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第二十五話 君にだけ咲く花

 冷ややかな静寂が支配する講義室の外廊下。  春雷(しゅんらい)はその冷たい床に直に書物を広げ、扉の隙間から漏れ出る導士(どうし)の声に必死で筆を走らせていた。  机も椅子も与えられないまま、ただ耳をすませる日々が、もう一週間続いている。  やがて講義の終わりを告げる鐘が鳴り響くと、重々しい扉が開き、霊獣生(れいじゅうせい)たちが押し寄せてきた。   「なんだ、まだへばりついてんのかよ」 「わざわざ廊下で講義を聞くなんて、殊勝なこったな」    降り注ぐのは刺すような嘲笑が耳についた。  一人の霊獣生が、すれ違いざまに足先で春雷の筆箱を雑に蹴飛ばした。乾いた音を立てて床を転がる筆を見つめる。    春雷は深く、小さく息を吐き出すと、視線を落としたまま静かにそれを拾い上げる。  屈辱に指先が震えても、講義の知識だけは決して取りこぼさなかった。   「……怪我はないかい?」    頭上から降ってきたのは、驚くほど低く柔らかな声だった。  ハッと顔を上げた春雷の視界に入ってきたのは、人懐っこい笑みを浮かべた男の姿。  白い耳を覗かせた長身の男が、春雷と目線を合わせるように膝を折っている。その腰には、重厚な鉄の扇が差されていた。   「……恐れ入ります、大丈夫です」    春雷は弾かれたように慌てて筆を拾い、散らばった書物を胸元に抱え込んだ。    そして、男の視線を避けるようにして、そそくさと荷物を片付け始める。    本来なら、自分のような者がこの男と一言 交わすことすら、不敬の罪に問われかねない。  誰かに見られれば、取り返しのつかない事態になる――なぜなら彼は。   「| 昴宿流星《すばるぼしりゅうせい》様!? なぜこのような場所に……!」    誰かが上げた悲鳴のような声が響き渡る。西霞白虎家(せいかびゃっこけ)の統主。  その名を聞きつけた霊獣生たちが、潮が満ちるように一斉に彼へ群がり始めた。    人だかりができる一瞬の隙を突き、春雷は影に紛れるようにそっとその場を離れる。    紺色の布地に鮮やかな白虎の刺繍が施された着物が揺れ、流星の手が静止を求めるように春雷へ伸ばされた。  しかし、その指先は空を切るだけに終わる。   「……行かれてしまったか」    群衆の向こうで、昴宿流星は小さく呟いた。   「もう少し、言葉を交わしたかったのに」    パサリと、鉄の扇が静かに開く。その精巧な骨組みの陰で、流星の瞳はどこか切なげに揺れていた。    人目を逃れるように足早に廊下を歩きながら、春雷は沸き立つ頭を押さえた。    なぜ、あの西霞白虎家の統主が自分などに声をかけたのか。   (――まさか、|紫電《しでん》を扱えるのが私だと気づかれた……?)    冷たい悪寒が背筋を駆け抜け、すっと血の気が引いていく。けれど春雷は強く頭を振り、ぎゅっと拳を握りしめた。  たとえ勘づかれていたとしても、白を切ればいい。そう自分に言い聞かせた、その時だった。    ――どん、と。    背後から掠めるような軽い衝撃。春雷が弾かれたように振り返ると、 そこには涼しげな顔で佇む光芒(こうぼう)がいた。 その手には、一輪の小さな白い勿忘草(わすれなぐさ)が握られている。   「光芒! 一体どこから急に……?」  光芒は何食わぬ顔のまま、ひょいと外の屋根を指差した。   「……風が気持ちよかったから、あの上でね」 「……髪が乱れています。もしかして寝ていたのですか?」    光芒の少し乱れた髪を見上げ、春雷は呆れたように息を漏らした。  手にしていた書物と筆箱を床に置くと、背伸びをするように手を伸ばし、光芒の髪を優しく整えてやる。  触れられた光芒の黒い瞳が、そっと細められた。彼は手にしていた勿忘草をあつらえるように、春雷の耳元へとそっと挿し込む。   「ねえ、いま時間はある?」 「次は別の講義がありますが……」 「あんな暗い廊下で講義を聞くより、ずっと価値のある場所へ連れていくよ」    春雷は驚きに少しだけ目を丸くした。だが次の瞬間、肩の力を抜き、ふっと柔らかく微笑む。   「……そこまで仰るなら断れませんね。参りましょう」    視線が交わり、二人はお互いに笑い合った。光芒が春雷へ向けてすっと手を差し出す。   「……私のことを、どこかの高貴な深窓の令嬢とでも思っていらっしゃいますか?」    耳元に飾られた勿忘草の小さな花弁に触れながら、春雷は苦笑いを浮かべた。   「嫌だった?」 「嫌だなんて滅多なことは……ただ、自分が何者かを勘違いしてしまいそうになるのです」 「……別に、勘違いしたままでいい」    光芒の表情が、静かに、そして深く緩む。   「僕の目に映る世界で、心から綺麗だと思えるのは春雷だけだから」    春雷がそっと光芒の手を握り返すと、光芒は心底愛おしそうに微笑んだ。   「……この言葉を忘れないで」    耳元の花びらを優しく撫でながら、春雷はその言葉の真意に気づき、静かに胸を打たれた。そっと耳から花を外すと、潰さないよう大事に書物のページの間に挟み込む。  ◇    光芒の手引きで進んだ先は、講義室の喧騒から遠く離れた深山だった。  静寂の中、澄んだ滝の轟音が耳に届く。湿った大岩をいくつもよじ登り、激しい滝を越えて穏やかな平地へと足を踏み出すと、そこには幻想的な泉が広がっていた。  水面は淡く七色に輝き、揺らめく湯気のようなものが立ち上っている。 それは熱気ではなく――満ちあふれる霊力だった。   「これは……霊泉(れいせん)、ですか!? すごい、水が澄んでいます!」    虹色の瞳をキラキラと輝かせる春雷に、光芒が隣で静かに語りかける。   「昔、修行で行き詰まった時に借りていたんだ。天煌麒麟家(てんこうきりんけ)の霊泉は、傷や疲労を癒やす力が特別に強い」   「……ですが、私はどこも怪我などしておりませんよ?」   「体はね。でも、体内の『雷』が悲鳴を上げているでしょ」    光芒の指先が、春雷の手のひらを指し示す。 春雷は試しに体内の紫電(しでん)を纏おうと試みたが、手のひらで「パチ……」とささやかな静電気の光が弾けただけだった。    暴発以来、体内の雷は枯渇し、体調もどこか重い。夕立の恵みもなく、雷を体内に取り込めていないせいだった。   「全身浸からなくてよろしいのですか?」    光芒が珍しく、ハァと深くため息をついた。   「それはやめてほしい。ここで服を脱ぐのはよくない」 「私、そこまで貧相ですかね……」 「そうじゃなくて」 「では、何がよくないんです?」 「……僕が困る」    口を少し尖らせ、光芒はそっぽを向きながらポツリと呟く。春雷は理解できず、ただ首を傾げるばかりだった。   「光芒」 「……なに」 「顔が赤いですよ」    今度は返事がなかった。  春雷は苦笑しながら靴を脱ぎ、着物の裾を濡らさないよう捲り上げると、そっと霊泉に足を浸した。    一瞬、突き刺すような冷たさが肌を襲う。だが間もなく冷たさは心地よい温もりへと変わり、濃密な霊力が足元から全身の奥深くまで染み渡っていった。体に満ちていく感覚に合わせ、もう一度手のひらへ紫電を流してみる。    次の瞬間、先ほどとは打って変わり、鮮やかな紫色の雷光が花火のように力強く弾け飛んだ。   「……素晴らしい。力が満ちてくるのが分かります」    思わず感嘆の声が漏れる。隣で同じように足を浸していた光芒も、嬉しそうに目を細めた。   「かつて師匠から剣の極意を叩き込まれた時も、ここには助けられた。どれほどボロボロになっても、一晩で元通りだ」   「どれほど壮絶な修業を積んでこられたのですか……」   「死にかけたことも一度や二度じゃないよ」    光芒はキラキラと光を反射する水面を見つめた。その横顔には、遠い日を懐かしむような色が浮かんでいる。   「今度は、あなたの話を聞きたい」 「私の、ですか?」 「そう。不知火(しらぬい)様は、どうやって紫電を教えてくれた?」  春雷は静かに目を閉じ、不知火と過ごした温かな日々へと意識を飛ばした。  ――激しい夕立に見舞われた、ある日のこと。春雷はあろうことか、天から落ちた大雷に直撃されてしまった。  近くの花壇が黒く焦げ、煙を上げる中、縁側からその様子を見ていた不知火が青ざめて叫んだ。   「春雷! 無事か!?」    胸を押さえ、咳き込みながらも慌てて駆け寄ってくる不知火へ、春雷は何事もなかったかのように駆け寄る。   「不知火様! お体のお悪い身で走られては困ります!」    不知火は春雷を強く抱きしめ、無事を確認して安堵の息を吐いた。春雷も嬉しくなって抱き返し――その瞬間、不知火の全身にバリバリと激しい電気が走った。   「ぐっ……つ痛たたた……!」    短い悲鳴を上げた不知火から、春雷は血の気を引かせて慌てて離れる。不知火は痺れた身体を撫でながら、しばらく思案するように考え込んでいた。  そして、春雷に「手のひらへ意識を集中させ、体内の電気を押し出してみよ」と告げたのだ。    春雷は頷き、先ほど自分を貫いた雷の衝撃を思い返す。  すると――紫色の眩い光が手のひらに立ち上り、弾けた。   「これは……見事なものだ」    目を丸くして見つめる春雷に、不知火は満足そうに微笑んだ。   「やはり、お主は雷を宿す器であったか……」    けれど、その笑顔は以前よりもずっと弱々しかった。   「これを『紫電』と名付けよう。春雷、お主はこの力を研ぎ澄まし、何があっても己の身を自分で守るのだぞ」    その日から、春雷は不知火から雷の放出方法を学び始めた。夕立が来れば雷を体内に蓄え、言葉に霊力を乗せることで雷を排出しやすくなることも知った。幾つもの技名は、春雷自身が知恵を絞って名付けたものだ。   「自分を守る強さがあってこそ、大切な誰かを守れる。ゆえに、決して己の命を軽んじてはならん」    不知火のその言葉は、今も春雷の胸に深く刻まれている。   「思えば、紫電の制御は不知火様にとっても手探りだったはずです。それでも根気強く、体内の力を逃す術を何度も何度も教えてくださいました」    春雷は足を伸ばし、水面をパシャリと跳ねさせる。   「技名を考えるのは、楽しかったです。不知火様と本を広げて、討論会をしたこともあるんですよ」 「わかる。僕も興奮した」 「光芒も?」    光芒は背中に差していた天虹剣を静かに抜き放ち、木漏れ日の光にかざした。   「師匠の技をそのまま継承するわけにはいかなかったからね。自分で一から編み出す必要があったんだ。何にしようかと熟考した時、ふと脳裏に真っ白な雪景色が浮かんでね」    光芒は剣身から視線を外し、そっと春雷を見つめる。   「本当は、可憐な白い花の名を授けようとも考えた。けれど、僕が剣を振るう真の目的は、そこにはなかったから」   「……真の目的、ですか?」   「ああ」    光芒は深く頷くと、天虹剣を霊泉の水の中へと静かに浸した。剣身から黒ずんだ邪気が滲み出し、澄んだ霊水によってみるみる浄化されていく。  その神秘的な光景を見つめながら、光芒は静かに言葉を紡いだ。   「僕の望みは、絶望の淵から救い出してくれたお方へ、すべてを捧げて恩を返すこと――そして」    光芒のまっすぐな瞳が、春雷の心を射抜く。   「いかなる残酷な運命が訪れようと、その存在を守り抜くことだ」    その圧倒的な覚悟の強さに、春雷は息を呑み、目をそらすことができなかった。   「あなたにそう思われる方は、幸せですね」 「どうかな」    光芒はふっと柔らかく笑った。   「でも、あなたにそう言われるのは悪くない」    天虹剣を一振りして水気を切ると、懐から取り出した布で丁寧に刃を拭う。 そして、愛おしむように背中の鞘へと戻した。   「引き合わせたい人物がいるんだ」  

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