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第六話 二重の呪縛と友との約束

 時雨はしばらくの間、不知火の屋敷での療養を余儀なくされた。    心身ともにすり減り、彼が心の中でも泣き続けていたせいか、雨はしばらく止むことはなかった――けれど、春雷の体にできた石の傷がすっかり癒えた頃、ようやく雲の隙間から太陽が顔を覗かせた。   「春雷」    朝食の準備をしていると、時雨がバツが悪そうに台所に顔を出した。   「おやまあ、ずいぶんと遅いお目覚めですね」    春雷が少しからかうように言うと、時雨は一瞬で顔を赤くした。   「お寝坊さんは、ようやく立ち上がれましたか?」   「うるさい」   「泣き虫さんでも、別に良いんですよ?」   「黙れ!」    ふう、と安堵の息をつくと、春雷は「朝食を運んでください」と時雨に盆を渡した。   「昔、不知火様から聞いた話なんですけどね」    まだ小さかった頃、街で罵倒されて泣いていた春雷に、不知火が教えてくれたことがあった。   「人間や獣は、激しく泣くたびに『心の鍋』がすっからかんになってしまうのだそうです。空っぽになった鍋は、悲しみや憎しみ、羨みといった黒い感情で満たされやすくなる。だから――」    春雷は時雨の目を真っ直ぐに見つめた。   「だから、その心の鍋を、まずは温かい食事で満たすんです。そうして心を満たしたとき、もう一度自分の気持ちを見つめ直せば……自ずと道は開かれよう、と」    不知火の受け売りだったが、その言葉は今の時雨の胸に、静かに、深く響いたようだった。時雨はそそくさと、しかし今度は壊れ物を扱うように丁寧に、食事の盆を運び始めた。その成長の兆しを見送りながら、春雷は優しく微笑むのだった。   ◇    食事が終わると、遠くの空でゴロゴロと重い雷鳴が轟くのが聞こえた。  その音を聞いた瞬間、春雷はまるでご馳走を前にしたかのように、目をらんらんと輝かせた。   「不知火様! 行ってきます!」    喜び勇んで中庭へと飛び出していく。不知火は、いつになく足取りの軽い春雷の背中を見送って、目を細めた。   「気をつけるんじゃぞ」   「はーい!」    春雷は不知火に元気に手を振り返し、激しくなり始めた雨の中を一目散に駆けていく。    大粒の雨が肌に触れるたび、春雷の乾いた手足が、まるで水を吸う大樹のように生き生きと潤っていく。雷鳴が轟く空を仰ぎ、春雷は本当に嬉しそうに両手を広げ、天の恵みを全身で受け止めていた。    その異様な様子を、療養中の時雨が、縁側から怪訝そうな目で見つめていた。   「不知火様。春雷は、あそこで一体何をしているのです?」   「答える義理はない」    不知火は、ぴしゃりと素っ気なく返した。   「まだ確証がないからの。憶測で口にすれば、色々と面倒になる」    不知火は煙管(きせる)の煙をふうっとくゆらせる。その、いつもは好々爺のようだった目が、ふっと冷酷に細められた。向けられた視線の底知れない鋭さに、時雨の背筋に冷たい戦慄が走る。    トントン、と煙管の雁首を縁側に打ち付けると、不知火は隣の少年に、低く問いかけた。   「――春雷から聞いたぞ。お主、わしの部屋の禁書を読んだじゃろ」    その一言で、和やかだった空気が、一瞬にして凍りついた。時雨はヒュッと息を呑む。   「たかを括ったな。春雷にはわからないとでも思ったか? あの子は賢いからの。お主が読んだ後、普通の書物とすり替えておいたわ。……春雷に感謝しろ。お主の首がその鎖だけで済んでいるのは、禁書の中身を完全には読んでいないからじゃ。もし読んでいたら、今頃その舌を引き抜かれておるわ」   「……不知火様には、見えているのですね」   「その首輪、二重にかけられておるな。お主、菜種梅雨のためを思って必死に抗ったのだろうが――完全に逆効果であったな」    時雨は痛々しく自身の首元をさすりながら、激しい雨の中、泥だらけではしゃぐ春雷の姿をじっと見つめた。   「……不知火様は、春雷の支えとして俺を彼に会わせたのだと思っていました。なのに、今の俺では、春雷を守ることすらできない」   「うつけめ。わしが春雷のために会わせたわけではないわ」    不知火は苦い顔をして、時雨の感傷を即座に否定した。   「菜種梅雨に頼まれたからじゃ。あやつはお主を一人にしたくなかった。父親からの重圧に耐えきれなくなる前に、なんでも話せて、分かち合える『友』に巡り合わせたかったのだ。その相手として、たまたま選ばれたのが春雷だった、ただそれだけのこと」   「姉上……」   「お主はどこまでも、菜種梅雨に守られている」    トン、と不知火は煙管を置き、真っ直ぐに時雨と向き合った。   「だがお主は、いつまで姉に守られているつもりだ?」    妖しく光る赤い瞳が、射抜くように時雨を捉える。   「春雷は強い。でなければ、あの『ハクビシン』という身の上で生きられない。無数の石を投げられ、侮蔑されても、己の意見をはっきりと伝える度胸もある。相手の意図を読み取る観察力にも長けておる。その者を、今の、そんなお主が支えるじゃと?」    かかっと、不知火は低く豪胆に笑い、時雨を睨みつけた。   「笑わせるな、小僧」    時雨は悔しさに唇を噛み、震える拳を握りしめて深く頭を下げた。   「春雷には自分を守る『力』は身につけさせておる。あやつにないのは『権力』じゃ。わしがいずれ深い眠りにつく間、あやつの後ろ盾となる存在を見つけねばならぬ。しかし、今のお主では力不足もいいところよ」    時雨の首にかかっている首輪は二重。    一つは、彼の霊力を吸い上げる首輪。 そしてもう一つは――冷徹な「監視の楔」だった。    一挙一動を覗き見られ、能力を制限されているなど、囚人と何ら変わりはない。このまま大人になり、文官の跡を継いだところで、力のない長に権力など集まるはずがない。霊獣界はわかりやすいほどに弱肉強食。力こそが、権力を持つのだ。  時雨は見えない首輪を握る。   「……それでも、俺は春雷に救われました」    時雨の脳裏に、あの泥濘の中で自分に傘を差し出してくれた、傷だらけの少年の姿がよみがえる。どんなに世界から淘汰されようとも、決して曇ることのなかった、あの美しい虹色の瞳。   「水龍としての力はなくとも――『時雨』として、今度は必ず俺が、あいつを守ります」   「無能が何を言っておる」   「例え、能力がなく、才覚がなかろうとも!」    時雨は顔を跳ね上げ、声を張り上げた。   「必ず、のし上がってみせます」    自身の首を絞める、見えない楔をその手で力強く掴み取るようにして、時雨の瞳がギラリと輝いた。その強い光に、不知火はわずかに目を細める。   「……険しい道になるぞ」   「もとより、優しい道などあるはずがない。もうすでに、覚悟の上です」 「――自ずと道は開かれよう、か」    不知火はこの話はもう終わりだ、と告げるように、時雨の頭をくしゃくしゃと手荒に撫でた。そして、隣にいる少年へと聞こえるよう、低く、しかし確かに告げた。   「期待しているぞ」    時雨は小さく頷くと、大きな番傘を手に取り、中庭で激しい夕立を浴びてはしゃいでいる春雷のもとへと歩み寄った。そして、バサリと音を立てて、その小さな頭上に傘を差し掛けた。   「――今度は、俺が傘を差してやる」    突然雨を遮られた春雷は、不思議そうに時雨を見上げ、ふっと悪戯っぽく破顔した。   「遠慮します。私は雨が好きなので」   「黙って感謝しろ。俺は強くなって、お前を守ってやるんだからな」   「一昨日まで泣き虫だったのにですか?」   「なんだと!」    いつものように顔を真っ赤にして怒り出す時雨を見て、春雷は嬉しそうに、優しく微笑んだ。    そして、おもむろに小さな手を伸ばすと、時雨の『首元』を真っ直ぐに指差した。   「あなたが私に傘を差し続けてくれるなら――私は、時雨の大切なものを、必ず全て取り戻しましょう」    雨の薄暗闇の中で、春雷の「虹色の瞳」が、神秘的な光を一瞬だけ強く放った。    何も見えないはずの少年の指先は――時雨の霊力を吸い上げ、その行動を縛り付けている不気味な『二重の首輪』を、正確に捉えていた。   「それが、私の恩義です」    

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