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第四十七話 穢れに沈むぬくもり
だが、それが単なる「棘 」などではないと知ったのは、討伐が終わった直後だった。
「木蓮桜花 様、お助けいただき感謝します」
「……朕 は務めを果たしただけだ」
「見事な結界でした」
「ふん。当然だ。朕は次期統主だからな」
安堵の空気が緩やかに流れた、その直後。
背後から、鼓膜を裂くような不気味な高笑いと、大地を揺らす咆哮が響き渡った。
「なんだ!? 何が起きている!?」
「木蓮桜花様! 結界が……結界が発動しません!」
「何だと!?」
ズズ……。
ズズズ……。
異形の肉塊が蠢き、地面を這いずる粘質的な音が骨の奥まで響く。
蘭淫 は咄嗟に紫苑 を背中へ隠そうと振り向いた。
だが――。
紫苑の姿を見た瞬間、全身の血が引いて呼吸が止まった。
「紫苑……? 何をしている……!?」
紫苑は無表情のまま、恐ろしい速度で己の左腕に指を走らせていた。
皮膚を鋭く削り取るように刻まれているのは――能力封印の陣。
それが完成すれば、この場にいる者の霊力はすべて霧散し、奪われる。
「あ……れ……? あたし……なんで……?」
紫苑の瞳から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちる。
「ちがう! あたしじゃないの! 蘭 兄さん! 身体が……!」
「落ち着け、紫苑! 手を止めろ!」
「勝手に手が動くの……ッ! あたし、あたし、やだ……っ!」
悲鳴を上げながらも、その指先は真っ赤な血を撒き散らし、恐ろしい精度で狂いなく術式を完成させていく。
蘭淫は狂ったように紫苑の手首を掴み、力任せに地へ組み伏せた。
「誰か! 誰か助けてくれ! 紫苑が操られている!」
「それどころか! 術が使えない! 穢獣 が迫ってきてるんだぞ!」
「あいつのせいだ! あの女のせいで俺たちが死ぬ!!」
「あいつは駄目だ。穢獣になってしまった」
導士 たちは狂乱し、罵声を浴びせながら我先にと逃げていく。
誰も、紫苑の異常な事態に目を向けようとはしない。
「……蘭兄さん、怖い……っ!」
紫苑の声が喉の奥で引きちぎれるように震える。
「あたしの中に、穢れが入ってくる……。あたしが、あたしじゃなくなっちゃう……!」
紫苑の右肩から、ドブのような腐肉の悪臭が立ち昇った。
見る間に、その白い肌が肘から先へ、首筋へと、禍々しい紫色の斑点に浸食されていく。
――穢染 。
決して取り返しのつかない肉体の変質。
「頼む……誰か、浄化を……!」
蘭淫は必死で周囲を見回した。誰も動かない。
「紫苑を救ってくれ!!」
絶望のなか、蘭淫の視界に木蓮桜花が映った。
「木蓮桜花様!!」
プライドも何もかも投げ打ち、蘭淫は泥にはいつくばるように叫んだ。
「お願いです! 紫苑を――!」
木蓮桜花は答えなかった。
ただ、冷たく紫苑を見つめている。
その瞳に宿っていたのは、先ほど惨めな穢獣たちへ向けていたものと、まったく同じ――汚物を見るような冷酷な蔑みだった。
そして。
「……朕にできることは、何もない」
静かな声だった。
吐き捨てられたのは、それだけだった。
蘭淫の頭上から、冷酷な絶望が黒い濁流となって降り注ぐ。
「……違う……」
紫苑が、冷たくなっていく腕の中で泣いている。
「蘭兄さん……怖いよ……」
蘭淫は何も答えられなかった。
ただ、腐肉の匂いと、恐怖に狂い叫ぶ紫苑を、壊れた人形のように強く、強く抱きしめる。
その腕の中で、紫苑の温もりは静かに穢れの中へと沈んでいった。
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