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第十三話  まだ見ぬ世界へ

 いつものように雑務を終えた後、春雷(しゅんらい)は静かに筆を走らせていた。手元にあるのは、明日からの仕事の引き継ぎ書だ。    霊獣学府(れいじゅうがくふ)へ入校すれば、それぞれに宿が割り当てられ、最低でも一時は帰ってくることができない。その間、水龍文官――時雨(しぐれ)の父親の計らいにより、水龍一族の者が不知火(しらぬい)の世話を引き受けてくれることになっていた。    春雷の務め自体は、さして難しいものではない。    ――ただ、主である不知火が「わがまま」さえ言わなければの話だが。   「不知火様。好き嫌いは感心しませんよ」    朝餉の器から苦手な瓜をこっそり避けていた不知火が、ぎくりと肩を跳ねさせた。春雷は静かに箸を置き、主へと視線を向ける。   「春雷は霊獣学府へ参りますが、与えられた勤めは必ず果たします。万が一のことがあれば、迷わず一報を」    不知火が深き眠りにつく刻、春雷がその身を霊水へと沈める――それが二人の交わした約束であり、不知火が春雷を育て上げた理由でもあった。   「……承知した。そなたも勉学に励み、よく食べることだ」   「はい!」    不知火は素直に箸を進めたものの、突然、食卓へ叩きつけた。あまりの勢いに、春雷は思わず肩をすくめる。   「やっぱり嫌じゃー! 行かないでおくれ、春雷! 一年など長すぎる!」   「ぐっ……!?」    燃え立つような赤髪を振り乱し、圧倒的な肉体でしがみついてくる。突っ伏させられた春雷は、胃から込み上げる朝餉を必死で押し戻した。   「不知火様……もう、何度も話し合ったではありませんか……」    そもそも、霊獣学府への入学を陰で手配してくれたのは、他ならぬ不知火本人なのだ。   「それでも、寂しいものは寂しいのじゃ!」    しくしくと大粒の涙を流し始めた三万歳の主人に、春雷は呆れつつも、どこか愛おしそうに吐息を漏らした。抱きついた腕に手を重ねる。   「すぐにお暇をいただいて戻ります。それまではどうか、ご息災で」    ――それと。  春雷はすっと瞳を伏せ、声音の温度を下げた。   「……『天命(てんめい)の書』の続きを、私は知りたいのです。不知火様、最近の動向に違和感を覚えませんか?」    不知火の赤い瞳が春雷を射抜く。春雷もまた、その虹色の瞳に静かな光を宿して見返した。   「……具体的には?」   「大きな異変は、前回の穢獣による襲撃事件です。本来、意図を持たぬはずの穢獣(けじゅう)が、私の腕を掴み『見つけた』と発しました」    春雷はそっと自分の手首に巻き付く金色の糸をなぞる。   「何者かが裏で穢獣を操り、何かを追っている――そう考えるのが自然です」    不知火は深く顎を引くと、思案するように指をあてた。  春雷が真に言わんとすること。それを見抜いた瞬間、室内の空気がひやりと鋭く凍りつく。不知火の瞳が細められた。   「……やはり、天命の書を開いたな」    春雷は怯むことなく、緩やかに頷いた。   「彼らが探しているのは、天命の書に記された人物ではないでしょうか。しかし、万象書庫(ばんしょうしょこ)に収められているのは『春の章』のみ。私は、残された他の章を確かめねばならないのです」   「……知って、どうする」    抱きしめていた腕をゆっくり離すと、春雷に対して真っ直ぐに不知火は座る。  問いかけに対し、春雷は真っ直ぐに不知火の視線を受け止めた。  虹色の瞳の奥に、揺るぎない覚悟の火を灯して。   「私は――歪められた道理を正し、誰一人置き去りにしたくありません。たとえ救えなくても、その人が独りだったとは思わせたくないのです」  不知火は小さく息を吐くと、どこか遠い目をして微笑んだ。 「懐かしいの……。昔、お主と同じように救いたいと語っていた者がおった。あやつも、あの頃は誰より真っ直ぐじゃった。……今は、見る影もないがの。」   「不知火様……?」    春雷の問いかけには答えず、不知火は遠い記憶の海を漂うように目を細める。  それは遙か昔、まだこの霊獣界が創生されたばかりの時代の語り草であった。   「春雷。『天命の書』をすべて揃えてまいれ。――これは主人たるわしからの命じゃ」    幼子を慈しむように春雷の頭を撫でると、不知火はふっと悪戯っぽく口元を緩めた。    主人の「命令」という形を取れば、霊獣学府での行動や調査も格段にやりやすくなる。その真意を察し、春雷は「はい!」と晴れやかに破顔した。    その返事を見届け、不知火は何事もなかったかのように再び箸を動かし始める。    時に軽蔑され、理不尽な暴言に晒されようとも、なお置き去りにしたくないと真っ直ぐに願うまでに成長した我が子。  その背中に重なる成長を感じながら、不知火は愛おしさを噛み締めるように静かに目を伏せるのだった。    ◇  いよいよ、出発の朝が来た。  春雷は静かな部屋で荷の重みを確かめ、丁寧に書き付けた引き継ぎ書を机にそろえる。  見慣れた机。毎朝掃除をした床。障子から差し込む朝日さえ、今日だけはどこか名残惜しく思えた。  まさか、この不知火の屋敷から旅立つ日が来ようとは、思いもしなかった。    大きな庇(ひさし)に守られるように過ごした日々。笑って叱られ、褒められ、時には泣きながら修練に励んだ日々。そのすべてが、この屋敷には残っている。青龍でなくとも自分を認め、温かく導いてくれた不知火がいたからこそ、春雷は過酷な修練の末に紫電(しでん)を修得し、ハクビシンという身でありながら今日まで生きてこられたのだ。    ――一歩外に出れば、冷たい視線と石を投げられる日々が待っている。    けれど、歩みを止めた者に道はない。    春雷は帯を締め直し、ぎゅっと着物を正すと、ずっしりと重い行李(こうり)を背負った。  障子を閉める前に、もう一度だけ部屋を振り返る。 「……行ってきます」  誰に聞かせるでもない小さな声を残し、静かに障子を閉めた。      土間に降り立つと、そこには見送りに立った不知火と、艶のある青い髪の水龍一族のお世話係が二人、静かに控えていた。   「不知火様! お見送りに来てくださったのですね」    ぱあっと花が咲いたように顔を輝かせる春雷に、不知火はどこか照れくさそうに頬をかいた。   「春雷、お前は霊獣学府まで、どうやって行くつもりだったのじゃ?」   「歩きです! 百二十七里ほどですので、四日不眠で歩けば到着いたします!」  胸を張る春雷に、不知火は重たいため息をついた。    本来、霊獣であれば青龍となって空を駆けたり、俊足の獣となって一日足らずで着く道のりだ。対して春雷はハクビシン。霊獣化しても人間より歩幅が狭いため、むしろ人の姿のほうがまだ早いほどだった。   「……ですので、計算し直して五日にいたしました。一日分はちゃんと眠れます!」    自信満々に指を立てる春雷。そのあまりに健気で頓珍漢な姿に、不知火は呆れ果て、表を指差した。   「断らなくてよかったわい。表に霊獣馬(れいじゅううま)の引く荷車を回してある。あれに乗っていきなさい」    霊獣馬――御者がいなくとも自ら道を判別して走り続ける、希少な霊獣だ。食事も摂らず、ただ水場に立ち寄るのを邪魔しなければどこまでも進む。   「霊獣馬なら二日もあれば着くじゃろう。夜は荷車の中で体を休めるといい」   「……そんな高価なものを、いただいてしまって良いのでしょうか」   「なに、黒南風(くろはえ)の計らいよ。あやつ、お前を囮にしたことをずっと悔いておってな。素直に受け取ってやりなさい」   (次に会うときは、一番に御礼を言おう)  春雷は心の中で、固く誓った。   「なるべく早めに着くのじゃぞ。夜道は穢獣が出やすくなる、気をつけるのじゃ」    不知火の手によって、春雷は木肌の温もりが残る荷車へと乗せられた。  春雷が腰を下ろすと同時に、霊獣馬は一歩を踏み出し、滑らかに車輪が回転を始める。   「春雷、達者でな」   「はい! 不知火様も、どうかご自愛くださいませ!」    みるみる遠ざかっていく屋敷と不知火の姿に、春雷は荷車の上で立ち上がり、両手を口元に当ててありったけの声で叫んだ。   「私がいない間に眠りについたりしたら、絶対に怒りますからね――!」  春雷の胸の奥が、きゅっと締め付けられた。  振り返れば、きっと泣いてしまう。  だから笑顔のまま、大きく手を振った。   その声に応えるように、小さくなっていく不知火の手が、大きくゆったりと振られた。    慣れ親しんだ風と景色が、後ろへと流れていく。  不意に冷たいものが手に当たり、ハッと視線を落とした。  

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