになった。  最初は星の本だった。次が地図で、次が歴史で、それから——恋の詩に行き着いたのは、まったくの偶然だった。  図書室の隅の、革の剥げた薄い本。開いた最初の一篇で、彼は動けなくなった。  そこに書いてあったのは、自分のことだった。  名前も、身分も、爵位も出てこない。ただ、ある人間が、特定のひとりの人間を見ているときにだけ、起きることが書いてあった。  心臓が変な打ち方をすること。名を呼ばれると、息が浅くなること。触れられた場所が、何時間も熱いこと。その人が他の誰かと喋っているのを見ると、身体のどこかが錆びて軋むような音を立てること。  シリウスは本を閉じ、しばらく額を押しつけていた。  ——ああ。  これには、名前があったのか。  檻の中には、これに当たる言葉がなかった。腹が減った、痛い、寒い、苦しい。感情はその四つで足りた。だから彼は、自分の中で起きていることに名前をつけられずにいた。  今、ついた。ついてしまった。  シリウスは自分の手を見た。人を殺した手だ。焼き印のある身体だ。この歳になるまで、字も読めなかった獣だ。そして、あの人は公爵だ。  ——言えるわけがない。  それでいい、と彼は思った。それで十分だった。名前がついただけで十分だった。傍にいられて、名前を呼んでもらえて、綴りを教えてもらえるのなら、それ以上のものなど、ひとつも要らない。  けれど、要らない、と思うことに、彼はその日から毎日、失敗するようになった。

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