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第八話 穢れに蝕まれし者

 鋭い悲鳴が響くより早く、その汚い手を力強く叩き落としたのは、春雷(しゅんらい)だった。 春雷が男の腕を鋭く払った瞬間、彼の指先からバチバチと紫色の雷電が弾ける。 不知火が自分を守れるように鍛えてくれた能力ーー紫電(しでん)だ。   「ぐあああっ!?」   凄まじい衝撃に、男は腕を押さえてその場に膝をついた。 春雷はすかさず時雨(しぐれ)に目配せをし、女性二人を近くの建物の庇(ひさし)の下へと素早く誘導する。   「何故、屋根の下に……?」   訝しげに尋ねる黒髪の少女に、春雷は人差し指を自身の口元に当てて「しーっ」と微笑んだ。   「時雨に、後始末はお任せしましょう」   春雷がそう言った直後、まるでバケツをひっくり返したかのような猛烈な局地豪雨が、警備隊の二人を直撃した。 あまりに濃密で激しい雨に、男たちは呼吸すらできず、溺れるように苦しみ出す。 凄まじい光景を、時雨は差しておいた傘の下から、冷ややかな瞳で見下ろしていた。     「あれは……あの方の能力なの?」   桃色の髪の女性が息を呑む。春雷は誇らしげに頷いた。   「はい。時雨の能力の一つ、『蒼天雨龍(そうてんうりゅう)』の力です」   やがて警備隊の二人が完全に意識を失って倒れ込むと、時雨は静かに傘を閉じ、春雷たちの元へと歩み寄ってきた。 桃色の髪の女性は「あらまあ」と感嘆の声を漏らした後、上品に微笑み、一礼した。   「助けていただき、本当にありがとうございました。改めてお礼を申し上げます」   その丁寧な所作に、時雨と春雷も深くお辞儀を返す。   「私は翡翠輝石(ひすいきせき)と申します。本来であれば、身の上もお話しすべきなのですが……少々事情がありまして、名乗りだけにとどめることをお許しください」   「お気になさらないでください。私たちは黒龍の将、黒南風様に用事があって通りすがっただけ。あなた方の事情を詮索するつもりはありません」   春雷の思いやりのある言葉に、翡翠輝石は嬉しそうに微笑むと、隣の少女に合図を送った。   「この子は瑠璃(るり)と申します。瑠璃、彼らにあれを見せて差し上げて」   「はい、姫様」   瑠璃と呼ばれた少女は、気絶した警備隊の男の元へ歩み寄ると、その腕を乱雑に持ち上げた。 男の袖をまくり上げると、そこには不気味にうごめく漆黒の紋様が浮かび上がっていた。   「……近頃、多発している穢獣(けじゅう)による誘拐事件。実は、この黒い痣がその元凶なのです。これは穢獣の穢れに侵されたことで現れる、いわば穢染(けせん)の症状。すぐに浄化しなければ、先ほどの彼らのように理性を失い、凶暴化してしまいます」     瑠璃がそう説明しながら、男の痣を「ぱんっ」と軽く叩く。 すると、黒い痣が消え去り、男の肌は元の色を取り戻していった。一瞬にして穢染を浄化する彼女の技量に、春雷と時雨は目を見張る。   「まさか、このような場所にまで穢染が広がっているとは思いもしなかったわ。私たちは早々に国へ戻ることにします。あなたたちも、これ以上は関わらない方が身のためよ」   翡翠輝石は真っ直ぐな強い瞳で警告を残すと、もう一度深く礼をして、人混みの奥へと去っていった。 その背中が見えなくなるまで見送った後、時雨と春雷は顔を見合わせた。   「どうする?」   時雨の問いかけに、春雷は背負った風呂敷包みをぽんぽんと叩き、悪戯っぽく笑った。   「どうするも何も……頼まれた仕事をこなすだけですよ」 「違いないな」 「はやく本を届けに行きましょう」   時雨もつられて、ふっと表情を和らげる。 不穏な事件の影を感じつつも、二人は確かな信頼を胸に、黒南風(くろはえ)の待つ場所へ向けて再び歩みを進めるのだった。 ◇ 街の警備隊が待機している広大な屋敷を見つけると、守衛に時雨が声をかけた。案内された客間で、二人は黒南風の到着を待つよう指示される。    やがて運ばれてきた茶は、なぜか時雨の前だけに置かれた。    あからさまな差別に時雨が眉をひそめる中、春雷は気にした様子もなく、被っていた笠を外して傍らに下ろした。   「……いいのか、これ」    時雨がお茶を見つめたまま、小声で尋ねる。   「どうやら、私がハクビシンだということは既に知られているようです。これ以上、隠す理由もありませんから」    時雨は少し痛ましそうな顔をすると、目の前のお茶をすっと春雷の前へとずらした。   「お気遣いなく。私は平気です」   「年下には優しくするものだろ」   「一つしか歳が変わらないのに、兄面するのは私に勝ってからにしてください」   「減らず口め」    春雷は小さく悪態をつきながら、お茶を時雨の前へと押し戻した。  そもそも、立場上、春雷に出されていない茶に口をつければ「不敬を働いた」と言いがかりをつけられかねない。   「お気持ちだけいただきます」    春雷は背負っていた風呂敷を下ろし、不知火から預かった大切な書物を机の上に置いた。    ――その、刹那。  凄まじい勢いで襖が開かれ、一人の男が踏み込んできた。   「ここにハクビシンが入り込んでいると聞いたぞ! 不浄の者め、己の身の程を弁えよ!」    男は警備隊の隊服を身に纏い、武装していた。おそらく黒南風の部下だろう。    男は容赦なく卓を蹴り飛ばすと、投げ出された本を強引に奪い取った。さらに鋭い視線で春雷を一瞥するなり、その細い肩を力任せに掴み、組み伏せようと覆い被さってくる。   「こちらの本は俺が預かる。不浄の獣は下がっておれ!」    突然現れて、黒南風の客人を攻撃するなど、いくらハクビシンへの差別が根強いとはいえ、本来はあり得ない暴挙だ。春雷はこれまでにも何度か不知火の使いで黒南風に会いに行ったことがあるが、陰口を叩かれることはあっても、直接手を上げられたことは一度もない。    ――黒南風という絶対的な存在が、それを許さないからだ。   (この男、様子がおかしい……!)    春雷は掴みかかってくる手を払い除けようと、指先に「紫電(しでん)」を走らせる。だが、警備兵の動きは異様なほど俊敏だった。一瞬の差で手を引かれ、身をかわされる。その際、男の捲くれた袖口から、肘まで広がる「不気味な黒い痣」がひらりと見えた。   「時雨! この男、腕にあの痣があります!」   「何だって!?」    時雨がすかさず男を取り押さえようと踏み込む。しかし、男は素早い身のこなしで時雨の死角へと回り込み、逆に時雨の足を払って床へ組み伏せようとした。    すぐさま春雷が紫電を放ち、時雨を掴んでいた男の手を弾く。   「時雨! あとでみっちり鍛え直しですね!」   「今言うことか!」    さすがは黒南風直属の警備兵だ。身体能力が尋常ではない。先ほど街中でちょっかいを出してきた、ただのゴロツキどもとは格が違った。さらに、男は狂気的な力で書物をガッチリと抱え込んでいる。   「時雨、なんとか術で浄化できないんですか!?」   「できなくはないが、俺の術は『水』だ! そんなことをしたら、その本が台無しになる!」      本を取り返そうと、春雷は鋭い蹴りを叩き込んだが、男はそれをことごとく無駄のない動きで受け流す。  このままでは埒が明かない。本を取り戻したいが、水で濡らすわけにはいかない。   「……仕方がありません。時雨、多少の感電は覚悟してください!」   「おい、まさか――」    春雷は手のひらを床に向け、霊力を練り上げる。   「時雨! 感電したくなければ、その男を床に全力で押さえつけてください!」   「……本当に注文の多いやつだな!」    文句を言いながらも、時雨は男の首根っこを掴み、力任せに床へと叩きつけた。    ドスン、と激しい衝撃音が響いた瞬間、春雷が叫ぶ。   「紫電招来(しでんしょうらい)!」    客間全体に、激しい紫の雷撃が吹き荒れた。床を伝う凄まじい衝撃に、男を抑え込んでいた時雨さえも、思わず全身を激しく震わせる。    ここまでの雷を喰らえば、いかに異能の男とて動けなくなるはずだった。だが、男は獣のような唸り声を上げ、なおも立ち上がろうと足掻く。   「こいつ、何て力だ……!」    あまりの抵抗の強さに、男の首を掴んでいた時雨の手が、弾き飛ばされた。自由になった男は、書物を抱えたまま素早く襖の近くまで後退する。   (しまっ――逃げられる!)    時雨と春雷が慌てて後を追うが、男の逃げ足の方が一瞬早い。    男が襖に手をかけた、その刹那。  凄まじい風圧とともに襖が吹き飛び、低い声が、まるで獣の咆哮のように響き渡った。   「――何をしている」  現れたのは黒龍武官の長・黒南風。  漆黒に艶めく鎧をまとい、岩山を思わせる屈強な体躯を持つ男だ。浅黒い肌によく映える濃紺の髪を後ろで一つに結んだその姿は、ただ立っているだけで周囲の空気を支配してしまうような威風を漂わせていた。    一瞬にして凍りついた空気の中、男はただの一歩も進むことができず、その場に崩れ落ちて気絶した。   「黒南風様!」    春雷と時雨が安堵の息を漏らした。

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