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9 ヴァレンハイトの血②

 エーリヒが帰った次の日の午後、別の客が屋敷に訪れた。  フェルディナント大公家の使者だった。持ってきたのは縁談で、相手は大公の次女、条件は破格だった。三つの領地。その港から続く北への航路。王家への血のつながり。    ユリアンは書斎でそれを三時間検討した。  損得で言えば、考えるべくもなかった。ヴァレンハイト家の当主は跡継ぎを残さねばならないし、エーリヒを黙らせるには王家に近い血を引き入れるのが最も早い。恋愛感情などというものを、この階級の結婚に必要だと思っている人間は一人もいない。  断る理由など、書類の中にはひとつもなかった。それなのに、三時間も考えていた。それから扉の脇に立っている男を見た。    シリウスは、書類の内容を聞いていた。聞こえていないふりをする器用さは持っていない。ずっと、まっすぐ前を見て立っていた。顔色ひとつ変えずに。ただ、手だけが、身体の脇で固く握られていた。  爪が、掌に食い込んでいた。  ユリアンはそれを見て——そして、ユリアンを三時間も考えさせた理由が、書類の中にはないことに気がついた。   「断れ」 「……閣下」  ゲルハルトが顔を上げた。 「よろしいのですか。これは」 「断れ。理由はいらん」  扉の脇で、握られていた手が、ゆっくりとほどけた。  ◆  その夜、書類を検めていると、扉の脇に立っていた男がぽつりと言った。   「あの方たちは、あなたの何を見ているんですか」 「……何とは」 「今日の方も、昨日の方も」  シリウスは眉を寄せていた。心底わからない、という顔だった。   「あなたの顔を見て、喋っていませんでした。あなたの後ろのものを見ていました。いつも、いつも……誰もが、みんな」  ペンが、紙の上で止まった。シリウスは寡黙で静かで、冷静な男だ。そういう風に育った。だから、こんな風に、感情的に喋ることは珍しかった。   「……よく見ているな」 「見ろと教わりました」 「私にか」 「はい」  ユリアンは笑った。乾いた笑いだった。   「教えた覚えはないが、まあいい。——答えてやる。あれらが見ているのは、爵位と、金と、この顔だ。三つとも、私がたまたま持って生まれただけのものだ」 「たまたま……ですか」 「そうだ。私が自分で選んだものなど、ひとつもない」  言ってから、ユリアンは自分が失言したことに気づいた。そんなことを口にしたのは初めてだった。  シリウスは、しばらく黙っていた。それから、ひどく素朴な調子で言った。   「では、あの方たちは、あなたを一度も見ていないんですね」  ユリアンは顔を上げた。  燭台の光の下で、彼はまっすぐにユリアンを見ていた。何も透かさずに。何も換算せずに。そこにあるものだけを。  心臓が、一度、嫌な打ち方をした。   「——下がれ」 「閣下」 「下がれと言った」  扉が閉まったあと、ユリアンは長いこと動かなかった。  そして、ひどく冷たいことを思いついた。

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