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act:【愛執】愛するものにのめり込みすぎて心が離れられないこと

 さっき室長から渡された大判の茶封筒を手に、地下二階にある自分の部署に向かうべく、階段を下りていく。  稜が所属していた前の事務所が圧力をかけてくれたお陰で、勤めている銀行の本店に残ることが出来た。本当はもっと遠くの支店か、関連企業に出向する予定だったのだから。 『すげぇ事件起こしてくれたよな、まったく。ウチの銀行のいい恥晒しだぜ。いっそのこと、相田が刺されて死ねばよかったのに』  そんな風に噂されていることを知っているし、もっと酷い言葉で罵られているのも、自然と耳に入ってきた。同じ職場に勤める者として、俺の存在は気味が悪いものとして受けとられて、当然のことだと思う。  それに、職場だけじゃない。俺の実家や親戚関係すべてに、迷惑が掛かってしまった。報道関係者が一斉に押しかけたせいで、迷惑をかけてしまったんだ。  コンクリートに反響する靴音を聞きながら、地下二階に辿り着き、一番奥にある扉に手をかける。 【お客様相談センター対策室】という真新しいプレートを見やり、微苦笑しながら中に入った。  地下二階なので、当然窓がない。だだっ広い空間に、普段使われない物が入っている段ボールが、四隅に山積みとなっていて、空いたスペースに机が一つだけポツンと置かれている職場は、正直気が楽だ。  銀行内ではどこに行っても、好奇の目に晒されてしまう――  俺の今の立場は、お客様相談センター対策室室長補佐という、どこか偉そうな肩書になっている。センターに入る全国からの電話の内容を吟味し、それをまとめ上げて俺の上司にあたる、室長に手渡すというのが仕事だった。  そのまとめ上げた書類に、きちんと目を通しているのか分からない。結果になって返ってこない上に、それ以上の仕事を求められない。  意味があるのか分からない仕事を、穴倉のような場所で淡々と行う毎日に、飽きが来ないと言えば嘘になる。  依願退職させるべく、閉じ込めているのも分かっている。だがそんな理由で、辞めるわけにはいかない。挫けるわけにはいかないんだ。  こんな俺を愛してくれる人が、傍で応援しているのだから。 「……っと、稜に頼まれたモーニングコールの時間を忘れないように、アラームをかけておかないと。窓からの景色がないだけで、時間の感覚がおかしくなっているし」  くたびれた椅子に腰かけたら、ギギッという今にも壊れそうな音が耳に入ってきた。これが壊れた暁には、同じフロアの物置から探さなければならないだろう。  俺が壊れずにいるのは、恋人である稜のお陰だ。彼のことを想うだけで、強くなれる自分がいる。どんな目で見られようが噂話をされても、平気でいられる。  そんなことを考えながら上着からスマホを取り出し、予定の時間よりも早めにアラームをかけた。最近疲れているのか寝起きが悪くて、なかなか起きないのを、計算に入れたのだが……  例のお昼の情報番組に出てから、蜜に群がる蟻のように稜の争奪戦が、たくさんの事務所で行われたそう。 『とにかく規則が緩いトコと、克巳さんと付き合っても、文句を言わないトコに決めるんだ♪』  周りの熱気も何のその。のん気に言い放った彼が決めたところは、事務所を立ち上げて、まだ半年しか経っていないところだった。 「君にまつわるトラブルを考えると、古くから経営している事務所の方が、何かと手慣れていると思うけど。どうしてそこを選んだ?」 『それはね、俺のことを一番欲しそうにしていたから。確かに克巳さんの言う通り、昔からある事務所はいろんなところと繋がりがあったり、便利な点は多いと思うんだ。それでも俺はそういう繋がりよりも、自分で新しいところを開拓したり、改革したいなって考えたから』  ワクワク顔の稜のセリフに、眉をひそめてしまう。改革という言葉が、今までの彼の行動の中には、なさそうなものに感じた。むしろ、かき回して混乱させたりするのに。 「ゲイ能人表明した俺だから、出来ることがたくさんあるでしょ。性の悩みを持つ人の声を、もっと知って欲しいと思っているんだ。無理矢理に理解しろとは言わないまでも、ちょっとだけでいいから、心を傾けてほしくて。キズついているんだよってことを……」  君はもしかして、俺の立場を知っている!? 「克巳さん、アホ面してる場合じゃないよ。夢は大きく、国会議員って言ったら笑えちゃうかな?」 「は? 何を言って……」 「だーって、俺はアナタと結婚したいんだもん。家族じゃないとダメなことって、結構あるでしょ? 例えば……俺が危篤になった場合、家族以外の面会は出来ないし、死んじゃったら棺の遠くから、出棺を見守ることになるんだよ。愛する人の一大事に立ち会えないのは、どうしても嫌だ」  熱く言い切った稜の目は、本気そのものだった。 「それで憲法を変えてやろうと、国会に殴り込みをかける気なのか」  まるで結婚したさに、決闘を申し込みに行くみたいに思えてならない。 「そうさ! 目指すは結婚だけど同性でも、婚姻に近い何かを認めてもらえたらなあって。いいアイデアでしょ?」  ――アイデアの枠を大きく超えている……とは言えない。  いたずらっ子みたいな稜の笑顔を思い出しただけで、孤立無援なこの場所でも頑張ろうって思える。  俺だけの綺麗な華でいてほしいというのは、ワガママなのかもしれないけれど、それでも…… 『克巳さん、覚えていてほしいんだ。どんなにテレビでバカやっていても、頭ン中にはいつもアナタがいるんだよ。カメラ目線でレンズを見ていても、その先にアナタの目があることを、感じているんだからね。克巳さんだけを、見つめているから』  この言葉を聞いて以来、テレビに映る稜の視線と、絡んでいるんだと思うことが出来た。俺たちの間は、いろんなものによって隔てられているけど、彼の瞳の奥に俺を求める何かがあることを、見つけることが出来たんだ。  それが分かった瞬間、欲しくて堪らなくなる―― (職場で、こんなことを考えちゃダメだな。しっかりしなければ)  彼の夢の手助けをしたい。そう思えるからこそ、何が何でも頑張ろうって決めた。ここで課せられた問題をこなさないと、次の苦難に立ち向かえそうにないだろうから。  もっと大きな難題を乗り越えるために――

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