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第四十四話 虹色の瞳
幼い頃の記憶は、ほとんど残っていない。
気づいたときには、凍てつく道端に転がっていた。
頬を刺す粗い砂利の痛みも、頭上から容赦なく降ってくる罵倒の言葉も、すべてに傷つき――やがて、心は何も感じなくなった。
腹いせに殴られて意識を失おうと、凍える夜に一人身を縮めて震えていようと関係ない。
泥にまみれた残飯を漁り、腹を壊して苦しむことすら、「空腹で死ぬよりはマシだ」と自分に言い聞かせながら、いつも月を見上げて祈っていた。
――もしも神様が、チャンスをくれるのなら。
我はどんな泥を啜ってでも、努力をするのに。
「大丈夫?」
声をかけてきたのは、自分と同じように薄汚れた少女だった。
ぼさぼさの黒髪に、歯の抜けた口元。
泥のついた頬のまま、少女は蘭淫に眩しいほど優しく笑いかけた。
「お腹、空いてるの? さっきお店の人からもらったから、一緒に食べよう」
そう言って、少女は湯気を立てる蒸したての芋を二つに割り、迷わず大きいほうを差し出した。
それは、見ず知らずの相手にもためらいなく自分の命を分け与える、心優しい子だった。
「あたしは紫苑 。人間のお父さんと、麒麟のお母さんの間に生まれたの」
「……同じだ。我も、人間の母と麒麟の父の間に生まれた……」
霊獣と人間の間に生まれた子は禁忌とされ、例外なく孤児として道端に捨てられる。
通常なら赤ん坊のうちに命を落とすが、稀に強い霊力を持つ者だけが、生き残ってしまうのだという。
「お揃いだね!」
紫苑は無邪気に笑った。
愛嬌のある、まるで暗闇に咲く花のような子だった。
それからは二人、肩を寄せ合って生きた。
「食べ物を恵んでくれる人がいる」と聞けば、ボロボロの足でどこまでも二人で足を伸ばした。
けれど、忌み嫌われる半霊獣に手を差し伸べてくれる者など、めったにいない。
「蘭兄 さん、あの子……石を投げられているよ」
紫苑がそっと指さした陰で、無慈悲に石を投げつけられ、地面にうずくまって耐えている幼い霊獣がいた。
だが、自分たちの明日の命すら危うい蘭淫に、他人を構う余裕などない。
関わらないよう通り過ぎようとした蘭淫だったが、気づけば紫苑がすっと駆け寄り、その子に話しかけていた。
遠くから二人の様子を眺めていた蘭淫は、石を投げつけられ苛まれながらもじっと耐えるその霊獣の姿に、つい目を奪われた。
――今まで見たこともない、神秘的な虹色の目をしていたからだ。
「蘭兄さん、さっきの子から食べ物を貰っちゃった!」
いつの間にか戻ってきた紫苑が、弾んだ足取りで蘭淫の隣に滑り込んできた。
「あの子ね、自分の食事をあたしたちにくれたの! 声をかけてくれたからって。しかもね……」
紫苑は嬉しそうに、蘭淫の耳元でそっと囁く。
「いつか困ったことがあったら、絶対助けてあげるって!」
「ふうん……」
「自分のほうがずっと大変そうなのにさ。なんて言ったと思う?」
ごつごつした冷たい岩場に腰を下ろし、紫苑は大きな葉っぱに包まれた二つの握り飯のうち、ひとつを蘭淫 に手渡した。
蘭淫はそれを受け取ると、夢中で口へ放り込む。
――今まで食べたどんなご馳走よりも、温かくて美味しい食事だった。
紫苑も同じ気持ちだったのだろう。その大きな瞳をきらきらと輝かせている。
「『私は誰も置き去りにしない。困っているならば、誰であれ救います』だって。変わった子だよね」
「……そうだな」
「でもね。また会いたいな」
紫苑は握り飯を大切そうに噛み締めながら、遠く広がる空を見上げた。
――その三日後。
蘭淫と紫苑は、当時の天煌麒麟 統主であった牡丹花王 に拾われた。
牡丹花王が道端のふたりを選んだ理由は、ただ一言。
「未来が見えたから」
それだけだった。
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