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第三十九話 偽りの統主

「時雨(しぐれ)。牡丹花王(ぼたんかおう)様が天柱(てんちゅう)へ赴かれた日、何か異変はありませんでしたか?」 「異変? いや、何もなかったと思うが――」  答えかけた時雨の言葉が、唐突に途切れた。眉間に皺を寄せ、記憶の糸を手繰り寄せるように視線を彷徨わせる。 「……いや、待て」  時雨は棚へ手を伸ばすと、さらに数冊の年代記を引っ張り出し、春雷(しゅんらい)の腕に抱えさせた。 「誰もが、牡丹花王様が天柱へ向かうことを『誉れ』として祝福していた。ご本人も『使命を果たす』と言い残して旅立ったはずだ」 「……ええ」 「だが、一つだけ……決定的な違和感がある」  時雨は一冊の古書を開き、春雷の前に差し出した。  そこに描かれていたのは、英雄として称えられる牡丹花王の姿。精巧な版画の中で、王の象徴である重厚な『錫杖(しゃくじょう)』を携えている。 「牡丹花王様は天柱へ向かう直前、錫杖を次代の木蓮桜花(もくれんおうか)様へ手渡す継承式典を行った。そこで正式に、統主の座が譲られたんだ」  時雨は古書の挿絵と、前回の五神の儀(ごしんのぎ)を報じた古新聞の写真を並べ、卓上へ提示した。 「……あれ?」  二つの画像を交互に見比べた春雷の瞳が、不審に揺れる。 「現統主様が掲げている錫杖と……何かが根本的に違いませんか?」  時雨も身を乗り出し、細部を凝視する。  全体のフォルムや彫刻は、ほぼ同一に見える。牡丹を模した華美な装飾が、統主の交代に伴って桜の意匠へと変化しているのは神器の特質だ。  持ち主の霊力に反応して姿を変えることは、珍しいことではない。 「装飾が変化するのは当たり前だ。変わらないのは、柄の中心に埋め込まれた『宝珠(ほうじゅ)』くらいのものだろう?」  少し小馬鹿にしたような時雨の口調に、春雷の虹色の瞳が鋭く光った。 「それです!」 「なっ……?」 「宝珠です! 一つ、多いんです!」  春雷が挿絵の一点を激しく指差す。時雨は目を丸くして身を乗り出した。 「……バカな。宝珠の数が違うなら、それは完全に『別の神器』だぞ。まさか木蓮桜花様は、偽物の錫杖で今まで結界を張り続けていたとでもいうのか!?」 「――もし、結界そのものを『張っていなかった』としたら……?」  春雷の静かな一言に、周囲の空気が凍りついた。時雨の顔から血の気が引いていく。 「そもそも、完璧な結界が存在するならば、これほど容易く大量の『穢獣(けじゅう)』が領域内へ侵入してくるでしょうか?」  天柱を支える五神貴族の統主。その霊力は、一国を揺るがすほど強大であるはずだ。  それにもかかわらず、街は穢獣の影に脅かされている。そして何より―― 「結界の庇護下にあるはずの領域で、導師(どうし)が食われるなどという悪夢、絶対に起こり得ません」  春雷はぎゅっと唇を噛み締めた。  ただの統主の交代劇で、ここまで世界の理が崩壊するものだろうか。  脳裏に、かつて耳にした光芒(こうぼう)の言葉が不意に蘇る。  点と点が繋がり、一つの恐ろしい結論へと結びついた。 「……現在、木蓮桜花様は『統主の座』にいません」 「つまり……どういうことだ?」  春雷はまっすぐに時雨の目を見据え、言い切った。 「今の木蓮桜花様は偽物です。恐らく、ご本人はどこか別の場所に封印されています!」

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