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第四十五話 託された未来
先代の天煌麒麟家 統主・牡丹花王 は、威厳に満ちた白象色の衣装に藤色の羽織を纏い、いつも深い慈愛をその瞳に宿していた。
半霊獣の存在を知れば、自ら街へ足を運んで保護し、統主管轄の孤児院で育てる。
領地改革に並々ならぬ情熱を注ぐ牡丹花王が、蘭淫 と紫苑 を保護したのもその一環だった。
けれど、幼い蘭淫の手を握った瞬間、牡丹花王はふっと目を見開き、穏やかに微笑んだ。
「ふむ……」
牡丹花王は二人を自身の屋敷へ連れて帰るよう静かに命じた。
戸惑いながらも連れられて行った豪華な屋敷。
冷えた体を温める温湯で全身を綺麗に洗われ、伸びきっていた髪を切り揃えられ、温かな湯気が立つ食事が目の前に並べられた。
紫苑は目を輝かせて素直に膳へ手を伸ばしたが、蘭淫はまだ緊張に身を固くしている。
その困惑を察したのだろう。牡丹花王は蘭淫の頭にそっと手を置き、優しく撫でながら口を開いた。
「二人の中に、未来が見えたんだ」
「……どんな未来ですか?」
「いつか霊獣界全体を巻き込む英雄が現れ、破壊と救済をもたらす。そして霊獣たちは、本当の自由を得る。わたしは少しでもその者の支えになりたい。そのためには、二人の存在が必要なんだ」
予言のような言葉に、蘭淫は小さく首を傾げた。
「一人はすでに覚悟を決めている。彼のためだけではなく、わたしの弟子のためにも、師として何かしてやりたくてね。……二人を拾った理由はそれだよ。いつかわかるさ」
「我は……この恩に報いるため、何をすればよいでしょうか」
切実な蘭淫の問いに、牡丹花王はふわりと微笑みを深めた。
「そうだね……残念ながら蘭淫、そなたに麒麟本来の能力は使えない。だからこそ、術を極めなさい。そなたが秘める霊力は、他の麒麟にはない特別なものだ」
――術を極める。
いつか機があれば学びたいと願っていたことが、いま現実になろうとしている。蘭淫は衣の袖の中で、固く拳を握りしめた。
「あたしは! あたしはどうですか!」
口の端に米粒をつけたまま紫苑が身を乗り出すと、牡丹花王はくすりと笑い、その口元を優しく拭った。
「そなたも高い霊力を秘めている。……だが、少し陰 の気を纏っているね。穢獣 に取り憑かれやすい。蘭淫とともに鍛錬を重ね、自らの身を守る術を身につけなさい」
「はいっ!」
紫苑は弾んだ声で元気よく返事をした。
◇
保護された翌日から、統主の屋敷での学びが始まった。
二人には生まれつきの特殊能力がなく、勉強はもっぱら座学中心だったが、同世代の子どもたちに囲まれて学ぶ日々は新鮮で楽しかった。
「蘭 兄さん、今度お友達とお菓子を作ることになったの。出来上がったら持ってくるわね」
「ああ、楽しみにしている」
口数の少ない蘭淫だったが、紫苑が嬉しそうに語る声にはいつも優しく耳を傾けていた。
牡丹花王から与えられた離れで、雨風を凌げる屋根の下で眠る――それだけで二人は十分に幸せだった。
そんな穏やかな日常の中に、彼が現れる。
――:木蓮桜花(もくれんおうか)との出会いだった。
ある日、牡丹花王に連れられてやってきた木蓮桜花は、白い頬のあちこちに痛々しい引っ掻き傷をこしらえていた。
紫苑が心配して寄り添い、懐から取り出した懐紙で傷を拭おうとした瞬間、木蓮桜花はその手を容赦なく払い打った。
「触るな。無礼者!」
小さな体躯からは想像もつかないほど、鋭く威圧的な声だった。
透き通るような色白の肌に繊細な顔立ち。
黙っていれば誰もが見惚れる美少年だが、低く響く声には威圧感があり、吊り上がった瞳には常に激しい怒りの火がくすぶっていた。
「紫苑! 大丈夫か?」
「……大丈夫よ、蘭兄さん。ちょっとびっくりしちゃっただけ」
あはは、と力なく笑って誤魔化す紫苑を背にかばい、蘭淫は木蓮桜花を強い視線で睨みつけた。
「――なんだその目は。穢 れものめ」
木蓮桜花が冷たく言い放った直後、どこからか飛んできた小石がその肩を弾いた。木蓮桜花はハッと怒りの矛先を向けたが、周囲の木の影には誰もいない。
「誰だ! 朕 になにをするか!」
「悪いな。俺の恩人が貶められた気がしたものでね。勘違いだったか」
「……その声! 姿を現せ、受けて立つ!」
「無駄なことはやめておけ」
声の主を知っている牡丹花王は、可哀想なものを見るような目つきで息を吐いた。
「……弟子よ、今日の修行はもう終わったのかい? まったく」
一陣の強い風が吹き抜けると、声の気配は綺麗に消え去っていた。
「あの……助けていただき、ありがとうございました!」
紫苑が虚空に向かって声を張ると、どこか遠くから、穏やかな笑い声が返ってきた。
「礼には及ばない。あの人なら、きっと同じことをしただろうから」
あまりにも愛おしそうに、慈しみを込めて語られた「あの人」という言葉。
蘭淫と紫苑は顔を見合わせ、首をかしげた。
――あの人……?
牡丹花王が、ぽんと手を叩く。
張り詰めかけた空気を切り裂くように、明るい声が静寂を払った。
「うちの弟子が割り込んですまない。基本的に姿を現さない奴だから、気にしないでくれ」
そう言って木蓮桜花の華奢な肩を掴み、牡丹花王は優しく目元を緩めた。
「改めて紹介しよう。わたしの息子の木蓮桜花だ。次期天煌麒麟家 の統主になる。できたら二人には、桜花を支えてやってほしい」
「ふん。なんでこんな奴らに支えられなきゃいけないんだ」
不満を露わに顔を背ける桜花を、牡丹花王はまっすぐ見つめた。
その眼差しには、どこか深い切なさが揺れている。
「桜花……前に話しただろう。わたしはいつか天柱へ行く。統主になった時、お前を支えてくれる『本当の味方』をつくりなさい、と」
「――父上がいればいい! それに、弟子のあいつだって!」
「あの子は麒麟一族ではない。それに、彼には果たすべき宿命がある。わたしも、いつまでも一緒にはいられないよ」
木蓮桜花が、唇を噛み締めて俯く。
その横顔を一瞥してから、牡丹花王は蘭淫と紫苑へ向き直った。
「幼き統主は狙われやすく、時につけいられる。勝手な頼みで申し訳ないが……蘭淫、紫苑。桜花を守ってくれないか」
蘭淫が怪訝に眉をひそめるより早く、紫苑が弾んだ声で応じた。
「おまかせください! あたしたちにできることなら、なんだってします!」
眩しいほどの笑顔だった。
その太陽のような明るさに押されるように、蘭淫は仕方なく小さく首を縦に振った。
◇
それ以来、三人で行動することが増えた。
中庭の東屋で、紫苑が作った弁当を広げる日もあった。
「蘭兄さん、ちゃんと食べなきゃ駄目じゃない」
「いらない」
背を向ける蘭淫に、紫苑がぷくっと頬を膨らませる。
昔から、世話焼きな性格だった。
木蓮桜花にもどれほど邪険に扱われても、「好きでやってるんだから」と笑って、いつも彼のそばにいた。
蘭淫には、そんな紫苑の無防備な危うさが心配だった。
「今日も傷だらけじゃない。毎回どうしてそんな怪我をするの?」
「うるさい。お前に心配される義理はない」
木蓮桜花は、会うたびに白い肌のどこかに新しい擦り傷や打撲痕を作っていた。
彼の性格は、良くも悪くも周囲との軋轢を生んだ。高いプライドと傲慢さゆえ、周囲に自ら喧嘩を売ってしまうのだ。
だが、彼を取り巻く導士 たちもまた劣悪だった。
実力もないくせに陰湿な嫌味ばかり吐き、面倒事を押しつけては「自分ならもっとうまくやれる」と息巻く。
蘭淫は視線を合わせて耐えたが、桜花は毎回、その挑発を真正面から買った。
小柄な身体では多勢に無勢で、いつも最後には叩きのめされている。
何より、彼の高貴で美しい顔立ちを妬んだ連中に、重点的に狙われていることは明白だった。
――本当に意地汚い。
「今日もどうせ、くだらん喧嘩を売ったのだろう」
「売ったのではない。こちらが買ってやったのだ!」
桜花は荒く鼻を鳴らし、蘭淫を射殺さんばかりに睨みつける。
「……いい加減にしろ。無駄な争いで身を削っていては、守るべき術すら身につかんぞ」
「無駄だと!?」
桜花が即座に噛みついた。
「朕の母上を……病弱な身で朕を産んでくださった母上を、あやつらは売女と侮辱したのだぞ! 買わずにいられるか!」
「だから何だ」
淡々とした蘭淫の返答に、桜花の表情が凍りついた。
次の瞬間、血がのぼったように顔を真っ赤にして跳ね上がる。
「……なんだと?」
「相手が何を言おうと、無視をすれば済む話だ。挑発に乗り、怪我を負い、己の立場を危うくするなど愚の骨頂。感情に任せて動くのはやめろと言っている」
「お前に何が分かる!」
激昂した桜花が、蘭淫の胸倉を鷲掴みにする。
「母上の尊厳を守るためだ! 誇りを汚されて黙っているような奴は、ただの臆病者だ!」
「くだらない」
「――ッ!」
桜花の瞳に、血走った激しい憎悪が灯る。
だが、胸元を掴まれた蘭淫は、温度を失った瞳で見下ろすだけだった。
「我には親などいない。ゆえに、そんなものに執着する気持ちは理解できんし、理解する価値もない。親がどうだと怒る時点で、そなたは十分に恵まれている」
「恵まれている……? 侮辱された母上を放っておけと言うのか!? 誇りを捨てろと言うのか!?」
「誇りで腹は膨らまない。傷も塞がらん。そなたの母親がどれほど高潔だろうと、我には無関係だ。勝手に頭を血に上らせ、買わなくてもいい喧嘩をして叩きのめされているのは、そなた自身だろう」
「貴様……どこまで朕を、母上を愚弄すれば気が済むのだ……!」
「事実を言ったまでだ。そなたの身勝手な『誇り』に付き合わされる側の身にもなれ」
桜花が怒号とともに、震える拳を振り上げた。
その瞬間、紫苑が二人の間へ飛び込んだ。
「やめて! 二人とも!」
「退け、紫苑! こいつだけは絶対に許さん!」
「嫌! 蘭兄さんも、桜花様も、どうしてすぐそうやって喧嘩するの!?」
「こいつが朕と母上を侮辱したからだ!」
「我は愚かな振る舞いを指摘しただけだ」
「それが無神経だと言っているのだ!」
「ならば、そなたがその肥大化した自尊心を改めれば済む」
「な……ッ! どこまでも……!」
「二人ともお願いだからやめて!!」
紫苑の悲痛な叫びも、火花散る二人の視線を散らすことはできなかった。
桜花にとって、これは「誇りと愛する母のための譲れない戦い」。
蘭淫にとっては、「無意味に危機を招く愚行」。
言葉を重ねるほどに、互いの断絶が浮き彫りになっていく。
――最初から、噛み合うはずなどなかったのだ。
殴り合いこそ免れたものの、落とされた亀裂が埋まることはなかった。
牡丹花王の命令でだけで繋がれているだけの二人。
それでも、紫苑が太陽のように二人の間にいてくれたからこそ、かろうじて破綻せずに済んでいた。
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