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第二十七話 誰一人見捨てない

「えーっと……」  静寂が満ちる暗がりで、春雷(しゅんらい)の喉からすっとんきょうな声が漏れた。  ようやくここまで辿り着いたというのに。    指先がかろうじて触れたはずの希望の糸が、拍子抜けするほどあっけなく、ぷつりと音を立てて千切れていく。   「……封印、ですか?」 「うむ」  蓮華玄人(れんげげんじん)は、胸元まで伸びた白髭を長い指でゆっくりと撫で下ろした。 「いつからか、天命(てんめい)の書には強烈な呪枷(じゅかせ)が施されるようになった。以来、我ら 五神貴族(ごしんきぞく)の誰の手をもってしても、その頁(ページ)を開くことはできぬ」 「……誰にも?」 「そうじゃ」  春雷は呆然と目を瞬かせた。  背後から差し込むわずかな光を背に負い、影になった玄人の顔は暗く沈み込み、冗談を叩いているようにはとても見えない。 「では……天命の書が目の前にあるのに、読めないということですか?」 「その通りじゃ」 「そんな……」  すうっと肩の力が抜け、春雷は膝から折れるようにがっくりと頭を垂れた。  なぜ穢獣に金色の糸が狙われるのか。  そして――薄明光線の天命とは。  暗闇の底で爪を立てて探し続けてきた答えが、目の前で冷たく重い音を立てて扉を閉ざしていく。   「……読めないんじゃ、どうしようもありませんね」 「いや。完全に手立てがないわけではない」    ぽつりとこぼれた投げやりな弱音を切り裂くように、蓮華玄人は静かに首を横へ振った。   「え?」 「天命の書は、ここにある物だけではないことは知っているだろう」    跳ね起きるように顔を上げた春雷の頭上へ、長老の低く重い声が降ってくる。   「五神貴族の各家で一冊ずつ保管している。それぞれの書には、異なる章が収められておる」    玄人はそこで言葉を区切り、身を翻した。   「……お前が万象書庫(ばんしょうしょこ)で読んだのが『春の章』ならば――」    床を擦る衣擦れの音を響かせ、部屋の最奥へと歩いていく。  仄暗い空気のなか、高窓から差し込んだ一筋の微光が、棚の奥から恭しく取り出された一冊の古書を鮮やかに照らし出した。   「ここにあるのは――『夏の章』じゃ」    褪せた表紙には、かつて万象書庫の影で目にしたものと酷似した、生き物のように禍々しい古代紋様が刻み込まれていた。  トクン、と胸が跳ねる。   「……これが」 「うむ。受け取るがよい。天命の書――『夏の章』じゃ」     恭しく差し出された書物を、春雷は吸い寄せられるように両手で受け取った。  ずしり。  手のひらへ重厚な鉄のような質感が伝わってくる。  使い込まれた革の湿り気のある感触。複雑に交差する無数の紋様。  そして何より――表紙の奥から静かに脈打つ、どこか懐かしく、胸をぎゅっと締め付けるような不思議な霊力。   (……これが天命の書。ついに……!)  熱い塊が喉の奥から突き上げてくる。  祈るような心地で指先を震わせ、春雷はそっと表紙に指を掛けた。  ――開かない。   「……あれ?」  寸分の隙間さえ見せず、表紙はぴたりと固く閉ざされたままだ。  もう一度、指先に爪が白くなるほど力を込める。  ぐっ。  ぐぐぐっ。 「…………開きませんね」 「そうじゃろうな」 「まさか……」  春雷と玄人が無言で顔を見合わせる。 「先ほどから、封印されておると言っておるじゃろう」 「そういう意味だったのですか……!」  春雷は膝から崩れ落ちそうになった。  てっきり「開かない本がどこか遥か遠くの場所に厳重に封印されている」のだと思い込んでいたのだ。  まさか、自分が必死に引っぱがそうとしていたこの本そのものが、ガチガチに鍵のかかった金庫だったとは。  影の中から佇んでいた光芒(こうぼう)が、わずかに口元を緩める。   「……僕がやろうか」 「え、開けられるのですか?」 「破壊寸前で止まればいい」 「「それはいけない!」」    春雷と蓮華玄人の声が重なり、必死の抗議が響いた。  その遣り取りをよそに、春雷はハッと我に返り、再び手の中の本へ視線を落とした。   目を凝らしてよく見れば、古びた革の表面を這うように、蠢く呪枷の光が薄っすらと青白く浮かび上がっている。   「……では、この封印はどうすれば解けるのですか?」 「それを知るために――五神貴族の書庫を巡る必要がある」  「……え?」    春雷の動きが、ぴたりと固まった。   「各家の天命の書には、それぞれ封印を解くための手掛かりが残されている。五つの書を辿り、手掛かりを集めれば、あるいは紐解く方法が見つかるかもしれぬ」   「五神貴族……」    春雷は腕の中の『夏の章』を見つめ直した。  雲の上の存在。  世界の歴史の影で、五つの領地を守護し続けてきた気高き一族。  その聖域へと、自分のような男が足を踏み入れる?   「……私が?」 「そうじゃ」 「五神貴族の書庫を巡る……?」 「そうじゃ」 「…………」    みるみるうちに春雷の肩が力なく下がり、顔から血の気が引いていく。   「……絶対無理では?」    春雷は引きつった真顔で畳みかけた。   「だって私は、ただのハクビシンですよ。五神貴族の方々から見れば、私はただの身分の低い霊獣です!」 「知っておる」 「そんな私が『すみません、書庫を見せてください』なんてお願いしに行ってごらんなさい!」     脳裏に鮮明な光景が浮かび上がる。  豪奢な門前で冷たくあしらわれ、鼻で笑われ、最悪の場合は害獣のように追い回されて叩き出される己の惨めな姿が容易に浮かぶ。   「……絶対に嫌な顔をされます。絶対にです!」 「なら……」    凛とした静寂を破り、光芒が静かに口を開いた。  仄暗い空気の中で、その澄んだ瞳だけが揺るぎない光を湛えている。   「相手の弱みに付け込めばいい」 「え?」 「方法はある」    迷いのない即答だった。  春雷が思わず顔を上げると、光芒はまっすぐその視線を受け止めた。   「むしろ……あなたにしかできない」  蓮華玄人が、低く重い吐息とともに深く頭を垂れた。 「……天柱(てんちゅう)じゃ」 「天柱……?」 「天柱に選ばれる者には、ある残酷な共通点がある」  蓮華玄人の声が、苦々しく沈む。 「統主に最も近しい者であることじゃ」 「……近しい者?」 「うむ」  蓮華玄人は、胸を突き刺す苦痛に耐えるように目を伏せた。 「天柱は、統主の反逆を防ぐための『人質』として、親しい者から選ばれる」 「……人質?」  重く冷たい一言が、春雷の胸に鉛のように沈み込む。 蓮華玄人は実際に、天煌麒麟家(てんこうきりんけ)から天柱に行った牡丹花王(ぼたんかおう)の話をした。  天柱となった者は、統主にとって大切な存在。  だからこそ、人質として選ばれる。  幼い木蓮桜花(もくれんおうか)が統主になり、  牡丹花王という唯一の肉親の父親が柱へと変えられたという事実。  その身を差し出すしかなかった家族の絶望。  実際にその光景を見たわけではない。  けれど、蓮華玄人の苦しげな声を聞いているだけで、その悲惨さが容易に想像できた。 「そして、もう一つ理由がある」  蓮華玄人は押し殺したような声で吐き捨てた。 「残された者が、天柱となった者を救おうと、無駄な足掻きをせぬようにするためじゃ」  世界の歪んだ仕組みに、春雷の顔が暗く曇る。 「……どういう意味ですか?」  光芒が静かに歩み寄り、春雷の隣へと並び立った。 「春雷」 「はい」 「大切な人と二度と会おうとさせないようにするには、どうすると思う?」 「…………」  しんと静まり返る空間。  春雷は言葉を失い、血がにじむほどぎゅっと唇を噛み締めた。  やがて、重苦しい沈黙のなかにぽつりと声が落ちる。   「……絶望させる」 「うん」  光芒の声はどこまでも静かで、それだけに切なかった。 「会いたいと思うことすら、諦めてしまうほどに」  胸がきゅっと締め付けられる。  冷たい柱へと姿を変えられた者だけではない。  遺された者たちもまた、生きながらにして心に深い楔(くさび)を打ち込まれ、暗闇の中に閉じ込められているのだ。   「僕が天帝の立場なら、罪悪感を持たせる」    光芒は揺らぐことなく続けた。   「霊獣は恩返しをする性質を持っている。逆を言えば、傷つけることに億劫になるんだ」   「……意図せず相手を傷つけてしまい、謝罪できる機会を失えば……」 「絶望する」    光芒は淡々と頷いた。   「本人は罪悪感を抱えたままになる。少なくとも、天柱制度そのものに反感を持つことはないだろう」    そして、その口元にほんのわずかな嘲笑を浮かべた。   「例え、いつか会えて謝罪したところで――ただの自己満足に過ぎない」    春雷の胸の底へ、冷や水のような真実が落ちていく。  そうやって、あまりにも巧妙に仕組まれてきたのだ。  誰ひとり天に逆らわないように。  誰も大切な者を救い出そうなどと考えつきもしないように。  少しずつ、少しずつ――周囲の認識を歪めて。   「……認識を変える?」    その言葉が、春雷の胸の奥で鋭い引っかかりを作った。  まわりの認識を少しずつ歪めて。  それは、まるで――。  春雷は無意識に、己の手首へと視線を落とした。  皮膚に刻まれた、金色の糸。  なぜ自分は、ずっと「醜い」と嘲られ続けてきたのか。 なぜ穢獣に執拗に狙われるのか。 なぜ自分だけが、世界全体から拒絶されているように感じてきたのか。 胸の奥から、言葉にならない問いが溢れ出す。 ――自分の見ているこの世界は、本当に真実なのだろうか。   「お主には、真実を見極める目がある」 「……っ」 蓮華玄人のしわがれた声に、春雷は弾かれたように顔を上げた。   「その罪悪感はどこから来たのか。誰によって植え付けられたものなのか。お主なら、見極められるはずじゃ」   はっと目を見開く。 自分がずっと探し続けていたのは、天命の書に記された自分自身の運命だった。 なぜ穢獣が現れ、なぜ金色の糸を狙うのか。 そして――薄明光線(はくめいこうせん)と天命の書の関わりとは何か。 その答えを知るためだけに、ここへ来たはずだった。 けれど。 目の前で痛みに眉をひそめる蓮華玄人も。 その背後に囚われる五神貴族たちも。 声もなく柱となり、打ち捨てられた者たちも。 誰もが、自分では抗えない巨大な何かに縛りつけられている。 増長する憤りと共に、春雷はふと思った。 自分も、ずっと同じだったのだと。 自分が何者かも分からぬまま、周囲から投げつけられた「醜い」という言葉を抱え、ただ怯えて耐えてきた。 だからこそ――。 目の前にいる者たちを、あの頃の自分のように置き去りにはしたくなかった。 「そうして、五神貴族を救ってほしい」 蓮華玄人の切なる言葉が、静かに胸の奥深くまで落ちていく。 春雷は手の中の『夏の章』を強く抱き締めた。 自分は、ただ己の真実を知りたかった。 けれど、もうそれだけの問題ではない。  この世界のどこかで、誰かが自分と同じように、真実を知らぬまま暗闇の中で苦しんでいるのなら。 それを知ってしまった今、見て見ぬふりをして背を向けることなどできなかった。 春雷はゆっくりと、だが力強く顔を上げた。   「……だったら」   迷いの消えた虹色の瞳に、揺るぎない覚悟の火が打ち揺らぐ。 「私は、誰一人見捨てません」   静かな、けれど力強い宣言に、蓮華玄人は息を呑んだ。   光芒はただ愛おしそうに、そっと細める瞳で春雷を見つめていた。

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