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第四十六話 守るべきもの
時が経つにつれ、術の才能を開花させたのは蘭淫 だった。
霊力こそ持たないが、複雑な術式に関する知識は誰よりも深い。
指先ひとつで空を切る陣の精度においては、やがて並ぶ者がいなくなった。
「そなたは間違いなく秀才だな。歴代の教え子の中でも群を抜いている」
師である蓮華玄人 にそう褒められた時、蘭淫の胸は歓喜で震えた。
毎夜、紫苑 と灯りの下で泥のように勉強した日々が、ようやく報われたのだ。
だが、評価が高まるにつれ、導士 たちの嫉妬と悪意は蘭淫へ向けられ始めた。
そして、その刃は何よりも無抵抗な紫苑へと向けられていく。
「穢れ者 の分際で調子に乗るな。こんな陣、俺たちにだって書ける」
陰惨ないじめが始まった。
蘭淫は黙って耐えた。自分が傷つくことなど、どうでもよかった。
だが、彼らの腐った刃は紫苑を容赦なく傷つけていく。
ある日。
ボロボロになって帰ってきた紫苑の姿を見た瞬間、蘭淫の中で理性の糸が、ぶつりと切れた。
(――守らねば)
力が必要だった。
地位が必要だった。
何者にも踏みにじられないだけの力と、誰にも逆らわせないだけの地位が。
(この理不尽をすべて踏みにじるだけの『力』と『地位』がなければ、紫苑を守り抜くことなどできない)
絶好の機会は、すぐに訪れた。
天煌麒麟家 の領地に穢獣 が出現し、討伐隊が編制されたのだ。
蘭淫と紫苑は、木蓮桜花 の侍従 として参加することになった。
功績を立てれば、位が上がる。
懸念があるとすれば、戦力にならない紫苑まで連れ出されることだけだった。
◇
討伐の前夜。
二人は慎ましく小さな卓を囲んでいた。
「紫苑、怪我は痛まないか?」
「問題ないわ。孤児のころに比べたら、こんなのただの擦り傷よ!」
笑い合う時間すら、久しぶりのように思えた。
紫苑が淹れてくれた温かな汁物を口に含み、蘭淫は束の間の安らぎを噛み締める。
「蘭兄さん……あたし最近思うの。孤児だった時のほうが、幸せだったのかなって」
蘭淫の口元へ向かう手が、ぴたりと止まる。
「ここはご飯にも困らないし、屋根もある。だけど……なんかね……」
どこか遠くを見つめる紫苑の言葉を、蘭淫は静かに遮った。
「努力して手に入れた場所だ。今の生活のほうがいい」
「……そうだよね。変なこと言っちゃった」
紫苑は困ったように笑い、窓の外の夜空に浮かぶ月を見上げた。
「ねえ、蘭兄さん。昔、石を投げられていたあの霊獣 ……覚えてる?」
「……綺麗な目をしていたな」
「そう! 元気にしてるかな。あたし、あの約束がずっと忘れられないの」
紫苑は愛おしそうに笑った。
「なんでかなあ」
その横顔を見つめながら、蘭淫は一瞬だけ、胸の奥に冷たい小さな不安を覚えた。
◇
討伐隊は、木蓮桜花を筆頭に数十名の導士、そして侍従の蘭淫と紫苑で構成された。
木蓮桜花にとっては、次期統主としての威厳を証明するための出陣だった。
霊力を持たない蘭淫と紫苑の役割は、二人で誘導陣を描き、穢獣を特定の地点へ誘い出すこと。
「全員、配置につけ! 結界を張り、穢獣を封じ込めて浄化する!」
天煌麒麟家の戦法は、陣で誘い込んだ敵を結界で囲い込み、じわじわと浄化する防衛的なものだ。
円陣を組み、結界の準備が整った。
その時だった。
導士たちの顔に、下卑た嘲笑が浮かんだ。
彼らはあらかじめ示し合わせていたかのように、蘭淫と紫苑が描き切った:誘導陣(ゆうどうじん)の:要(かなめ)を、重い靴底でわざと踏み荒らした。
そして、蜘蛛の子を散らすように後退していく。
「大変だ! 陣が不完全で崩壊したぞ! 穢獣が暴走する!」
「あの二人を置き去りにしよう」
「退避だ! 結界を自分たちの周りに張り直せ!」
白々しい叫び声とともに、数十名の導士たちは、迫り来る穢獣の真っ只中に蘭淫と紫苑を置き去りにして逃走した。
「なっ……!?」
木蓮桜花が驚愕に目を見開く。
だが、溢れ出した猛烈な邪気に押され、下がるしかない。
「蘭兄さん! 穢獣が来るわ!」
「逃げろ、紫苑! 我 が陣を書き換える!」
「駄目、間に合わない!」
「封印陣 へ書き換えれば、一時的に動きは止まる!」
迫り来る死の恐怖に全身を激しく震わせながらも、紫苑は逃げなかった。
蘭淫のもとへ駆け戻り、指先を泥と血にまみれさせながら陣を書き直していく。
地の底から地響きのように重く響く穢獣の唸り声が、すぐ耳元まで迫る。
その時――。
ダッ、と力強い足音が地を蹴った。
誰かが二人の前へ躍り出る。
「木蓮桜花様!?」
止める導士たちの悲鳴を振り切り、桜花は二人を背中に庇うようにして立ちはだかった。
深く息を吸い込み、握りしめた錫杖を力任せに突き立てる。
「――:天瑞結界(てんずいけっかい)!」
凛とした光の壁が二人を包み込み、濁流のような邪気を鋭く弾き返した。
「今だ!」
蘭淫の叫びとともに、二人は狂ったように指を滑らせた。
「――よし!」
「『百花開陣 』!!」
眩い光のラインが幾重にも大地を走る。
押し寄せていた穢獣の群れが、一瞬にして光の檻へと閉じ込められた。
荒い呼吸を吐き出し、蘭淫と紫苑はその場へへたり込む。
木蓮桜花がゆっくりと結界を解いた。
檻の中で泥のように蠢く穢獣の群れを一瞥する。
その瞳には、反吐が出るような強い侮蔑が宿っていた。
「……『桜花・万華浄界 』」
:錫杖(しゃくじょう)の先端から放たれた圧倒的な閃光が、狂暴な穢獣を呑み込む。
次の瞬間――。
穢獣の肉体は崩壊し、千の散り急ぐ桜の花びらへと昇華していった。
息を呑むほど幻想的で美しい光景。
その渦中に立つ木蓮桜花だけが、汚物を見るような冷ややかな目で、舞い散る花びらを見下ろしていた。
「――いたっ!」
静寂を破り、紫苑が右肩を押さえて小さく悲鳴を上げる。
「大丈夫……風で舞った棘 が、ちょっと刺さっただけみたい」
紫苑は右肩に刺さった小さな黒い欠片を抜き取り、何事もなかったようにいつもの笑顔を向けた。
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