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8 嫉妬②

 護衛というのは、片時も離れず主人の傍に付いているわけではない。シリウスとしては、そうしたいのは山々なのだが、少し後ろに下がり、全体を見ることも必要だった。だから、ユリアンがつまらない話を聞き流している間、シリウスはグラスを持ち、少し離れた壁際でユリアンとその周囲を眺めていた。その視界に、ひょいと横から影が飛び込んだ。 「あなた、あの方の何なの」  ひとりの令嬢がシリウスに話しかけた。十九か二十の、金色の長い髪をした、聡明そうな娘だった。彼女はグラスを手に、まっすぐに彼を見上げて言った。しかし、シリウスの目はユリアンだけを映していた。 「従者です」 「嘘」 「……嘘などではありません」 「従者は、主人をそんな目で見ないわ」  令嬢は笑った。意地の悪い笑い方ではなかった。 「わたし、あの方に三度求婚しているの。正確に言えば、母が、ぜひ私をって。でも、三度とも断られた。身分も釣り合って、条件も良いはずよ。なのに、理由を教えてくださらないから、探しているの。あなた、理由を知らないかしら?」  シリウスは黙っていた。理由など、シリウスにだってわからない。ユリアンは、本来であれば、よりよい条件のもと、誰かと婚姻すべきなのだ。ユリアンは、貴族の社会についてシリウスに教えたがらなかったが、ユリアンから教わらずとも、今のシリウスはそれくらいのことは分かっていた。シリウスはもう、無知の奴隷ではなかった。 「答えないよう、教わっているのかしら?」 「……違います。ただ、その理由を教わっていないのです」 「そう。それじゃあ、仕方ないわね。本来であれば、とっくに婚姻しているはずのご年齢なのに、どうして婚姻されないのかしら。あの方が望む条件に、誰も足りていないのかしら」  令嬢はお喋りだった。貴族はいつだって、扇の陰で誰かの噂話をしている。彼女は直接話し掛けてくる分、潔かった。  ユリアンが婚姻しないことに、理由は要らなかった。婚姻しないでくれるのならば、シリウスはなんだってよかった。婚姻しないでほしいなどと、シリウスには、言えるわけがないから。 「ねえ。あなた、あの方のことを何て呼んでいるの」 「閣下、と」 「お名前は」 「……呼んだことがありません」 「一度も?」 「お名前など……呼べるわけがない」  令嬢と話す間も、シリウスの目は、ただ彼を映していた。令嬢は扇を閉じて、静かな声で言った。 「あなた、本当は呼びたいのね。呼べないのは、呼びたいからよ」  そう言って、彼女は去っていった。  シリウスは、グラスを持ったまま、そこに立っていた。  ◆  馬車に戻ってから、ユリアンは窓の外を向いたまま言った。 「シリウス」 「はい」 「お前、あの令嬢と何を話していた」 「……閣下のことを」 「何と」  シリウスは、何か言おうと口を開いて、閉じた。答えに窮しているようだった。  沈黙が落ちた。車輪が石畳を叩く音だけが続いた。 「……随分と、長く話していたな」  そう言ってから、ユリアンは自分の声の調子に愕然とした。  これは——これは、二十七年間、ユリアンが他人の顔の上にだけ見てきた感情だ。  夜会で、婚約者を他の女に取られた令嬢の顔。跡目を弟に持っていかれた長男の顔。自分のものを誰かに取られる者の顔。ユリアンは、生まれてはじめて、その側に立っていた。 「——いい。忘れろ」 「閣下」 「……忘れろと言った」  ユリアンは眉を顰め、口唇の端をわずかに下げて、頬杖をつきそっぽを向いた。拗ねた子どものような声が出てしまい、ますます眉間に皴が寄った。シリウスは、それきり何も訊かなかった。  暗い車内で、シリウスの口唇の端がほんのわずかに上がったことに、ユリアンは気づかなかった。

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