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第四十八話 穢れに蝕まれた妹

「——そこまでだ」  低く重厚な声が、絶望に塗りつぶされた空間を鮮烈に切り裂いた。  黄金の光を纏って舞い降りた牡丹花王(ぼたんかおう)が、迷いなくその手をおろす。  解き放たれた苛烈な威光が紫苑(紫苑)の身体を包み込み、彼女を内部から蝕んでいた黒紫の穢染(けせん)を強引に圧し折っていった。   「……牡丹花王様……!」 「すまない、遅くなった。桜花(おうか)、下がっていなさい」    木蓮桜花(もくれんおうか)が苦々しく顔を背ける傍らで、牡丹花王は紫苑の腕を取り、深く重い息を吐き出す。  命だけは繋ぎ止めた。  ――だが、その代償はあまりに残酷だった。  紫苑の右肩には不気味な黒斑が黒い痣のように残り、体内には浄化しきれなかった穢獣(けじゅう)の核が、まるで脈打つ寄生虫のように深く根を張ってしまったのだ。   ◇    それからの紫苑は、まるで皮一枚下に「穢獣」を潜ませているかのように変貌していった。  普段は以前と変わらぬ健気な笑顔を見せる。  しかし、ふとした拍子にその瞳から一切の生気が失われ、底知れぬ深淵のような冷徹さが覗くのだ。  東嶺青龍家(とうれいせいりゅうけ)で開かれた『薄明光線(はくめいこうせん)の宴』の最中にも、その異変は突如として現れた。  木蓮桜花の付き添いで参加したものの、煌びやかな灯りと雅楽の音が響き渡る狂熱のなか、蘭淫(らんいん)がふと隣を見ると、そこにいたはずの紫苑の姿が掻き消えていた。   「紫苑……? どこへ行った……」    胸を突く不吉な胸騒ぎに背中を押され、宴を抜け出して影の落ちる回廊を彷徨う蘭淫。    月明かりすら届かない庭園の奥底、狂い咲く夜桜の下に、彼女はぽつりと佇んでいた。   「……紫苑?」    声をかけると、紫苑が首を緩やかに巡らせる。  その唇には、かつての彼女なら決して浮かべることのない、妖しく艶やかな笑みが刻まれていた。   「ねえ、蘭(らん)兄さん」    鈴を転がすような愛らしい声。  けれどその響きは虚ろで、まるで黄泉の国の底から届いているかのように響く。   「どうしてそんなに怖い顔をしているの? あたしはここにいるよ。……それとも、あたしの皮を被った『穢獣』に見える?」   「……紫苑、冗談はやめろ。戻るぞ」   「ふふ、戻るってどこへ? あたしたちを捨てたあの冷たい人たちのところ? ねえ、蘭兄さん……本当は分かってるんでしょ? あの時、木蓮桜花様があたしたちを見捨てたこと」    紫苑は揺らめく影のように滑らかな足取りで寄り寄り、凍てつく指先で彼の頬を撫でた。  その指先からは、微かに腐肉の生臭い匂いが漂う。   「あたしをこんな体にしたのは誰? 蘭兄さんを傷つけたのは誰? ……ねえ、許さなくていいんだよ?」    甘い毒液のような言葉が、蘭淫の耳腔を揺さぶる。  それが紫苑本人の叫びなのか、体内の穢獣が見せる惑わしなのか、蘭淫にはもう判別がつかなかった。  ただ、彼女の甘美な囁きが、己の胸の底に燻っていた憎悪の種火に、確実に油を注いでいく。 「——薄明光線に会わなくちゃ」  突然、糸が切れたように紫苑が呟いた。 「あたしが愛している、薄明光線。光り輝く君、天命に選ばれし存在……あたしが愛さなくちゃ」  狂気を含んだ言葉を残し、紫苑は常人ならざる速度で暗闇の中へと姿を消した。 「紫苑!」  叫び声は虚しく夜の闇に吸い込まれ、蘭淫はその場に立ち尽くすことしか出来なかった。    彼が混乱と恐怖の渦に呑まれかけていた、まさにその最悪のタイミングで――運命の歯車は無慈悲に狂い出す。  牡丹花王が「天柱(てんちゅう)」へ赴く刻限が訪れてしまったのだ。    紫苑の体内の穢れを抑え込める唯一の存在であり、二人にとって最大の庇護者であった牡丹花王の離脱。  それは、後ろ盾を失った蘭淫と紫苑が、冷酷な桜花と導士(どうし)たちの悪意が渦巻く渦中に、完全に孤立することを意味していた。  木蓮桜花が統主の錫杖(しゃくじょう)を掲げ、統主交代の儀式は冷淡に執り行われる。  牡丹花王が天柱へと旅立つその日、去りゆく威厳ある背中を見送りながら、紫苑は蘭淫の手を痛いほど強く握りしめた。  その力は尋常ではなく、骨が鳴るほど冷たかった。   「蘭兄さん、話があるの」    そこには、ただ一つの覚悟が宿っていた。  夜、静まり返る離れで二人向かい合うと、紫苑は幼い頃のように寂しげに、くしゃりと笑ってみせた。   「牡丹花王様がいない今、あたしがどうなっちゃうか分からない。今はこうして正気を保てているけれど……今度正気を失ったら、もう戻ってこられないかもしれない」   「——大丈夫だ、希望はある! 『物をしまう術』があるんだ。そこに魂を閉じ込めて、穢獣の毒が去ったあとに戻せばいい!」 「あたしの中にいる穢獣は、ただの穢獣じゃない。何かに命令されて動いている気がする。麒麟統主様たちでさえ浄化できないのに、誰ができるの?……それに」 頭を強く両手で抱え込み、紫苑は絞り出すように呟く。 「もう……ひとりぼっちになるのは、いやだよ」  蘭淫は細い肩を力いっぱい抱きしめ、「絶対に助ける、俺が絶対助けるから」と壊れた言葉のように何度も何度も言い聞かせた。 (絶対に助けてやる。――何に替えても)   それからの蘭淫は書庫に籠り、術の解析に没頭した。  陣を描き、呼吸を乱しながら何度も術式を試みる。  しかし、複雑に絡み合った穢獣と紫苑の魂魄を切り離す術式はどうしても成功に至らない。  激しい頭痛に耐かねて書庫を後にした蘭淫の視界に、導士たちに恭しく囲まれる木蓮桜花の姿が飛び込んできた。  いつの間にか実力を認められ、確固たる位を手にした桜花。無駄な争いを削ぎ落とした彼の顔からは、かつてあった傷も綺麗に消えていた。 蘭淫の口から、乾いた嘲笑が漏れる。 ――それに引き換え、自分はどうだ。  命を削って術を学び、どれほど精進しようとも、不遇な生まれというだけで泥のように差別され、位すら与えられない。  そして失いかけているのは、何よりも大切な妹だ。 (この差はなんだ? なぜ俺たちばかりが、こうも淘汰され続けなければならない?)  きっかけさえあれば、と過去には思っていた。  だが、現実はただ理不尽なだけだ。  ふと、以前に紫苑が漏らした声が脳裏をよぎる。   『蘭兄さん……あたし最近思うの。あの頃みたいに孤児だった時のほうが、幸せだったのかなって』    我(われ)は何に翻弄されているのだろう。  この歪んだ世界に、何の価値があるというのか。 「蘭淫、話がある」  思考の底に沈んでいた蘭淫に、静寂を破って声をかけたのは木蓮桜花の側だった。  木蓮桜花は導士たちを退けると、相変わらず見下すような傲慢な態度で蘭淫と向き合った。   「紫苑のことは、残念だったな」  その言葉には、欠片の情も含まれていなかった。 「明日、紫苑を追放する。牡丹花王——父上がおらぬ今、他に手段はない。いつまでも天煌麒麟家(てんこうきりんけ)に穢獣を置いておくなど、家の名に傷がつく」 「待て……! 紫苑はまだ完全に穢獣化してはいない! 追放となれば、浄化はされずに紫苑の命まで絶たれるということだぞ! 分かっているのか!?」  木蓮桜花は、まるで虫の羽音でも聞くかのように冷ややかな目を向けた。 「だから、なんだと言うのだ。所詮は半霊獣の出来損ないだろう」  一瞬、思考が真っ白に染まった。蘭淫の全身が、激しい怒りと慄えで打ち震える。   「……お前は、何も感じないのか? 紫苑は毎日のようにお前に弁当を作り、かいがいしく世話を焼いていたではないか! それを——」 「下の者が上の者に尽くす。それがこの世の理(ことわり)だろう」 ——ぷつん、と。 蘭淫の中で、世界を繋ぎ止めていた最後の理性と倫理の糸が切れた。 「——下の者が上の者に尽くすのが理、と言うのならば」 静まり返る廊下に、蘭淫の低く暗い声が落ちる。 「あなたも知っているはずだ」 「蘭兄さん!?」  一向に帰らない蘭淫を心配して探しに来ていた紫苑が、異様な気配を察して割って入ろうと叫んだ。 だが、遅かった。    蘭淫は容赦のない一撃で、木蓮桜花の顔面を全力で殴りつけた。  生々しい骨の砕ける音が響く。  思いもよらぬ反逆の痛みに、桜花は身体を硬直させ、声を上げることもできずに倒れ込む。  蘭淫は間髪入れずその胸元に馬乗りになると、冷たく濁った瞳で見下ろし静かに告げた。 「下たる者が、上たる者の首を狩る……その理をな」  それからは、ただ惨劇だった。  桜花の顔の形が原形をとどめなくなるまで、蘭淫は機械のように拳を叩きつけ続けた。鮮血が飛散し、廊下と蘭淫の顔面を赤く染めていく。  ふと手を止め、横で恐怖に震えながら泣き叫ぶ紫苑へ視線を向けると、蘭淫は血塗られた手で彼女の頬を優しく撫で、力無く、しかし狂気に満ちた笑みを浮かべた。 「大丈夫だ、紫苑。兄が……全部なんとかしてやるから」

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