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第十六話 光はあなたのために

白い木蓮の花弁をそっと頁の間に挟み、重みをかける。  丁寧な手つきで押し花を作ると、春雷(しゅんらい)は荷車の隅、相変わらず窓の外の景色をじっと眺めている光芒(こうぼう)の隣へと歩み寄り、何の迷いもなく静かに腰掛けた。   「また見張りですか?」   「……いや。少し、考えごとをしていただけ」    光芒の視線が、春雷の手首にそっと巻かれた金色の繊細な糸へと落ちる。  その視線に込められた意味を察し、春雷は着物の袖を引いて気まずそうに糸を隠した。   「穢獣(けじゅう)の狙いは……おそらく、この糸です。あなたまで巻き込んでしまって、本当に申し訳ない」    春雷が申し訳なさそうに軽く頭を下げると、光芒は首を左右に振った。   「大したことじゃない。気にしないで」    そう言って、光芒はふと思い出したように言葉を継ぐ。  穢獣に襲われたあの状況でも、光芒は一度も春雷を見捨てなかった。  指示にも従い、無茶をすることもなかった。  少なくとも、自分を利用するためだけに近づいた者には見えない。  胸を覆っていた氷が、少しずつ溶けていく。   「……それに、あなたの紫電(しでん)は綺麗だった。あれはどういう能力なの?」   「体内に溜めていた霊力を電気に変え、手のひらに載せているのです。私は生まれつき、体質的に電気を溜め込みやすくて」    春雷はそう言いながら、光芒の前で無防備に、そっと手のひらを広げた。  ――パチ、と指先から紫色の微小な電光が弾け、静寂に包まれた暗がりを鮮やかに照らし出す。  その瞬間、光芒は一瞬だけ息を呑み、言葉を失った。  紫の光に照らし出された春雷の横顔は、夜の闇にひっそりと咲く一輪の花のように可憐で、けれどどこか神聖だった。  光芒は深く息を吸い込み、呼吸を整えた。   「へえ、すごいな。まるで電気ウナギのようだ」 「ふふ、まあ似たようなものですね」    春雷がくすりと笑みをこぼすと、光芒の目元が和らぐように柔らかくなった。  その表情を見て、春雷はハッとして自分の頬を押さえた。警戒心はもはや消え失せ、親しい友人に悪戯を指摘するような軽やかさがあった。   「……また、私をからかいましたね?」   「さっきから、ずっと自分を責めるような顔をしていたからね。気にしなくていい。これも何かの運命だ」   「確かに。……『旅は道連れ世は情け』と言いますしね」   「『一蓮托生』……の方が、僕としては嬉しいかな」   「お上手なこと。あなたのような美形にそんな目で見つめられたら、真に受けてしまいますよ」   「……していいよ」    光芒の唇から漏れたのは、風に消えそうなかすかな呟き。    春雷が「え?」と聞き返すと、光芒は安堵したように小さく息を吐き、しれっと話題を切り替えた。   「穢獣の狙いがその金の糸だとして……なぜ、彼らはそこまでそれに固執するんだろう」    春雷は穏やかな眼差しで光芒を見つめ、静かに頷いた。   「詳しい理由はわかりません。ですが、彼らが何かを必死に捜しているのは事実です。以前、襲撃された折に『見つけた』と口にしているのを聞きましたから」    その言葉を聞いた瞬間、光芒の雰囲気が一変した。 「へえ……」という声には、氷のように冷ややかな響きが混ざっていた。    春雷が一瞬驚いて目を瞬かせると、光芒はすぐに口元だけを緩め、何でもないように「続けて」と先を促す。  一瞬の威圧感に戸惑いつつも、恐れや疑念を抱くことはなかった。   「……私は『天命の書』が頭をよぎりまして。もしかすると、穢獣が捜しているのは、あの書に記された人物なのではないかと」   「万象書庫(ばんしょうしょこ)にあるのは『春の章』だけだったね。夏、秋、冬……他の章を読み解けば、その正体も分かるかもしれない、という話かな」    春雷は目を丸くして光芒を見つめた。   「どうかしたかい?」   「いえ……なぜ、万象書庫に『春の章』しか残されていないことをご存知なのかと、不思議に思いまして」   「……昔、少し読んだことがあるんだ」    光芒はそっと視線を外した。その横顔は、まるで悪さを咎められた幼子のようにどこか気まずそうだ。   「お互い、悪い子ですね」    春雷はいたずらっぽくクスクスと笑うと、距離感をさらに縮めるように、少し身を乗り出して姿勢を正した。   「霊獣学府(れいじゅうがくふ)へ向かうのは、『夏の章』を探すためです」    一息ついて春雷は言う。   「『夏の章』には、穢獣に狙われている者の手がかりが記されているそうです。誰なのか分からない以上、一刻も早く見つけなければなりません」    春雷は拳をそっと握りしめた。   「私はずっと……不要なものとして淘汰され、蔑まれて生きてきました。だからこそ、誰かが同じような目に遭うのを見過ごしたくないのです」    泣いている人がいたら、その隣でそっと寄り添いたい。  激しい雨に打たれている人がいたら、迷わず傘を差し出せるような。  ――そんな霊獣に、私はなりたい。   「……いいね、とても素敵な志だ」   光芒は馬鹿にしなかった。  ハクビシンの春雷がそう言うと、皆口々に戯言だと否定したけれど、光芒はまるで春雷が最初からそう言う霊獣だと理解しているような言い方だった。   「ねえ……天命の書を探す旅、僕も手伝わせてもらえないかな」   「それはとても心強いですが……ご迷惑では」   「遠慮はいらない」    光芒はそっと隙間を詰めるように春雷へと近づき、真っ直ぐにその目を見つめた。   「あなたの、役に立ちたいんだ」    春雷は――息を止めた。  返事をすることすら忘れて、呆然と光芒を見つめ返す。  生まれてからこの方、誰からも『不要』『役立たず』と踏みにじられ続けてきた。 自分の存在が誰かの役に立つことなど期待されたこともなく、ましてや……他人が『自分のために役に立ちたい』と言ってくれたことなど、この人生でただの一度もなかったのだ。    身構えていた心のかさぶたがすっかり解けて流れていき、温かな感情だけが胸を満たしていく。    喉の奥がぐっと熱くなり、春雷は震える息を吐き出しながら、隠すように苦笑いを浮かべた。   「……ふふ、ぜひよろしくお願いいたします。博識なあなたがいれば、あっという間に見つかってしまいそうですね」   「任せて。探し物は昔から得意なんだ」   「頼りにしています」    春雷が心からの満面の笑みを浮かべると、光芒は細くしなやかな指先を伸ばし、流れるような動作で静寂な夜空を指し示した。    途端に、満天の星々が呼応するように眩い光を放ち始める。一筋、また一筋と、幾重もの尾を引いた流星が夜空を豪奢に横切り、静かな雪の結晶のように舞う星明かりが、ふたりを包む空気をどこまでも幻想的に彩っていく。   「……綺麗ですね」    思わず、吐息とともに漏れ出た素直な一言。  すると光芒は、いっそ切ないほど愛おしそうに目を細めた。   「そうだね。――けれど僕は、この世で二番目に綺麗だと思うよ」   「では、一番は何なのですか?」    好奇心に駆られて尋ねる。目の前に立つ、美しき霊獣が誇る「一番」とは一体何なのだろうかと。     光芒はすぐに答えなかった。    流れる星々の光を受けながら、そっと春雷を見つめ、慈しむように小さく微笑む。    そして深く、静かに息を吸い込むと――まるで何年もの間、温め続けてきたたったひとつの言葉を解き放つように、ゆっくりと囁いた。   「あなただよ」    胸が締め付けられるほど愛おしい笑みを浮かべ、光芒は重ねる。 「僕には、あなたが一番綺麗に見える」    その瞬間、春雷の胸を強烈な風が吹き抜けたような衝撃が襲った。  胸の奥がキュッと締め付けられ、激しい愛おしさと切なさが押し寄せてくる。  かつての願いが叶えられた気がした。  遠い昔に、誰にも聞かれなかった幼い頃からの願いだ。  ――私を一目見て、『綺麗だ』と言ってほしい。その一言さえあれば、私はきっとこの先、いつか一人ぼっちになったとしても生きていけるから。    視界が歪み、知らぬ間に目元から一筋の涙が溢れ落ちている。   「あれ……? 私、どうして……」  不浄者、不細工、汚い、視界に入るな。  ――今まで言われ続けた言葉。    何度体を綺麗にしようと、鏡の前で笑う練習をしようと、少しでも清らかでいようとも、誰も春雷を綺麗だとは言わなかった。せめて心だけは綺麗でいようと、決めていた。  でも、本当は――。  誰よりも、その言葉を欲しがっていた。  道行く子供が「可愛い」と大人たちに言われ、  恋人同士が「愛しい」「綺麗」と囁き合う。  美しい霊獣に出会えば、皆が口を揃えて称賛する。  なのに、誰も春雷には言ってくれなかった。  ――渇望していた。ずっと。    突然の涙に戸惑い、慌てて目元を拭おうとする春雷。  光芒は静かに手を伸ばすと、その指先で春雷の涙を優しく掬い取った。    触れられた頬に伝わる指先の温度は、どこまでも愛おしく、懐かしかった。虹色の瞳が、光芒の姿を揺らめきの中で捉える。  かつて誰かに言われたかった言葉をなぜ、彼は知っているのだろうか。   「私……どこかで……」    震える声で、春雷は言葉を紡いだ。   「あなたと……どこかでお会いしたことがありますか?」    光芒は答えず、ただ愛おしそうに微笑むだけだった。

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