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第七話 運命は頁をめくる

時雨(しぐれ)がそっと傘を差してくれたあの日から、早くも七年。 ハクビシンの化身である春雷(しゅんらい)は、十七歳の春を迎えていた。 朝の勤めを終えた春雷にとって、万象書庫(ばんしょうしょこ)へ向かうのは何よりの楽しみであり、日課でもあった。  静謐な空気の中、お気に入りの踏み台に腰掛け、分厚い本を開く。一刻(約二時間)ほど読書に耽る。それが、彼にとって何よりの至福の時間だった。 しかし、その平穏は、背後から近づく豪快な足音によって破られた。     「春雷、今日のお勤めはもう終わったのかの?」   「あ、不知火(しらぬい)様。はい、朝一番に済ませました。昼食まではまだ時間がありますので、ここで少し勉強をしようと思いまして」   春雷は愛想よく答えたが、その手元にある本を見た不知火が、すっと目を細めた。 「……お主、禁書(きんしょ)には触れておらんじゃろうな」 春雷は思わず肩を震わせた。 「う……」 「隠しても無駄じゃ。以前見た時と、本棚の並びが変わっておった。……特に、天命(てんめい)について記された書はな」 「き、気のせいです!」 「あの書は、軽い気持ちで読むものではない」   不知火が「こら!」と拳を振り下ろしたが、春雷は身軽にそれをかわす。  だが、歴戦の強者である不知火は、それを見逃さなかった。 「甘いわ! わしの説教からは逃れられんぞ」 「わっ、ちょっと、不知火様!」 春雷が逃げようとした瞬間、不知火の腕が素早く伸びた。 弱っているとは思えぬほどの力で、春雷の身体をひょいと肩に担ぎ上げる。 「まだまだ、これくらいの力は残っておるわい」 「だからといって担がないでください!」   不知火は快活に笑いながら、ジタバタする春雷を担いだまま万象書庫を後にする。   その去り際、不知火は棚の隅から一冊の古びた本を見つけると、「やはりここにあったか」と小さく呟き、誰にも気づかれぬよう素早く懐へと滑り込ませた。 そのまま広間の扉を開けると、そこには先客が佇んでいた。   「……何をしているのですか、お二人とも」   手紙を手にした時雨が、担がれてぐったりしている春雷を見て、呆れたように目を丸くしている。   「春雷がまた悪戯をしおってな。お仕置きの説教へ連行するところじゃ」   「不知火様、みっともないので降ろしてください! お茶の準備をしますから!」   空中でもがく春雷の言葉に、不知火は「それもそうじゃな」とあっさり彼を着地させた。 春雷は着地するなり、不知火に一度ぺこりと頭を下げ、そそくさと台所へ逃げていく。 その背中を見送りながら、不知火は小さく息を吐いた。   「春雷が何か、大層なことでもしでかしたのですか?」   心配そうに尋ねる時雨に、不知火は「いや、なに。大したことではない」と、気にするなとばかりに手を振った。   「それより、今日は何用じゃ?」   「父上――もとい、水龍文官からの使いで参りました」   不知火は時雨から受け取った手紙を|一瞥《いちべつ》し、そのまま面倒そうに机へ放り出した。   「うへえ、面倒くさそうじゃのう……」   あからさまに嫌そうな顔をして、不知火が机に突っ伏す。 そこへ、お盆を持った春雷が戻ってきた。湯気の立つお茶を机に置きながら、冷静に突っ込む。   「逃げても終わりませんよ、不知火様」   「さっきまでわしから逃げ回っていたお主が言うな」   「……それは、その、申し訳ありませんでした。以後注意します」   「……お主、絶対にまたやるな?」   図星を突かれた春雷は、気まずそうにふいと目を逸らした。不知火は根負けしたように深い溜息をつき、渋々と手紙の封を切った。   しかし、手紙に目を走らせるうち、不知火の顔から先ほどまでの気の抜けた表情が消えていく。 爛々と輝く赤い瞳が、鋭く細められた。   「……ほう」   ポツリと漏らした声の低さに、その場の空気がぴりりと引き締まる。   「面倒なことになったのう」   「何が書かれていたのですか?」   時雨の問いに、不知火は手紙を机の上に広げた。   「用件は二件。一つは水龍文官からじゃ。新しく統主となった御仁への挨拶に、こちらから出向けとのこと」   そこで一度言葉を区切り、もう一枚の紙を持ち上げる。   「もう一つは、黒龍武官黒南風(くろはえ)からじゃ。巷を騒がせている『:穢獣による誘拐事件』の件で、至急、調査協力を頼みたいそうじゃ」   事件と聞き、春雷の表情も自然と引き締まる。 穢獣とは、霊獣の怨念が形を成したものだ。 だが、穢獣が誘拐事件を起こすなど、聞いたことがない。 不知火は腕を組み、少し思案してから顔を上げた。その視線に込められた意図を察した春雷は、力強く頷く。     「不知火様、私は黒南風様の元へ参りましょう」   「頼んだ。わしは水龍文官と共に新しい統主へ挨拶に行かねばならん。すまないが、今から渡す書物を黒南風の元へ届けてほしい。解決の鍵となる書物じゃ。あやつなら、上手く扱うじゃろう」   不知火は立ち上がると、先ほど懐に入れておいた古びた本を取り出し、机に置いた。   「この古い記録が、奴の助けになるはずじゃ」   「承知いたしました。すぐに届けます!」   春雷は素早く旅支度を整え、風呂敷に包んだ本を背負う。最後に笠を深く被り、布で特徴的な獣の耳と顔を隠すと、不知火の前にしっかりと立った。   「……一人で本当に大丈夫か?」   春雷の笠が少し傾いているのに気づき、時雨がそっとそれを直しながら、心配そうに顔を覗き込んだ。   春雷はきゅっと唇を引き結び、悪戯っぽく微笑む。   「問題ありません。最近の私は、不知火様からお仕事も任されているのです。多少の危険があっても対応できるよう、常に鍛えていますから! それに……時雨だって、手合わせで私に勝てたことがないじゃないですか」   「なんだと?」   時雨が眉をひそめると、春雷はさらに声を潜めて「……三勝百二十七敗のくせに」と付け足した。   「それ、ただの鬼ごっこの話だろうが! まったく、余計な心配だったな。さっさと行け、うせろ!」   「次は勝てるといいですね」 「なんだと!」   春雷は楽しそうに笑って、不知火の屋敷を飛び出した。   「不知火様、お先に行ってきます!」   「気をつけるんじゃぞー!」   「待て春雷、逃げるな!」   顔を真っ赤にして後を追いかける時雨と、韋駄天の如き速さで逃げていく春雷。   不知火は苦笑しながら、賑やかな二人の後ろ姿が見えなくなるまで、のんびりと手を振り続けた。   街へと続く山道を一気に駆け降りたものの、結局、霊獣化した時雨にあっさりと追いつかれてしまった春雷は、不満げに頬を膨らませていた。   隣で時雨がにやにやと勝ち誇ったようにぼやく。   「これで四勝百二十七敗だな」   「戯言を。水龍になって追いかけるなど、ルール違反ではありませんか?」   霊獣化されてしまっては、ただのハクビシンである春雷に勝ち目はない。龍は空を飛べるが、春雷は人の姿のほうがまだ足が速いのだ。   ブツブツと言い合いながら街へ一歩足を踏み入れると、二人はその光景に圧倒された。   至る所に色鮮やかな提灯が吊るされ、ひらひらと美しい花びらが舞い散っている。往来は活気に満ち溢れ、行き交う人々は皆、楽しそうに笑い合っていた。いつも以上に絢爛豪華に彩られた街並みだ。   「今日は、何かのお祭りなのでしょうか?」   生まれて初めて見る祭りの光景に、春雷は目を輝かせる。 時雨は、通りに飾られた豪奢な金龍の彫刻を指差した。   「東嶺青龍家(とうれいせいりゅうけ)の新しい統主が決まった、その祝いの宴だそうだ」   「新しい統主……どんな方なのです?」   「なんでも、突然現れて統主の座に就いたらしい。名は『薄明光線(はくめいこうせん)』」   「なるほど、だから『薄明光線祭り』なのですね」   提灯に美しく書かれた文字を横目で見ながら、春雷は周囲を見渡した。 これほど大規模な祭りだ。黒龍家の警備隊も、そこかしこに配置されているだろう。   その時――。   「やめてください! 私たちはただ、観光をしているだけです!」   鈴を転がすような、凛とした女性の悲鳴が混み合う雑踏の向こうから聞こえた。布で隠された春雷のハクビシンの耳が、ぴくりと跳ねる。   「時雨、数百歩先で女性が揉めています。すぐに向かいましょう!」   時雨が静かに頷いた瞬間、春雷の身体をひょいと抱え上げ、一息に屋根の上へと跳び上がった。     「なんだ、お前らは!」   怒鳴り声をあげたのは、警備隊の制服をまとった男二人だった。 春雷はすっと前に出ると、人差し指を立てて男たちを制した。   「昼間から女性に無理やり声をかけるとは、ずいぶんと暇なようですね。祭りの警護はどうしたのですか?」   「あぁん? 男二人で連れ立ってるお前らに言われたくねえよ」   男たちは、春雷と時雨を下から上へと舐めるように見回し、鼻で笑った。   時雨が不快そうに口を開きかけた時、背後にいた女性が警備隊に向かって果敢に突っかかる。   「なによ! この方たちの言う通りでしょう? 警備にかこつけていきなり腕を掴んできたのは、あなたたちよ! しつこいったらありゃしない!」   桃色の髪をなびかせ、毅然と詰め寄る女性。その後ろから、おかっぱ頭の小柄な黒髪の少女が慌てて割って入った。   「姫様、礼儀のない不届き者に何を言っても馬耳東風(ばじとうふう)です! ここはぐっと抑えて、こちらの殿方お二人に任せましょう!」   「さらっと押し付けられたな」   時雨が苦笑するが、春雷はふっと微笑んだ。 ——姫様と呼ばれているので高貴な方だろうか。   「まあまあ。ちょうど私たちは黒南風様の居場所を知りたかったところですし、ここは引き受けましょう」   どうやら黒髪の少女の方が、一枚上手だったようだ。 二人の女性がお辞儀をしてその場を立ち去ろうとすると、警備隊の男たちは逆上し、執拗に女性たちへ掴みかかろうと腕を伸ばした。   「なにするのっ!」  

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