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第二十六話 天機書庫の麒麟

立ち上がった光芒(こうぼう)が、春雷(しゅんらい)へ手を差し出す。春雷がその手を取ると、光芒は吸い上げるように勢いよく彼を引き上げた。   「僕の師匠の先祖に当たるお方だ。不知火(しらぬい)様と同じく、古(いにしえ)の呪縛によって悠久の時を生きている」   「そのような尊いお方を、なぜ私に……?」   「『天命(てんめい)の書』の秘められた続きについて、何らかの知見をお持ちかもしれない。それに――」    霊泉から上がると、濡れていたはずの服や肌は、不思議なほどあっさりと乾いていく。   「五神貴族(ごしんきぞく)の統治する領地には、各々に由緒ある書庫が存在する。師匠の先祖である『蓮華玄人(れんげげんじん)』様は、その領域の管理を任されているんだ」    東嶺青龍家(とうれいせいりゅうけ)に「万象書庫(ばんしょうしょこ)」があるように、他の領地にも歴史を担う書庫が存在する。だが、部外者を易々(やすやす)と招き入れる一族など存在するはずがない。なぜなら――   「いくら光芒の誘いとはいえ、一族の機密が眠る聖域へ、私のような部外者を足踏みさせてくださるでしょうか……」   「それは、大丈夫」    光芒は、春雷へ向けて安心させるように微笑んだ。   「蓮華玄人様は、すでにあなたを気に入っているよ」  ◇    迷いのない足取りで深林を進む光芒の背中を追いながら、春雷の心は複雑に揺れていた。  蓮華玄人という雲の上の存在が、自分を気に入っている?  ――ハクビシンである、この私に?  手を引かれて歩きながらも、春雷はそれが何かの勘違いではないかと疑わずにはいられない。 光芒の優しさが自分を過大に評価させ、それを聞かされた人物が鵜呑みにしているだけではないのだろうか。    光芒はどこまでも優しい。 自分を対等に、尊重して接してくれる。彼といる時間だけは、自分が忌み嫌われるハクビシンであることを忘れてしまえるほどに。  けれど、世界中の誰もが光芒のようではない。  なぜ、光芒は自分のような者のそばにいてくれるのだろう。   (――私のような者といても、何もいいことないというのに)    ふと、光芒の足が止まった。    視線の先には、闇の中にぽつんと佇む一体の麒麟の石像。今にも疾走を始めそうなほど生々しく、躍動感に満ちた像だった。    光芒が石像に向かい、静かに声をかける。   「蓮華玄人に用がある」    ズズズ……と重い地鳴りが響き、石像がゆっくりと横へ滑り出した。その足元から、地下の暗闇へと続く階段が姿を現す。  光芒は迷いなく階段を降りていくと、振り返って春雷を手招いた。   「なにしてるの春雷。 はやくおいで」 「あの……光芒。今更なんですが、私も入って大丈夫ですか?」 「許可はとってある」 「どうかした? 足元に気をつけておいで」    それでも立ちすくむ春雷のもとへ、光芒が静かに歩み寄ってくる。   「もしかして、嫌だった?」 「そうではありません……ただ……」    春雷が恐れているのは、己の出自を知った者からの冷ややかな視線であり、排斥の声であり、 そして――その非難される姿を、光芒に見られることだった。 自分が引き金となって光芒が傷つき、自分を責めてしまうのではないか。    幼い頃の苦い記憶が、蘇る。  かつて時雨(しぐれ)が善意から水龍一族を春雷に引き合わせた時、彼らは春雷を見た瞬間、露骨な嫌悪を剥き出しにして容赦ない暴力を振るった。 集団で痛めつけられる春雷を見かねて時雨が割って入ったが、最後には傷ついた時雨が泣き崩れてしまったのだ。    時雨は悪くない。彼らは春雷を青龍だと信じていたのだから。 (――罪深きは、ハクビシンとして生まれたこの私)  春雷は頭を抱え、深いため息をついた。暗い過去に囚われる自分が情けない。   「卑屈な自分が嫌になりますね。私は、あなたに傷ついてほしくないのです」 「ははっ。なおさら問題ないよ」  光芒は、あっけらかんと笑い飛ばした。 「あなたのためなら、傷ついたって痛くない」    その真っ直ぐさに、春雷は苦笑するしかなかった。胸の中の躊躇いを振り切るように、一歩を踏み出す。   「その言葉、信じましょう」    ◇    階段を降りきった先には、重厚で精巧な扉が立ちはだかっていた。細密な麒麟の彫刻が施された扉は、世界の歴史から隠されるようにひっそりと静まり返っている。    こここそが、天煌麒麟家が秘匿する――「天機書庫(てんきしょこ)」。  あらゆる事象を記録する東嶺青龍家の「万象書庫」に対し、ここは未来、天命、予言に関わるあらゆる記録が眠る場所。未来を見通す神通力を持つ麒麟一族ゆえの聖域だった。  扉を開けて足を踏み入れた瞬間、春雷は息を呑んだ。  天井の遥か高くまで組み上げられた書棚。   そこに整然と並ぶ無数の書物が、巨大な空間を埋め尽くしている。その圧巻の蔵書数は、万象書庫をも凌駕していた。  天煌麒麟家が未来を垣間見るたび、新たな記録が刻まれてきた証だ。   「これほど膨大な巻物が……すべて『未来』を記したものなのですか……?」   「ああ。刻一刻と移ろう未来の可能性を記録したものだ。時に占いの域を出ない記述もあるから、鵜呑みにするのは危険だけどね」   「それにしても圧巻です! この棚の数々……一体どれほど恐ろしい、あるいは美しい未来が眠っているのでしょう」    虹色の瞳をキラキラと輝かせ、並ぶ書棚を見上げる春雷。その子供のような横顔に、光芒の口元が緩む。   「楽しそうだ。無理にでも連れ出してよかった」    その言葉に春雷が振り向こうとした、その時――。   「久しいな、幼き者よ。冷たい廊下での学問は、いささか身に凍みたのではないか?」    重厚で低い声が、静まり返った書庫に響き渡った。春雷の身体が跳ねる。   「あなたは……あの時の……」    そこに立っていたのは、威厳ある麒麟の角を戴き、美しい白銀の髪と髭を蓄えた老人だった。  春雷の脳裏に記憶が蘇る。かつて自分に対し、玄霄天尊(げんしょうてんそん)としての覚悟を問うてきた人物――。   「わしこそが蓮華玄人だ。光芒に言づてし、あの不毛な廊下から其方を引き揚げさせたのだよ。もう一度、膝を突き合わせて話がしたくてな」    蓮華玄人の鋭い視線が春雷に注がれる。春雷は慌てて身を正し、深く頭を下げようとした。  だが蓮華玄人は春雷のもとへ歩み寄ると、その両肩を大きな手で受け止め、ゆっくりと首を横に振った。   (――わしの前で、そのような礼は無用だ)    声にならぬ意図が、春雷に伝わってくる。   「私にお聞きになりたいこととは……?」    緊張した面持ちで尋ねる春雷に、老人はふっと温かな笑みを浮かべた。   「そう身構えるな」    懐かしむように目を細め、言葉を継ぐ。   「友の面影を残す者よ。わしは心の底から、其方の存在を愛おしく思っておる」    春雷の虹色の瞳が、驚きに大きく揺れた。   「今さら玄霄天尊の志を語り合える者が現れるとは夢にも思わなんだ。其方と相対していると、眩しかったあの時代が鮮やかに蘇るのだ」    蓮華玄人は愛おしそうに、果てしない書庫を見渡した。   「だが、老いさらばえたわしにできるのは、こうして書物の知恵を授けることのみ。たとえ未来の兆しを読み解けたとて、その運命をどう紡ぎ直すかは、生きておる者の意思に委ねられておる」    視線が再び、まっ振りと春雷へ戻される。   「ゆえに……其方にはこれから明かす残酷な真実を聞いた上で、己の魂が望む道を選んでほしいのだ」    逃げ場のない真実を感じ取り、春雷は力強く視線を撃ち返した。   「……一体、何が起きようとしているのですか?」    蓮華玄人はしばし沈黙し、静かに目を閉じた。  そして、世界の命運を背負うかのような重々しさで、ゆっくりと口を開く。   「春雷よ」    その声から温もりは消え去り、切迫した冷気が空間を支配した。   「潰えゆく我ら『五神貴族』を――頼む、救い出してはくれまいか」

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