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白熱する選挙戦に、この想いを込めて――㉒
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次の日、当選の祈願祭を兼ねた出陣式が、事務所前で午前7時半に行われた。
選挙区内で有名な神社の神主を手配し、党の幹部からお世話になった芸能事務所の関係者やスタッフに見守れながら、会場に設けられた祭壇の前で厳かに執り行われた。
ほんの数時間前までは短い黒髪を乱しながら卑猥な言葉を口走り、淫らなことをして散々俺を翻弄した恋人は、今はまったく別人の姿だった。
純真無垢な雰囲気を身にまとい、祭壇に向かって祈りを捧げる稜に舌を巻くしかない。
その後、慌ただしく選挙カーに乗り込み、急いで場所を移動した。
街頭演説は、朝8時から夜の8時まで行うことができる。限られた時間を有意義に使うべく会社員の出勤時間帯を狙って、駅前で演説したらいいと二階堂の考えで行動することになった。
「おはようございます。いってらっしゃい!」
『はなお りょう』と大きく印刷されたタスキを肩からぶら下げて、駅前を行きかう人に向かってマイクを使わずにお腹から声を出し、頭をぺこぺこ下げていた。
そんな彼を一切見ずに通り過ぎる者もいれば、わざわざ近づいて握手を求める有権者がいた。
芸能人のオーラを封印し、候補者として頑張っている稜の周りには、スタッフが数人散らばって、同じように頭を下げながら手際よくチラシを配っている。
その様子を少し離れた場所で、二階堂と一緒に眺めていた。
変な輩が現れるかもしれない可能性を考えて、あちこちに視線を飛ばす俺とは違い、二階堂は稜の様子をじっと見つめ、手にしたタブレットに何かを打ち込んでいく。
「昨日稜さんに、秘書さんを苛めないでくれと頭を下げられました」
二階堂の動きを気にしたときに話かけられたので、内心驚きながら横を向いた。そんな俺に視線を合わせず、じっと前を見据えたまま言葉を続ける。
「僕としては、苛めたつもりはなかったんですけど。事務所でのやり取りが、腹に据えかねたのでしょうね」
タブレットの操作をしながら、淡々と語っていく二階堂の心情を読みたかったのだが、メガネの奥の瞳はおろか表情からもそれを窺うことができなかった。
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