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第五話 雨に咲く約束

 菜種梅雨(なたねつゆ)は、通常の霊獣よりも遥かに優れた霊力を持って生まれたという。その上、優しく、器量も良く、美しい。だからこそ、早い段階で素晴らしい婚姻が決まったのだと、誰もが納得する話だった。   「姉上は美人だからな。お前と違って」   「菜種梅雨様は本当にお優しいですからね。時雨公子(しぐれこうし)様と違って」   「なんだと!」   「大好きな素晴らしいお姉様を、少しは見習ったらどうですか?」    火花を散らして睨み合う二人を、菜種梅雨はくすくすと楽しそうに見つめていた。   「ふふ。いつの間にか、とっても仲良しね」    春雷(しゅんらい)も時雨も、示し合わせたように「これ以上ない」というほどの嫌悪の表情を作ってみせる。すると、彼女は二人を包み込むような、ひどく温かく、そしてどこか切ない眼差しを向けた。   「春雷。時雨と、ずっと仲良くしてあげてね」    春雷は内心、苦い顔をした。人の顔を見て平気で「醜い」と罵るような相手と、ずっと仲良くするのは難しいかもしれない。  今は菜種梅雨がいるからこそ、成り立っている部分もある。   「時雨は本当に素直じゃないから、人とぶつかってばかり。でもね、春雷くんとだったら、上手くいきそうな気がするのよ」   「そうでしょうか……」   「ええ、間違いないわ」    菜種梅雨は、それは綺麗に微笑んだ。   「二人とも、本当はとっても優しい子だから。……あの子が雨に濡れているときにね、ただ、静かに傘を差し出してあげるだけでいいの」    菜種梅雨は春雷の瞳を真っ直ぐに見つめ、深く、深く頭を下げた。   「あの子を、よろしくお願いしますね」    ――春雷が菜種梅雨の姿を見たのは、これが最後となった。    その後、主である不知火(しらぬい)から彼女の近況を聞かされるのが常となった。花嫁衣装がそれは美しかったこと、彼女が「また春雷とお話ししたい」と言っていたこと。  春雷もただ、あの優しい人が嫁ぎ先で息災に、幸せに暮らしてくれればいいと、心の底から願っていた。    しかし、菜種梅雨が嫁いでから、時雨の様子は明らかにおかしくなった。    何度も不知火の屋敷を訪れては、夜遅くまで必死に調べ物をし、取り憑かれたように帰っていく。   「どうしたのですか? 今日は不知火様は不在ですよ」   「……調べたいことがある。万象書庫(ばんしょうしょこ)へ入れてくれ」   「不知火様の許可なく入れるわけがありません。ですが、気になる本があるなら、私が代わりに持ってきてお渡しします」   「……頼む」    春雷も自分の仕事があったため、夜食やお茶を差し入れ、頼まれた本を貸し出しはするものの、「何をしているのか」と深く詮索することはしなかった。いずれ、本人から話すだろうと思っていたのだ。   「……春雷」    ある夜、頼まれた古い書物を手渡した時、時雨がぽつりと声を漏らした。   「時雨公子様、何かあったのですか?」   「……いや」    問い返す春雷に、時雨は力なく、今にも消え入りそうな笑みを浮かべた。   「なんでもないんだ」    いつもなら開口一番に罵詈雑言を叩きつけてくる男が、姉の嫁入りからわずか一ヶ月で、見る影もなく痩せ細り、生気を失っている。何かが起きたのは明白だったが、ただの下男である春雷にできることなど何もない。    それでも、菜種梅雨の言葉だけが胸に残っていた。 自分にできるのは、降ってくる雨に、傘を差し出すことだけだと。    それからさらに数ヶ月が経った頃。東嶺青龍家の領地は、一ヶ月もの間、狂ったように激しい雨が降り続く日々に見舞われていた。  不知火が「水龍関係の仕業じゃな……」と呟きながら、外の重く垂れ込める雨雲を眺めている。   「作物が心配ですね」   「水やりをせんでいいのは楽じゃが、こうも続くとお天道様が恋しくなるのう」    ぼんやりと不知火の隣で雨音を聞いているうちに、春雷の脳裏に、あの時「時雨と仲良くしてね」と笑った菜種梅雨の顔が鮮明によみがえった。   「不知火様、傘をお借りしてもよろしいでしょうか」   「お主の傘なら、そこにあるじゃろ?」   「いえ、私のためではなく」    激しく地面を叩きつける雨を見つめたまま、春雷は静かに言った。   「今、酷い雨の中で泣いている子に、差しに行きたいのです」    不知火は「仕方ないのう」と苦笑しながら、大きな青い番傘を貸してくれた。    春雷はその傘を抱え、山を降りて麓の水龍一族の里へと向かったが、そこに時雨の姿はなかった。嫌な予感がして、普段は決して足を踏み入れない人間の街へと降りてみた――その時だった。    どこからともなく、鈍い音を立てて大きな石が飛んできた。   「不浄の者が! 立ち去れ!」 「黒い獣の分際で、立派な着物を着おって!」 「汚らわしい、こっちに近寄るな!」  無数の石を投げつけられ、泥を投げられ、衣服がどれほど汚れようとも、春雷はただ、借りた傘を濡らさぬよう、壊さぬように強く抱きしめ、ひたすら時雨を探し続けた。    ようやく見つけた時雨は、街の外れの泥濘の中で、ただ一人、泥だらけになって蹲っていた。    目の周りにひどい隈を刻み、この世の絶望をすべて背負ったような顔で項垂れる時雨。その頭上に、春雷は静かに傘を差し掛けた。    叩きつける雨音が遠のいたことに気づき、時雨がゆっくりと顔を上げる。   「……春雷」    消え入りそうな声に、春雷はただ、静かに頷いた。   「帰りましょう、時雨公子」    時雨の視線が再び足元の泥へと落ちる。そして、堰を切ったように、血を吐くような言葉が溢れ出した。   「姉上が……届かないところへ、行ってしまった」   「はい」   「俺は、また……姉上に守られたんだ」    時雨は、自分の首元を苦しげにかきむしるような仕草をした。けれど、春雷の目には、そこには何も見えないはずだった。   「もう、何が正解なのかわからない……!」    時雨が、縋り付くように春雷の小さな肩を掴んだ。指先がガタガタと震えている。   「姉上はお前に、俺と仲良くしろと言ったな……どうしてお前だけが、俺に傘を差すんだよ!」    春雷は傘を持ったままその場にしゃがみ込み、時雨の顔を、自身の「虹色の瞳」でまっすぐに見つめた。   「菜種梅雨様との、約束ですから」    激しい豪雨の薄暗闇の中でも、その虹色の瞳だけは、恐ろしいほど神秘的な光を宿して輝いていた。    時雨の目から、一筋の熱い涙がこぼれ落ちる。それがやがて激しい嗚咽となり、彼は泥に塗れながら、何度も、何度も姉の名前を呼び続けた。  その悲痛な叫びがいくら激しい雨の音にかき消されようとも、すぐ隣にいる春雷の耳には、しっかりと届いていた。  

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