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第四十ニ話 覗き穴

 春雷(しゅんらい)は蘭淫(らんいん)を連れて、光春舎(こうしゅんしゃ)への道を急いでいた。  昨夜、穢獣(けじゅう)の襲撃を受けたばかりだ。  湿った夜気の向こう、道の先や道端の影に異様な気配が潜んでいないか。  春雷が周囲へ鋭く神経を尖らせて歩いていると、隣を行く蘭淫がふいに口を開いた。   「穢獣は出ませんよ。安心してください」 「……なぜ、そう言い切れるのです?」    思わず足を止め、振り返って問い返す。  蘭淫は、至極当然のことを口にするような無表情のまま、淡々と答えた。   「あなたに穢獣を襲わせていたのは、我(われ)ですから」 「…………」    春雷は目を丸くし、言葉を失った。  すると蘭淫は「あ」と短く声を漏らし、微かに言葉を付け足す。   「……昨夜の穢獣は違いますよ。さすがに、あの群れまでは操れません」 「……どこから突っ込めばいいのですか、あなたは」    深くため息を吐き出す春雷に、蘭淫は「すみません」と感情の籠もらない声で淡々と頭を下げた。  そんなやり取りを交わすうちに、二人は光春舎の重厚な門をくぐった。  春雷は蘭淫を薄暗い広間へ通すと、そのまま台所へ向かった。  まずはやかんを沸かして急須へ注ぎ、温かいお茶を淹れる。  白い湯気の立つ茶碗を差し出したあと、春雷は手際よく夕食の支度に取りかかった。  包丁でトントンと小気味よく野菜を刻み、昆布と鰹の澄んだ出汁が張られた鍋へ放り込む。  しばらくして、背後にすっと冷たい気配が落ちた。  振り返ると――いつの間にか、すぐ後ろに蘭淫が佇んでいる。  春雷はびくりと肩を跳ね上げた。 「背後に立つのはやめてください! びっくりするでしょう」 「……いつも、ご自分でこのようなことを?」 「霊獣学府(れいじゅうがくふ)に入った際、『自分の世話は自分でしなさい』と叩き込まれましたから。……でも、自分で作るのも悪くありませんよ」  光芒(こうぼう)が毎夜、旨そうに自分の作った夕食を平らげる姿を思い出し、春雷の口元が自然と緩む。 「それに、私は下男でハクビシンですからね。もとより誰かに給仕されるような立場でもありませんし、料理は嫌いじゃないんです」 「そうですか……。そういうものなのでしょうか」  蘭淫は静かに一歩を踏み出し、鍋の中を覗き込んだ。  ふわりと立ち上る甘い湯気の向こうで、琥珀色の出汁を吸った野菜が優しく揺れている。 「……我も、昔は」  ぽつりとこぼれた呟きに、春雷が手を止めて顔を上げた。 「昔は?」 「……いえ」  蘭淫は小さく首を横に振った。  けれど、その横顔からは、先ほどまでの凍てつくような虚ろさが消えていた。 「……作ってくれた食事を、よく食べていました」 「そうなのですか?」 「ええ。とても美味しかった」  蘭淫の薄い唇に、儚い笑みが浮かぶ。  春雷は、思わず見入った。 「その方は……きっと、お料理の上手な方だったのですね」 「……そうですね」  鍋に揺れる湯気を見つめたまま、蘭淫は静かに言葉を重ねた。 「私にとっては――この世で一番、温かい食事でした」  その言葉に宿る深い思いと、滲み出る愛おしさに、春雷はそれ以上何も尋ねなかった。  ただ静かに、鍋の火を少しだけ弱めた。 ◇  広間へ食事を運び込もうとしたその時、玄関のほうから賑やかな話し声が響いてきた。  木造の屋根を激しく叩く雨音に混じって聞こえる声。間違いなく、あの二人だ。 「春雷、ただいま」  出迎えに向かうと、土間に立つ光芒は春雷の姿を認めるなり、ふわりと表情を緩めた。  そのあからさまな変貌ぶりに、後ろで濡れた上着を払う時雨(しぐれ)が心底嫌そうな顔をする。 「……うわ、相当だな」 「安心して、あなたにはやらない。僕が笑いかけるのは生涯、春雷だけだ」 「それは助かる。こちらもお前の笑顔なんぞ見たくない。まだ春雷の不細工な顔を見るほうがマシだ」  光芒はふっと鼻で笑った。   「やはり見る目がないな。その目と脳みそは立派なお飾りか?」 「なんだと!」    春雷は「またか」と大きなため息をついた。  二人の間に割って入り、手をぱんと高く打ち鳴らす。   「そこまでにしてください。今日は客人が来ています」    その言葉に、時雨の視線が奥の影に立つ蘭淫へと向いた。  次の瞬間、時雨は目をぎょっと見開く。  光芒もまた、鋭い視線で蘭淫を射抜くように目を細めた。 「――木蓮桜花(もくれんおうか)の側近、蘭淫(らんいん)です」  蘭淫は感情を殺して名乗った。  時雨は言葉を失い、ただじっと刺すような敵意を込めて睨みつける。  一方、光芒は蘭淫の姿を視線でなぞるように見つめたあと、 「ほう」  と、感心したように低い声を漏らした。  その瞬間、蘭淫の肩がぴくりと跳ねた。 「これは随分なお客様だ。春雷、あなたはどうしたい?」  光芒に問いかけられ、春雷は少し考えるように目を伏せ、苦笑を浮かべた。 「とりあえず、現状把握と作戦会議をしましょう」 「いいね」 「広間に食事の準備ができています。行きましょう」  春雷が一同を広間へ促し、蘭淫もその後に続いた。  だが、蘭淫の視線だけは何度も光芒の後ろ姿へ注がれる。  じっと、何かを確かめ、探るように。  そのたび、手足を繋ぐ重苦しい鉄の楔が、シャラン、と甲高い金属音を立てた。  光芒がぴたりと足を止める。  振り返った光芒の視線は、蘭淫の顔ではなく、手足を縛る黒ずんだ鎖へと落とされた。 「……穢獣に囚われたか」  光芒の声には、冷ややかな嘲りが滲んでいる。 「一体、どんな悪さをしたのやら」 「――我は、悪いとは思っていません」  蘭淫は静かに答えた。  弁明する響きすらなく、ただ事実を口にしただけの淡々とした声だった。  光芒は興味を失ったように視線を逸らす。 「お前の事情など、どうでもいい」  そして、今一度その鎖を冷酷に見据えた。  深みのある黒目の奥で、眩い金色の光が怪しく閃く。 「――失せろ」  瞬間。  シャラン――。  蘭淫の手足を繋いでいた鎖が、ぴたりと動きを止め、沈黙した。 「…………」  蘭淫は目を見開いた。  これまでどれほどの術を施しても消えることのなかった呪縛の鎖。  それが今、光芒の一言だけで――まるで主を失ったかのように静まり返っている。  手首を見下ろす蘭淫の顔から、一気に血の気が引いていく。 「……これは」 「蘭淫?」  春雷が振り返る。  だが蘭淫は答えられない。  未知の怪物を見るような目で、光芒を凝視していた。 手首にまとわりついていた重苦しい気配 が、綺麗に霧散している。 (この男は……我の鎖に干渉できる……?)  背筋を氷水でなぞられたような悪寒が駆け抜けた。  手足に打ち込まれた穢獣の契約の鎖。  逆らうことを許さず、自身を縛り続けてきた絶対的な呪縛。それに干渉するほどの力を、この男は持っているのか――。  本能がけたたましく警鐘を鳴らしていた。  蘭淫は息を殺し、じり、と半歩後退る。  全身の毛が逆立つほどの警戒を剥き出しにして、光芒を睨みつけた。  光芒はその刺すような視線に気づくと、心底鬱陶しそうに目を細めた。 「お前など、ハエほどにも興味はない」  冷ややかに言い捨てると、光芒は蘭淫の手首へ顎をしゃくった。 「僕はお前を助けたわけでも、僕がお前にその安っぽい呪いをかけたわけでもない。……ただ、不愉快な視線を潰しただけだ」 「……視線……?」  蘭淫の薄い唇から、掠れた声が漏れる。 「お前を縛る、その鎖だ。……なるほど、都合のいい覗き穴だったわけだ」  光芒は黒目の奥に黄金の光を揺らしながら、心底不快そうに鼻を鳴らした。 「その鎖を通して、裏にいる『お飼い主様』がずっと僕を覗き込んでいた。昨夜の穢獣の群れも、お前の目を経由してこの光春舎の隙を探り、送り込んできたのだろう。……僕の視界に入り込む雑音が鬱陶しかった。それだけだ」 「な……」  時雨が息を呑み、春雷も目を見開く。  蘭淫は金縛りに遭ったように動けなくなった。  自分が穢獣に縛られていただけではない。  この鎖を通し、誰かが自分の感覚を利用していたのだ。  自分という存在そのものが、黒幕にとって光芒たちを監視するための「覗き穴(のぞきあな)」にされていた。  その事実に気づいた瞬間、背筋に新たな恐怖が込み上げる。  そして光芒は、その黒幕の「視界」を、ただの一言で力任せに遮断してみせたのだ。 「――さあ、立ち話は終わりだ。春雷が待っている」  光芒は何事もなかったかのように踵を返すと、広間へと歩き出し、春雷の隣へ寄り添った。

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