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第二十九話 穢獣の正体

 耳を破る激しい雨音。  春雷(しゅんらい)と光芒(こうぼう)は固い眼差しで顔を見合わせ、言葉なく深く頷き合った。  光春舎(こうしゅんしゃ)の重い木製扉を激しく叩き開けると、叩きつけるような濁流の只中、濡れた和傘を手にした時雨(しぐれ)がポツリとひとり佇んでいた。   「時雨! どうしてここに?」 「……様子を見に来たんだ」 「相変わらず、心配性なんですから」  「そんなことより、なんだこの状況は!」    雨の冷たさとは裏腹に赤くなる顔を隠すように、時雨は春雷へ詰め寄った。  その気迫に押されつつも、春雷は腕に抱えた『天命(てんめい)の書』を、指関節が白くなるほど強く抱きしめる。  絶対に奪われてはならない宝物の重みが、濡れた衣越しに胸へとのしかかっていた。   「……狙いは、やはり天命の書でしょうか」    光芒が足元の水飛沫を跳ね上げて力強く一歩を踏み出し、二人の前に立ちはだかった。  その広い背中はどこか頼もしく、揺るぎない。   「気になることがある。この雨は浄化できるのか」 「……穢獣(けじゅう)かと思い、先に天霖(てんりん)を降らせたが、効果がなかった。それどころか、火をつけ始めた。――どうやら、ただの穢獣ではない」 「ほう。大した洞察力だ。無能でもやるじゃないか」 「なんだと!?」  時雨の煽りを軽くいなす光芒。  その軽薄な態度の裏にある冷徹な鋭さに息を呑みつつ、春雷は闇の奥で不気味なうめき声を上げる穢獣の群れを見つめた。    他の穢獣とは明らかに違う。容姿は生前の原形を留めており、濡れそぼった導士(どうし)の衣を纏っているのだ。だが、その眼窩は光を失い、底知れぬ濁りに満ちていた。  本来なら知能が低いはずなのに、怪物じみた無尽蔵の生命力を全身から漲らせている。  時雨の苛烈な一撃を受け、肉が裂け、白骨が折れてなお、関節をギチギチと気味悪く軋ませながら立ち上がってくるのだ。   「ざっと三十はいるぞ。何をしたんだ、お前たちは」 「特に恨まれることはしてないと思います」 「いかにも」    あまりにもけろっと答える二人に、時雨は疑惑の目を向けた。   「……余計に怪しいんだが」    時雨は和傘をバチィンと激しい音を立てて閉じるや、水煙を上げて間合いを詰めてくる穢獣を力任せに薙ぎ倒した。  同じく光芒も春雷を背に庇いながら、天虹剣(てんこうけん)を閃かせる。   刃が肉を深く穿ち、黒くドロリとした血飛沫が闇に爆ぜた。   「このままじゃキリがない。どうするつもりだ!」 「……策があります! ですが、確信がまだない。教えてほしいことがあります!」    怒号と豪雨が吹き荒れる狂乱の中、春雷は手のひらにバチバチと紫電(しでん)を走らせながら、襲いかかる穢獣の攻撃を間一髪でいなしていく。   「この導士は操られていて、穢染(けせん)にかかっていますか?」 「……いや。どちらかと言うと、穢獣が導士に化けているだけだ」    ――つまり、導士ではない。  ならば、攻撃を躊躇う必要はない。胸の奥で重くくすぶっていた迷いが一瞬で吹き飛んだ。   「……時雨、もう一度『蒼天雨龍(そうてんうりゅう)』をできますか?」 「少し効力は下がるが……」 「充分です! 光芒は陣を展開して、自身と時雨を守ることはできるでしょうか?」 「光春舎(こうしゅんしゃ)全体に陣をかけて、僕たちが中に入ればできる」    春雷は天命の書を濡れないようそっと懐にしまい、両手に荒々しい紫電を走らせた。  霊泉の気を受けて回復した霊力は、今なら絶好調だ。  春雷が短く作戦を告げると、時雨と光芒は力強く頷いた。   「お二人とも、頼りにしてます!」    何者かわからない。 だが、敵ならば容赦はしない。 迫り来る蠢く穢獣の群れに向け、春雷は覚悟を決めてその目を見開いた。    三人は滑り込むように光春舎の敷居を跨ぎ、光芒が天虹剣を床深く突き刺して陣を展開する。   「天幕(てんまく)」    その言葉と同時に、天虹剣の刃から眩い光が爆発的に溢れ出した。光は瞬く間に広がり、光春舎全体を薄くも堅固な膜となって包み込む。  直後、時雨は閉じられた和傘を蠢く穢獣たちへ突きつけ、技名を叫んだ。   「蒼天雨龍(そうてんうりゅう)!」    天を突き破るような猛烈な激流が、狂暴な勢いで穢獣たちを呑み込み、たたき潰した。  その濁流の真っ只中へ跳躍しようとした春雷だったが、ふと足を止める。胸元にある重みを思い出したのだ。   「焦げたら嫌なので……!」    春雷は『天命の書』を取り出し、光芒の手元へ手渡した。 「いいよ。任せて」  光芒がフッと柔らかく笑う。その笑顔を見届け、春雷は蒼天雨龍の渦巻く激流の中へ、一切の迷いなく飛び込んだ。  水煙の中でもがく穢獣たちの頭上へ突き進み、そっと天を指差す。 「紫電招来(しでんしょうらい)」  ――ドギャアアアアン!!  鼓膜を激しく突き破る爆音と共に、太い極大の雷が天から落ちた。  春雷自身が巨大な避雷針となり、狂暴な稲妻が雨水を伝って大地全体を駆け巡る。   バリバリと肉が灼ける焦臭い音を立て、穢獣たちは一気に感電し、丸焦げの塊となって崩れ落ちた。  本来、穢獣は浄化されると黒い煙となって空気中に離散する。だが――今回は違った。  崩れ落ちた穢獣たちの黒い煙の中で、一体だけが揺らめきながら佇んでいる。 「――っ!」  春雷は瞬時に両手に紫電を構えた。  その穢獣は、何かを呟いた。雨音に掻き消され、声は聞こえなかった。  だが、その裂けた唇が確かに言葉を形作った。    ――ありがとう。    次の瞬間、穢獣の身体がサラサラと黒い霧となって崩れ去った。  そして、その場にカランと残されたのは――白い霊獣の骨だった。   「……え?」    春雷は息を呑み、唖然とした。  穢獣は霊獣の恨みや憎しみが形となったもの。実態を持たず、本来は邪霊(じゃれい)に近い存在だ。 なのに――なぜ、実体のある骨が残るのか。 春雷の胸に湧き上がった疑問を代弁するように、後ろから時雨が叫んだ。 「どういうことだ!?」  春雷は泥に濡れた足元に転がった骨をそっと拾い上げた。   その瞬間、絶句して目を見開く。  そこには、天煌麒麟家(てんこうきりんけ)特有の澄んだ質感を持つ角が残されていた。  しかも、何かに噛み砕かれたように、粉々になった無数の骨片まで散らばっている。 「……まさか」  春雷は弾かれたように周囲を見回した。 先ほど倒した穢獣たちは皆、肉体を失い、骨だけを残して離散していた。  そのすべての足元に――麒麟の角が転がっている。  角には高い霊力が宿る。だからこそ、怪物たちの牙でも最後まで噛み砕くことができなかったのだ。 ならば。 もし、春雷の胸に浮かんだ最悪の予想が正しいのだとしたら。 ――浄化が効かなかった。 ――導士の姿をしていた。 ――そして、火をつけるという明確な意思を持っていた。  本来、穢獣に脳はない。ただ本能のままに襲い、壊し、喰らうだけだ。  思考して目的を持って行動することなどできるはずがない。 なのに、明確に火をつけようとした。  まるで誰かに命じられたかのように。  春雷の脳裏に、かつて五神の儀(ごしんのぎ)の際にすれ違った導士の姿が蘇る。  あの静かな佇まい、身に纏う空気――あまりにも、今しがたの穢獣によく似ていた。 そして最後に、あの穢獣が口元で残した言葉。 「……私の予想が正しければ……これは、なんて無常なのでしょう」  春雷の目に、今にもこぼれ落ちそうな涙が滲んだ。  光芒は静かに天虹剣を背中の鞘に戻し、足元に転がる白い骨を見下ろした。  その沈黙の表情から何かを察したように、深く静かに息を吐き出す。 「どういうことだ」 時雨が苛立ちと底知れぬ不安の混じった声で尋ねる。  春雷は衣の袖で小さく目元を拭うと、胸を締め付けられる思いで静かに語りかけた。 「この穢獣は、ただの穢獣ではありません。元は天煌麒麟家の導士です。霊獣学府(れいじゅうがくふ)の管理をしている導士でしょう」 「なぜ、彼らが穢獣に? 霊獣学府に恨みでもあるのか」 「時雨。彼らが穢獣になったわけではありません」 光芒が氷のように冷ややかな口調で言葉を差し挟んだ。 「導士の皮を被ったんだ」 「……そんなこと、可能なのか」 「あまりいい趣味じゃない」 光芒が静かに吐き捨てると、時雨の顔からすうっと血の気が引いていく。 「まさか……」 「おそらく、穢獣に導士を食べさせたのです。噛み砕かれた骨は、その証拠でしょう」 「……食べさせたって……まさか、死んでからではないだろうな」  時雨の震える声が、暗闇に弱々しく響いた。  春雷は答えなかった。  重苦しい沈黙が、何より雄弁に恐ろしい真実を物語っていた。 「……生きたまま、ということか」 「はい」  春雷は身を切り裂くような痛みに耐えるように、小さく頷いた。  導士を生きたまま穢獣に喰わせ、その身体を内側から取り込ませたのだ。  無理やり融合させられた導士の無念と恐怖は、どれほどのものだったろう。 想像するだけで全身の毛穴が泡立ち、身の毛が立つ。 「理にはかなってる。穢獣は姿を変えられない。低脳で弱い存在だからね。だが、導士と融合させれば、術も使えるし、指示も的確に理解して動けるようになる」  光芒は足元の骨の山を見下ろしながら、あざ笑うかのように鼻を鳴らした。  冷徹極まりない分析だが、あまりにも確かな真実を突いている。 「それでも……穢獣に導士を食べさせるなんて……」  込み上げる烈しい吐き気に、時雨は力なく口元を押さえた。 「……少なくとも、まともな奴がやることじゃない」  光芒がそう呟くと、時雨はハッとして春雷の元へ駆け寄り、その腕を強く掴んだ。 「霊獣学府に報告しよう! 今回のことは俺たちの手の範疇を超えている!」 掴まれた腕を、春雷はやんわりと解いた。痛む胸をぐっと押し殺し、首を横に振る。 「待ってください。このまま報告したところで、逆に私たちが犯人扱いされかねません」  現状をそのまま報告すれば、ハクビシンの仕業だと安易に片付けられて、厄介払いされる可能性が高い。  だが、天煌麒麟家の導士が犠牲になっている以上、自分たちの手には負えないのも事実だった。 「……どうしたものでしょうか」  春雷が深く頭を抱えた、その時――突然、耳孔を刺すような不気味な歌声が夜の気配を切り裂いて響き渡った。  雨音すら掻き消し、頭の奥へべったりとへばりつくような、歪んだ不協和音。  幼く可憐であるはずの少女の歌声――しかしそこには、禍々しく濁った情念が重なって響いていた。 あのひとはわたしの光。 あのひとはわたしの夢。 なのに君だけ救われた。 なのに君だけ愛された。 「ぐっ……!」 凄まじい爆音と重い空気の振動。空間そのものが歪むような圧迫感に、二人はその場に立っているのがやっとだった。 特にハクビシンの繊細で敏感な耳を持つ春雷には、その異音が容赦なく脳を苛み、激痛をもたらした。 「次はなんだ!?」 「わかりません! ……止まった?」 一瞬、歌声がぴたりと途絶えた。  春雷と時雨が顔を見合わせた次の瞬間、今度は冷たい蛇が這いずるような粘着質で低い声が、春雷の耳元に直接響く。 だから君を祝ってあげる。 光の届かない場所で――。 「――ッ!?」 背後に、尋常ではない圧倒的な殺気が一気に膨れ上がった。

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