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12 名を呼ぶ②※
傷が塞がるのに、ひと月かかった。
その間、二人のあいだで起きたことは何もなかった。シリウスは傷が痛むふりをしなかったし、ユリアンは見舞いの回数を数えなかった。ただ、綴りの稽古だけは毎晩続けた。教えるものなどもう残っていないのに、二人とも、それをやめようとは言わなかった。
ひと月と三日目の夜、ユリアンは自分の寝室の扉を開けたまま、寝台の縁に座っていた。
足音が近づいて、止まった。
「……閉めろ」
ぱたんと、扉が閉まる音がした。鍵の落ちる音も。
シリウスは、そこから動かなかった。灯りは燭台がひとつきりで、その大きな影が壁の高いところまで届いていた。子どもだった彼は、もう居ない。
「来い」
「……いいんですか」
「二度は言わん」
シリウスが、来た。
寝台の前に膝をつく。大きな手が、おそるおそる、ユリアンの頬に触れた。
ユリアンの身体が、こわばった。
他人に触れられることに、彼の身体は、身構え続けてきた。頬に触れる手は次に何を要求するか。肩を抱く腕の重さは何と引き換えか。彼の皮膚は、他人の手を請求書として読むように訓練されていた。
だから、その手が、何も要求せずにただそこに留まったとき、彼は息の仕方を忘れた。
「……ユリアン」
「……ああ」
「震えています」
「寒い」
「嘘です」
他人の嘘を見抜けと、教えたのは自分だ。ユリアンは目を閉じて、諦めたように笑った。
「……ああ。嘘だ」
口唇が触れた。
最初のそれは、ほとんど衝突だった。角度も何も知らない。歯が当たって、シリウスが慌てて離れようとするのを、ユリアンが襟を掴んで引き戻した。
「逃げるな」
「逃げていません」
「口を開けろ。——そうだ」
教えるのは、もう癖になっていた。羽根ペンの角度を、計算を、字の綴りを、全部この男に教えてきた。教えながらユリアンは、自分の声が途中から指示ではなくなっていくのを聞いた。
舌が入ってきた瞬間、背中が跳ねた。
シリウスは飲み込みが早い。何だってそうだった。二度目で角度を覚え、三度目でユリアンの呼吸を奪いはじめた。大きな手が後頭部を掴んで固定し、逃げ場をなくしてから、深く押し入ってくる。上顎の裏をなぞられて、ユリアンの喉から、自分でも聞いたことのない音が出た。
「……っ、は」
「今の声」
シリウスが、口唇を離さずに言った。
「もう一度」
「……黙れ」
「もう一度、聞かせてください」
いつのまに、命令する側が入れ替わったのか。
気づいたときには、背中が寝具に沈んでいた。上から覆いかぶさってくる影が、視界を全部塞いだ。天蓋も、燭台も、天井も見えない。その肩幅だけで、ユリアンは視界を奪われた。
ガウン状の、前開きの白い|寝衣《しんい》の|釦《ぼたん》が、ひとつずつ外された。
ひどく丁寧だった。ペンは折るものじゃない。いつか、彼にそう教えた自分の声が、頭の中で反響した。
肌が空気に触れる。顔が熱い。ユリアンは反射的に顔を隠そうとした。
その手を、押さえられた。
「見せてください」
「……見るな」
「あなたを見たいんです」
口唇が、鎖骨に落ちた。
そこから下へ。ゆっくりと。食事を与えられた最初の一週間、皿を抱えるようにして食っていた男の、あの飢え方で。
胸の先に歯が当たったとき、ユリアンは枕を掴んだ。
「——っ、おい」
「痛いですか」
「……痛くは、ない」
「じゃあ続けます」
舌がそれを転がす。吸われる。シリウスの口の中で、固くなる。腰の奥の方がぞくりと震えて、覚えのない熱が溜まりはじめていた。
シリウスの手が下りて、腰元の紐に触れた。そこで、動きが止まった。
「……どうした」
「いえ」
「言え」
「……手が、震えて」
ユリアンは、ぱちりと目を瞬かせた。
大きな手が、震えていた。峠で八人を斬り捨てた手が、寝台の上で、主人の寝衣の紐一本にすくんでいた。
ユリアンは手を伸ばして、その手首を掴んだ。そして、自分の腹の上に引き寄せた。
「私がやったとおりにやれ」
「……え」
「——四年前だ。覚えているだろう。私はお前を洗った。上から下まで、全部洗ってやった」
眉を下げた困り顔を浮かべるシリウスがおかしくて、ユリアンは笑った。歯が見えていた。
「同じことをしろ。順番も、力加減も、全部。それなら震えないだろう」
シリウスの喉が、大きく動いた。
そして、手が動いた。あの日と同じ順番で。肩から。腕。肋。ユリアンの身体すべてを、指の腹で確かめるように。腰骨のくぼみで一度止まり、それから、内腿へ。
湯ではなく、手で。布ではなく、直接。
昂り固くなったそれを握られて、ユリアンは息を詰めた。
「ぁ——」
「……ここも、洗いました」
「……そうだったか?」
「そうですよ。ただ、汚れを落とすための手付きで、布越しに。私は、あの日から一日も、あの日のことを忘れたことがない」
大きな手が、上下にそれを扱きはじめた。この男は覚えるのが早い。ユリアンがどこで息を詰めるか、三度手を動かしただけで把握した。把握してから、わざとそこで止めるようになった。
「……っ、おまえ……」
「呼んでください」
「何をだ」
「名前を」
「——シリウス」
手が、動いた。そんなやり方を覚えられたら終わりだ、とユリアンは思った。思いながら、何度も呼んだ。
「シリウス」
「はい」
「……っシリウス」
「……ユリアン」
名を呼ぶたび、与えられて、黙るたびに止められた。二十七年、他人を思いどおりにして生きてきた男が、寝台の上でたったひとつの犬の名に飼い慣らされていった。
指が、後ろに触れたとき、彼は一瞬だけ身を固くした。
「……やはり、ここは」
「いい」
「ですが」
「シリウス」
ユリアンは腕を伸ばして、その首を引き寄せた。額を合わせた。
「私は今から、何の見返りも計算せずに、おまえに身体を開く。四年かけておまえが証明したからだ。——だから、黙って、ゆっくりやれ」
シリウスの|眦《まなじり》に、じわりと涙が浮かんだ。瞬きと同時、ユリアンの頬に、ぽたりと落ちた。
「……泣くな」
「はい」
「泣くなと言っている」
「……はい」
涙ぐみながら、シリウスはそっと指を進めた。
ひどく時間をかけた。油を使い、何度も確かめ、痛むかと訊き、ユリアンが「訊くな」と怒鳴っても訊いた。ユリアンの身体が、内側から作り変えられていく。指がひとつ、ふたつと増えて、ある場所を掠めたとき、腰が跳ねた。
「——っあ、っ」
「ここですか」
「触、るなっ……」
「ここですね」
「触る——っ、ぅ、あ……ッ!」
覚えが早い。この男は、本当に、覚えが早い。
視界が白く濁った。背中が弓なりになって、シーツを掴んだ手の甲に筋が浮いた。声が自分のものと思えない高さで漏れて、ユリアンは咄嗟に口元を手で覆い隠した。しかし、その手はすぐに引き剥がされた。
「隠さないでください」
「うるさ——」
「私には、隠さないでください。あなたの全部が、知りたいのです」
言葉が、皮膚より深いところに刺さった。
ユリアンは手から力を抜いて、顔の脇に両手を置いた。お手上げだ。そうして、顔を隠すのも、声を殺すのもやめにした。
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