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二章 第十七話 はじまりの住処

パカパカと軽快に響いていた霊獣馬(れいじゅううま)の蹄(ひずめ)の音が、ふっと途絶えた。    静寂のなかで目を開くと、そこには息をのむほど美しく力強い山々と、 底の砂利まで透き通る清流に抱かれた静寂な土地が広がっていた。  中央を治める天煌麒麟家(てんこうきりんけ)の領地――選ばれし「五神貴族(ごしんきぞく)」の子弟たちが通う、格式高き霊獣学府(れいじゅうがくふ)である。    だが、その壮大な景色に感動に浸る間もなく、春雷(しゅんらい)を迎えたのは冷ややかな現実だった。    案内役として現れた麒麟の導士(どうし)は、口元をすっぽりと白い布で覆い、まるで汚物でも見るかのように眉をひそめている。  その蔑みを隠そうともしない冷徹な視線に、春雷は「またか」と胸の奥で苦く笑った。    荷車から重い背負い籠を下ろそうと手を伸ばした瞬間、ひょいと影が差した。  光芒(こうぼう)がすべり込むように割り込み、その荷物を軽々と肩に担ぎ上げる。   「僕が持つよ」   「あ……ありがとうございます。でも、自分の荷物ですから」   「いいから。こういう力仕事は得意なんだ」    断る隙すら与えず、颯爽と歩き出す光芒の後ろ姿を見送り、春雷は苦笑交じりのため息をつく。急いで足早に追いかけ、彼の隣に並んだ。    並んで歩きながら、春雷の脳裏には出立前に時雨(しぐれ)が語っていた言葉が蘇っていた。 『宿舎も食事も、すべて学府が用意してくれる』  至れり尽くせりの学府生活を、どこかで期待していた自分がいたのだ。   「……春雷様」    現実に引き戻した導士の声は、氷の棘のように尖っていた。  指をさされた先を見て、春雷は言葉を失う。   「皆様とは『特別』なお立場であらせられますゆえ、こちらの宿舎をご用意いたしました。食事は材料のみの提供となりますので、そちらの倉庫に準備してございます。……どうぞ、ご自由にお過ごしくださいませ」    うやうやしい恭順の言葉とは裏腹な、嫌味たっぷりの笑み。  案内されたのは、扉すら外れかかった一軒の平屋だった。  屋根はあちこちが抜け落ちて空が見え、隙間だらけの壁からは絶え間なく寂しい風が吹き抜けていく。  まるで何年も放置された荒れ屋敷だ。  すぐ隣には、ぽつんと佇む材料倉庫。「料理くらい自分で作れ」という無言の悪意が痛いほど伝わってきた。   (……不知火(しらぬい)様の加護がないと、ここまで扱いが変わるなんて)    あまりの雲泥の差に、春雷は呆れを通り越して脱力してしまう。    導士が去り際に見せた嘲笑を背に受けながら、光芒はそっと荷物を荒らされた床の上に下ろした。   「……せめて早めに着いてよかったです。もし歩いてきていたら、この屋敷の修繕に追われて、最初の立会いにすら遅れていたところでした」   「……そうだね」    ぽつりと呟いた光芒の横顔を覗き込むと、固く握られた彼の拳が、かすかに震えていることに気づく。  光芒は何度か言葉を飲み込み、唇を強く噛み締めていた。  静かだが、深く沸き立つような激しい怒りがその瞳に宿っている。   「光芒……?」   「ああ、気にしないで。……とりあえず、修繕の準備をしよう。ちょっと出かけてくる」    素っ気なく背を向けると、光芒は風のように瞬く間に姿を消してしまった。  あまりのボロさに嫌気がさしてしまったのだろうかと、春雷は首を傾げる。    ぽつんと一人、吹き抜けの平屋の前に佇む春雷。  冷たい風が頬を撫でていくが――春雷の心が折れることはなかった。   (なに、このくらいの不当な扱い、今に始まったことじゃない!)    ぐっと拳を握りしめると、春雷は着物の袖を力強くたくし上げた。落ち込むどころか、その瞳にはメラメラと反骨の炎が宿っている。   「どうせなら、誰もが驚くような立派な宿舎(しゅくしゃ)にしてやりますか!」    バチッ、と甲高い放電音が響き、春雷の掌を鮮やかな紫電(紫電)が走り抜けた。  春雷が鋭い視線を向けたのは、敷地の脇に堂々と聳(そび)え立つ、太く立派な巨木。   「まずは、材料集めですね」    指先を駆け巡る紫電。  轟発(ごうはつ)――!  閃光と共に落とされた雷が巨木を直撃して撃ち抜き、乾いた心地よい破砕音が木霊した。    ――まずは、あの抜け落ちた屋根の修繕からだ。  春雷の、たくましき学府生活が幕を開けた。    ◇    屋根の垂木(たるき)は、思っていた以上にしっかりしていた。春雷は切り出した木材を板状に削り出し、風が適度に通るよう間隔をあけて一枚ずつ固定していく。  屋根の一枚だけ上手く嵌まらなかったので、春雷は少し苦戦してしまった。    屋根を直し終えると、今度は壁の穴を木板で塞ぎ、歪んだ柱に補強を入れた。本当なら土壁まで塗り直したいところだが、そこまで手を掛ける時間はない。    最後に積もった埃を掃き、水拭きを終える頃には、日は大きく傾いていた。    荒れ果てていた平屋は、まだ古びてはいるものの、ようやく「人が暮らせる家」らしい温かみを取り戻していた。   「……とりあえず、歓迎されていないことだけはよく分かりました」    真っ赤になった自分の手のひらを見つめ、春雷はぽつりと呟く。  打ち捨てられていた清掃道具が、かろうじて使えたことだけが救いだった。   「『霊獣学府』は公平な場所だと思っていたのですが……この世に公平も平等もないのかもしれませんね」   「正義を謳う奴に正義がないのと同じさ。公平を謳う奴に公平なんてない。あるのはただの偽善だよ」    まさか独り言に返事が来るとは思わず、春雷の肩が跳ねた。  勢いよく振り返ると、そこには夕日の逆光の中に佇む光芒の姿があった。   「……随分と大荷物ですね」    光芒は肩に担いでいた巨大な包みをどさりと床に下ろし、中身を広げて見せた。現れたのは、ふんわりと空気を含んだ贅沢な羽毛布団だ。   「布団と足りない家具を持ってきたんだ。外の荷車に載せてあるから、運び込もう」    春雷が引き戸の向こうへ目をやると、小さな荷車が佇んでいた。そこには、純白の木肌に美しい金の彫刻が施された家具が積まれている。先ほど下ろされた布団といい、どれも貴人の邸宅に置くような上品なものばかりだ。   「……光芒、これ一体どうしたんですか?」   「借りてきた」   「……またそんな言い方を」   「返す時は返すさ」   「……ちなみに、その持ち主というのは?」   「さあね」    春雷は胡散臭そうに光芒の顔を覗き込んだが、ひとつ大きな溜息をつくと、それ以上追及するのをやめた。  光芒の素性は謎だらけだ。それでも、春雷が困れば真っ先に手を差し伸べてくれる人だった。まさか盗んできたわけではあるまい――そう信じることにした。   (――それにしてもこの紋様(もんよう)……どこかで)    白地に金の龍があしらわれた緻密な装飾。どこかで見覚えがある気がするのだが、どうしても思い出せない。   「……なぜこんなにたくさん?」   「なぜって」    光芒は、至極当然といった風に首を傾げた。   「僕もここにしばらく住むからだよ」   「…………え?」    春雷の思考は、ぴたりと止まった。   (今……何と?)    拭き掃除で出た埃を払おうとしていた春雷の手が、完全に固まる。あまりの言葉に疲れも吹き飛び、ただ呆然と立ち尽くした。   「な、なにゆえ……!?」   「理由は明確だ。ひとつ、あなたは何故か穢獣(けじゅう)に狙われやすい。ゆえに用心棒は不可欠。ふたつ、天命(てんめい)の書について話すのに秘密基地が必要。そして何より……」    あわあわと慌てる春雷の様子に、光芒は幼子のように無垢な笑みを咲かせた。   「僕が、あなたといたいから」    こんな見窄(みすぼ)らしい平屋よりも、設備の揃った宿舎のほうが快適だろう――そう思い、光芒が立ち去ろうとした時も引き止めなかったのだが。まあ、本人が良いと言うのなら仕方がない。    光芒の言い分には、確かに思い当たる節があった。  穢獣がいつ襲ってくるかも分からなければ、人目のつく場所で『天命の書』について話すわけにもいかないのだから。   (それに――この人は一体何者なんでしょう)    共に暮らしを営んでいれば、いつかその素顔の綻びが見えてくるかもしれない。   「……仕方がありませんね。では、軽くお腹を満たしてから、今晩中に残りの修繕を終わらせてしまいましょう。まだ外れた扉も直していませんし……」   「食事なら、拝借してきた」    そう言うと光芒は持っていた風呂敷を解き、春雷の目の前へお粥の入った小鍋と漬物を差し出した。小鍋からは、まだ微かに温かい湯気が立ち上っている。   「あなた……本当は盗人(ぬすっと)なのでは?」   「本人の了承は得ている。何の問題もない」    光芒はどこ吹く風でそう答えると、甲斐甲斐しくお粥を椀によそい、春雷の手元へ差し出した。   「光芒。……驚きのあまり、大事なことを言い忘れていました」   「なに?」    春雷は温かいお椀を受け取ると、目元をゆるめてふっと微笑んだ。   「何から何まで、ありがとうございます」    正面から向けられた無防備な感謝の笑みに、光芒は「……気にしないで」と口を小さく尖らせ、ふいっとそっぽを向いてしまった。    

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