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第四十九話 天命に背く者

言うや否や、蘭淫(らんいん)は自身の掌に血で禍々しい術陣を描いた。 迷いなく、息も絶え絶えの木蓮桜花(もくれんおうか)の胸元へと手を突き立てる。 霊力で手を包み、すり抜けるように生々しい心臓に触れると、その魂魄を強引に掴み出し、引きずり出された叫びとともに近くにあった統主の錫杖(しゃくじょう)へと封じ込めた。 木蓮桜花の魂魄(こんぱく)はそのまま宝珠(ほうじゅ)に変化したので、錫杖(しゃくじょう)には宝珠が一つ多くなる。 さらに蘭淫は、恐怖に眼を見開く紫苑(しおん)の頭を鷲掴みにする。 抵抗する間もなく、彼女の頭部から魂魄を強引に引きちぎり——魂魄のない木蓮桜花の肉体へと、強引にねじ込んだ。 過酷すぎる禁術(きんじゅつ)の反動と、引き剥がされた魂魄の悲鳴。 その場は溢れ出た血の海と化し、蘭淫の全身は朱に染まっていた。 だが、その瞳にはもう何の迷いも、哀しみも残っていなかった。 ただ、泥のような闇だけが、そこに広がっていた。  ◇ 紫苑の肉体に居座る穢獣(けじゅう)が、せせら笑うように高笑いを上げる。 その醜悪な口へ向け、蘭淫は迷いなく空中に苛烈な一文字を刻んだ。 刹那、爆ぜるような衝動とともに穢獣の口角が大きく引き裂かれ、生々しい血飛沫が飛散する。 「黙れ」 冷徹なその一言に、穢獣は裂けた傷口から血を撒き散らしながら、かえって愉悦に口元を歪める。 「滑稽だな、蘭淫! 妹の魂を木蓮桜花の器にねじ込もうと、穢れの侵食までは止められん! 天命の理(ことわり)は変えられぬのだ!我が主人はその女を殺すーー死ぬ運命は変えられぬ」 蘭淫はただ無言のまま、桜花の腕に流れるように禁術の術式を刻み込んでいく。 そのまま迷いなく自らの腕にも刃を立て、血で文字を書き連ねると、至極冷静な手つきで自らと穢獣を囲む巨大な陣を描き落とした。 「ならば、天命そのものを書き換えるまで」 「正気か!? 天命を書き換えられる力を持つ者など、この世にただ一人……過ちを犯せばどのような惨劇が起こるか、分かっておるのか!」 「……どうなったって、構わない」 蘭淫の唇から、乾いた嘲笑が漏れる。 「もとより、すべてを捨てる覚悟はできている」 陣を完成させると、蘭淫は血塗られた両手をその中心へと深くかざした。 「――開け」 低く静かな一呟きとともに、禍々しい紫黒の光が陣から一気に爆ぜた。 大気が歪み、空間そのものが軋むような悲鳴を上げる。まるで世界の深淵で眠っていた災厄の巨神が、無理やり目を覚まされたかのようだった。 「な、何を……!?」  穢獣の余裕が崩れ、初めて恐怖に声が震える。  蘭淫の足元から狂ったように無数の古代文字が浮かび上がり、重なり合う幾重もの光の円環となって周囲の空間を支配していった。  それは霊獣が使うべき術式ではない。世界そのものの因果に触れ、運命を改変するための禁忌。 蘭淫は血に濡れた指先を突き立て、歪む空間へ容赦なく字を打ち込んでいく。 ――紫苑の死。 刻まれた運命の文字が、みしりと音を立てて砕け散った。 「やめろ……!」 穢獣が悲痛な叫びを上げる。 「それ以上は本当に、天命の領域へ触れることになるぞ!」 「……だから、やるんだ」 感情を削ぎ落とした声で、蘭淫は答えた。 直後――。 ――ズンッ!! 世界が崩落するような衝撃が、蘭淫の全身を突いた。   「――っ!?」 凄まじい質量を持った黒い楔(くさび)が、どこからともなく飛来し、彼の右手首を穿つ。 肉を押し潰し、骨を粉砕し、まるで世界の基盤そのものへと縫い留めるかのように、暗黒の楔は床深く沈み込んでいった。 「ぐ……あ……っ!」 間髪入れず、左手首。 続いて、右足。 そして、左足。 四肢すべてを過酷な黒の楔が狂いなく貫通する。床には鮮血の池が広がり、生温かい匂いが充満した。 それでもなお、蘭淫の手は陣から寸分も離れなかった。 「蘭淫……!」 穢獣の声から恐怖が消えた。そこに宿ったのは、狂喜と歪んだ歓喜だった。 「愚かな奴め……! 天命を侵した者には、世界から、我が主人からの報いがくる!」 楔の根元から溢れ出した鎖のような黒影が、蘭淫の身体を這い上がっていく。  首筋を舐め、胸元を締め上げ、皮膚の表面へ禍々しい紫黒の呪紋を刻み込んでいく。 蘭淫は全身の細胞が焼け焦げるような苦悶に顔を歪めながらも、その視線だけは、紫苑の魂を宿した桜花の肉体をしっかりと見つめていた。 「……これで……紫苑は……死なない……」 「違うな!」 穢獣が笑う。  「貴様が天命を捻じ曲げようと、世界がそれを許すはずもない! その楔はな、貴様という存在を『霊獣』の枠組みから切り離すための烙印だ!」 「……それがどうした」 「己の意思で霊獣であることを捨てたのだ! 貴様はもう、霊獣ではない!」  蘭淫はゆっくりと頭を上げた。  血と汗に塗れたその瞳には、すでに恐怖も迷いも無かった。ただどこまでも静かな深淵があるだけだった。 「……紫苑が生きられるのなら――」 黒い影が津波のように押し寄せ、彼の顔半分を食い破るように覆い尽くす。 「俺がどんな化物になろうと……知ったことか」 その瞬間。 四肢を穿つ楔から、禍々しい黒い閃光が一斉に迸った。 蘭淫の身体が弓なりに大きく仰け反る。 魂魄そのものを千切り取られるような絶絶たる激痛に、声にならない呻きが喉の奥で潰れた。 それでも、彼が支える陣の光だけは決して消えなかった。 やがて―― 紫苑の肉体を蝕んでいた死の黒斑が、嘘のようにゆっくりと薄れ、消えていく。 「……紫苑……」 すべてをやり遂げた蘭淫が、倒れ込みそうになりながら安堵の笑みを浮かべた。 だが。 その背後に、漆黒の重い影が静かに揺らめく。 冷たい黒い手が、疲弊しきった蘭淫の肩へそっと置かれた。 「ならば、契約は成立だ」 「……何……?」 「お前は天命を捨てた。天煌麒麟家(てんこうきりんけ)がお前を守る理由も失われる」 「……」 「だが安心しろ。お前を拾うものなら、ここにいる。我が主人からの命令だ」 黒い手が、蘭淫の胸へ触れる。 「お前が紫苑の命を望む限り、その魂を代価として受け取ろう」 「…………構わない」 「本当に?」 「紫苑が生きるなら」 蘭淫は迷わなかった 「俺の魂など、いくらでもくれてやる」 影は液状化するように、蘭淫の胸の傷口から体内へとゆっくりと沈み込んでいく。 「――お前の魂も、残さず我が主人のものだ」 蘭淫の瞳から、最後の正気の光が溶けるように消え去った。 四肢に穿たれた黒い楔が、生体のように不気味な脈動を始める。 それはもはや罰などではなく、彼を永遠に穢獣の僕(しもべ)として繋ぎ止めるための、断ち切れぬ鎖だった。 こうして蘭淫は、自らの意思で世界に反逆し―― 最愛の妹の命を繋ぐ代償として、泥深い闇の僕へと深く堕ちていった。

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