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第十四話 風花の導き
季節はまだ温かく、空気が冷えているわけでもないのに、手の甲にはひと粒の雪の結晶が舞い落ちていた。
風花 だろうか。
カタコトと心地よい揺れに包まれながら、春雷 は荷を解き、一冊の書物を取り出した。霊獣学府 に入る前に、五神貴族 についての知識を頭に入れておくためだ。
『万象書庫 』から拝借してきたその古書を開くと、古い紙と墨の匂いがふわりと立ち上る。
そこには遠い昔から紡がれてきた霊獣界の歴史が、重厚な文字で刻まれていた。
五神貴族――霊獣界創生時に、天帝と共に天界から独立して立ち上がった五つの霊獣を指す言葉だ。
天帝の名は 玄霄天尊
春雷にとってみれば、雲のさらに向こう側に漂うような、遠く途方もない存在だ。
「玄霄天尊様 ……一体、どのようなお方なのでしょうか」
ぽつりと漏らした独り言に、ふっと優しく風が吹き抜けるような吐息が重なった。
「――狡猾で、救いようのない完璧主義者。決して姿を見せはしないが……」
耳に滑り込んできたのは、はちみつを溶かしたように甘く、どこか冷ややかな声だった。
「今もこうして、誰かを見張っているような男だよ」
「え……?」
春雷が弾かれたように隣へ顔を向けると、そこにはいつの間にか一人の青年が腰かけていた。
瞬きを繰り返し、目をこすっても幻ではない。
漆黒の髪をゆるく結い、黒い着物に黒い羽織をまとった青年だった。天へ昇る龍の刺繍が高貴さを物語る。
伏せられた切れ長の目元には長い睫毛の影が落ち、木漏れ日を浴びる横顔は、人のものとは思えないほど端正だった。
――だが、青龍であるはずなのに角がない。
――一体、いつからそこに?
つい先ほど、春雷の袖に落ちて儚く消えた雪の結晶――それが姿を変えてそこに座っているのではないか。
そう錯覚するほど、彼の佇まいはあまりに唐突で、恐ろしいほど静かだった。
固まる春雷に気づくと、青年はふわりと花がほころぶように微笑んだ。
「ちょうど、さっき来たところだよ」
「あ……あの、私、霊獣馬 を止めた記憶はないのですが……」
困惑と動揺で苦笑いを浮かべる春雷に、青年は首をこてんと傾けてみせる。
「もしかして、お邪魔だった?」
「……いいえ」
我に返り、ふと自分の素性を思い出して青ざめる。ハクビシンの耳が顕現していないか不安になり、慌てて荷物から隠すための布を取り出そうとした――その瞬間。
春雷の手の上に、ひんやりと冷たく、それでいて確かな強さを持った手がそっと重ねられた。
びくりと肩を震わせた春雷は、反射的に手を引き寄せ、青年との距離を半歩ほど空ける。
差別を受け続けてきた身体は、誰かに不意に触れられることへ先に身構えてしまうのだ。
青年は追いかけることもせず、少し困ったように眉を下げた。
「ごめん。驚かせるつもりはなかった」
その穏やかな声音に、春雷は警戒を解かないまま、小さく息をつく。
「……いえ。こちらこそ、失礼をいたしました」
そう言いながらも、視線は青年から逸らさない。
敵意は感じない。けれど、それだけで信用してはいけない。
不知火 から幾度となく言われてきた言葉が胸をよぎる。
――優しい言葉をかける者が、必ずしも善人とは限らない。
「隠さなくても大丈夫。僕は気にしないから」
あまりにも整った容姿に、一瞬だけ息を呑む。
――だが、それ以上に気になったのは、その異様な気配だった。嘘をついているようには見えないが、春雷の視線は青年の手元に注がれていた。
剣だこがある。
着物は質素だが、生地は一級品。
歩き方に無駄がない。
――旅人、というには違和感がありすぎる。
気配すら殺して現れたこの青年の底知れなさに、胸の奥で警告音が鳴り響いていた。
「……ありがとうございます」
少し迷った末、春雷は布を荷物へ戻した。手元の姿勢を崩して安心させつつも、背筋の緊張は解かない。
こほん、と小さく咳払いを挟み、春雷は名乗った。
「私の名前は春雷と申します。失礼ですが、お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
春雷の真っ直ぐな瞳に見つめられ、青年は一瞬だけ丸く目を見開いた。抗い難い神聖さを纏う男だが、どこか気まずそうに、そっと視線を横へと逸らす。
(……もしかして、不格好な私に見るに耐えかねてしまったのだろうか)
春雷が気にして自分の頬を両手で覆うと、青年は空中に指先で小さな円を描きながら、静かに名乗った。
「僕は光芒 。好きに呼んで」
光芒――あまりにもその人に相応しい名だった。
ただそこに座っているだけで立ち上る神聖な気品。だからこそ、正体の見えない怪しさが際立つ。
「では、光芒。あなたも霊獣学府へ向かわれているのですか?」
「そうだね。ぜひとも、会いたい霊獣がいるんだ」
じっと春雷を見つめる光芒の黒目の中に、一瞬、一筋の金色の光が揺らめいた気がした。春雷の背筋に、冷や汗がすっと伝う。
「それって……五神貴族の方でしょうか? 私はまだ勉強を始めたばかりで、詳しく分からなくて」
「よかったら、僕が教えようか?」
光芒が優しく微笑むと、春雷は表面上、瞳を輝かせてみせた。相手の懐に飛び込むフリをして、出方を窺うためだ。
「五神貴族について教えてくださるなら……まずは東嶺青龍家 について伺ってもよろしいでしょうか」
春雷が広げた書物のページに指を添えると、光芒も身を乗り出すようにして覗き込む。
距離が縮まるたび、微かな氷雪の匂いと強大な霊気が春雷の肌をピリつかせた。
「誰のことが、一番知りたい?」
春雷はそっと、古い墨で書かれたひとつの名を指差した。
「東嶺青龍家天明金龍家 ――薄明光線様 です」
「なぜ、彼を?」
春雷は少し面映ゆそうに頬を掻くと、懐から一枚の栞を取り出した。
あの日救われた現場に咲いていた、 手毬灌木 の小さな花を丁寧に押し花にしたものだ。
「いつか……あの日助けていただいたお礼を、直接言いたいのです」
栞を見つめる春雷の言葉に、光芒は驚いたように目を見開いた。だがすぐに、どこか懐かしむような眼差しで口を開く。
「……お礼なんて、当然のことをしただけだよ」
あまりに滑らかな、まるで“当事者”のような言葉に、春雷は弾かれたように光芒の顔を見た。
息を殺す春雷に、光芒はくすりと笑って付け加える。
「……って、彼なら言うかもしれないね」
「……今、からかいましたね」
春雷は努めて幼く振る舞い、ぷっと頬を膨らませて軽く指で突っついた。
光芒はその小さな手を、壊れものを扱うように両手で優しく包み込んだ。じんわりと熱が通っていく。
だが春雷の頭の中は冴え渡っていた。言葉の端々に見え隠れする違和感。この男は、やはりただ者ではない。
「薄明光線はね、異例の若さと速さで統主の座に就いたんだ。天明金龍一族は東嶺青龍家の筆頭でありながら、当時は統主に相応しい霊力を持つ者が皆無だったからね」
「生まれた時から、群を抜いて優れていらっしゃったのですね。ご誕生の折には、きっと盛大なお祝いがあったのでしょう」
「そう思う?」
「違うのですか?」
光芒は少し困ったように苦笑した。
「まあ……祝福なんてされなかったかな。彼が名を知られるようになったのは、ずっと最近のことだ。彼は恵まれた霊力だけでなく、抜きん出た剣技を持っていた」
春雷の脳裏に、あの日の光景が鮮やかに蘇る。空を裂き、群がる穢獣を一瞬で薙ぎ払ったあの美しく恐ろしい剣の軌跡。そして目の前の男から発せられる微かな気配が、記憶の中の恩人と重なり合っていく。
「彼の振るう剣は――天虹剣 。肉体だけでなく、魂そのものを消滅させる恐ろしい剣だ」
光芒が手のひらにふうっと息を吹きかけると、空中にかすかな雪の結晶が生まれ、キラキラと光を反射して舞った。
舞い散る光の粒子をぼんやりと見つめながら、春雷は心の中で確信を深めていた。他人の過去を語るには、あまりに痛みが籠もりすぎている。
「そんな素晴らしい剣を扱えるようになるまで、相当鍛錬したのでしょうね。並の努力ではなかったでしょう」
「なぜそう思う?」
「剣を振らなければ、誰に才があるかなど分かりません。きっと剣を手にするまでにすら、覚悟と努力が必要だったのだと思います」
光芒は少年のように無邪気に笑った。
その笑顔を見つめていると、どこか胸が痛むような不思議な心地になる。けれど同時に、警戒を怠るわけにはいかない。
「そうだね。でも彼は、鍛錬も努力も辛いとは思わなかった。守りたいものがあったから」
光芒はゆっくりと横になると、春雷にも隣に横になるよう手を添えて促した。
「申し訳ありません。私は座ったままで失礼します」
春雷は小さく息を吐き、読んでいた本を膝の上で閉じながら丁寧に断った。
「……霊獣は嘘をつけない。なぜだか知ってる?」
光芒が唇に人差し指を当てて声をひそめると、春雷は静かに首を振った。
「恩に報いる性質があるから。一度受けた恩は、一生をかけてでも必ず返そうとするんだ」
「それはわかる気がします。私も、いただいた恩には報いたい」
春雷は、片手を天井に向けて伸ばすと、ゆっくりと拳を握りしめた。
言葉の裏に含まれた密かな警告――『嘘をつけない霊獣が、真実を隠して近づいてきている』。その事実に胸をざわつかせながらも、感謝の意だけは本物として口に乗せる。
「不知火様に、黒南風 様、時雨 に――薄明光線様。私にできることなら、何でもしたいです」
春雷の虹色の瞳が静かに光ると、光芒は天井を仰いだ。
「いいね。あなたの話も聞きたいな」
「長くなりますよ」
「構わないさ。霊獣学府までは、まだ時間がかかる」
何から話し、どこまでを明かすべきか。春雷は揺れる荷車の中で思考を巡らせ、慎重に言葉を選んだ。相手の真意を探るための、静かな探り合いが始まる。
「ではまず……私がハクビシンとして生まれたところから、お話ししましょうか」
光芒は春雷の言葉に相槌を打ちながら、優しい眼差しで耳を傾けていた。
害をなす意図はないのかもしれない。だが、この圧倒的な強者がなぜ自分のような存在に歩み寄るのか。
春雷は微笑みを絶やさぬまま、その綺麗な横顔を瞳の奥でじっと見つめ続けていた。
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