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第五十二話 偽りの統主と黒い影

 霊獣学府(れいじゅうがくふ)の中心にそびえ立つ天煌麒麟家(てんこうきりんけ)の屋敷は、黒南風(くろはえ)の屋敷よりも遥かに広大だ。  重厚な門から屋敷へ続く一本道には、甲冑を着た警備兵がずらりと並んでいる。  ざっと見渡すだけでも百人は下らないだろう。  忍び込むつもりは毛頭なかったが、正面から入ってまともに謁見を受けられるだろうか。 ——しかも、静まり返ったこんな夜更けに。   「さすがに、夜更けの突然の訪問では取り合ってもらえませんね」    一応門番に声をかけてはみたが、見事に追い返されてしまった。 春雷(しゅんらい)が困り果ててため息をついていると、隣で光芒(こうぼう)がこめかみにそっと細い指を当てていた。 何かを確認するように集中した後、春雷の肩を掴んで耳打ちする。   「少し待ってて。すぐに向こうから——」    その直後、屋敷の正門前で門番たちがにわかに騒ぎ始めた。  何かが起こったようで、見るからに慌てふためいている。   「——迎えが来るよ」    光芒がそう囁き終えると同時に、門の奥から現れたのは薄明光線(はくめいこうせん)だった。  金色の髪を夜風になびかせ、すっと迷いのない足取りで春雷のもとへと歩いてくる。   「薄明光線様……?」 「——この者たちに木蓮桜花(もくれんおうか)の護衛を頼みたい。通して差し支えないな?」 「は、はっ!」    門番たちは掌を返したように、春雷と光芒を恭しく屋敷の中へ招き入れた。 「俺は自分の屋敷へ帰る。何かあれば、そこの二人に頼んでくれ」    そう言い残し、薄明光線は屋敷を後にする。  春雷とすれ違う瞬間、春雷はお礼を言おうと振り返った。  だが——言葉が喉でつかえた。  薄明光線の横顔が、昼間に会ったときのものとは決定的に違っていた。  まるで精巧に作られた人形のように、表情も生気もない。  それに——いつも背負っているはずの、あの大剣がないのだ。  違和感に首を傾げながらも、春雷は促されるまま屋敷の奥へと歩みを進めた。  あっさりと木蓮桜花の居室前まで案内され、春雷は一度深く息を吸い込む。   「こちらが、木蓮桜花様がお休みになられているお部屋でございます」 「先ほど薄明光線様と強力な結界を張り直されたため、大変お疲れのご様子……すでに人払いも済んでおります」 「ゆえに、何かございましたら、恐れ入りますが控えの間までお申し付けください」    三人の案内人が交替で早口に説明を終え、その場を去っていく。二人きりになった春雷と光芒は視線を交わした。  息を合わせ、静かに二人同時に扉を開く。  中にいたのは、豪華な調度品に囲まれ、気怠そうに佇む木蓮桜花の姿をした——紫苑(しおん)だった。   「えっ!? な、なに!?」    声をかける間もなく入ってきたため、紫苑は素で声を上げ、慌てて髪を整えて身だしなみを直した。   「——不躾(ぶしつけ)で申し訳ありません。ですが突然伺ったほうが、飾らない本来のあなたにお会いできると思ったのです」 「え? な、なにを言っている? 朕(ちん)は……」    慌てて尊大な口調を作り直そうとする紫苑に、春雷はどこまでも優しい笑みを向けた。   「私は東嶺青龍家(とうれいせいりゅうけ)のハクビシン—春雷(しゅんらい)です。幼い頃は助けていただき、ありがとうございました」   紫苑は春雷の姿を凝視し、大きく目を見開いた。   「そして——あのときの約束を果たしに来ました」    春雷の虹色の瞳が、仄暗い部屋の中で神秘的な光を放つ。  紫苑はハッとし、震える両手を伸ばして春雷の頬を優しく包み込んだ。   「……ほんとうに?」    紫苑の瞳から、ぼろぼろと大きな涙が溢れ出す。  春雷はそっと指先を伸ばし、その温かい涙を掬い取った。   「蘭淫(らんいん)が事情を話してくれました。紫苑、今まで本当によく頑張りましたね」    春雷のその一言で、紫苑は「わあっ」と子どものように泣きじゃくった。  両手で何度も涙を拭いながら、しゃくりあげる。   「つらかった……っ! もう、あたしにおうかさまのフリなんて無理だったから……蘭(らん)兄さんも近くにいてくれないし、ずっとこのまま続くのかと思ったら、あたし、あたし……!」    溢れ出す感情のままに泣き叫ぶ紫苑の頭を、春雷は何度も優しく撫で続けた。  その痛々しい様子を見守りながら、光芒は天虹剣(てんこうけん)を静かに抜き、床の隙間に深々と刺す。  淡い光の膜が広がり、部屋全体を包み込んで音漏れを防ぐ陣(じん)が展開された。   「ありがとう」    春雷が唇の動きだけで感謝を伝えると、光芒は軽く首を振って微笑んだ。春雷には「気にすることはない」と言っているように見えた。  光芒の細やかな気遣いがありがたい。  春雷は心の中で、改めて感謝を捧げた。  しばらくしてようやく泣き止んだ紫苑は、「あの時は錫杖(しゃくじょう)で殴ってごめんなさい」と改めて謝罪をされ、春雷は「気にしてません」と笑った。 その後、春雷は蘭淫から聞いた話を静かに共有すると紫苑は鼻を鳴らしながら、何度も頷いた。   「蘭兄さんの話してくれた通りなんだけど……あたしの中でどうしても気になることが二つあるの」   紫苑は首を傾げ、記憶を辿るように語り始めた。   「実はね、あたしたちが一回目に穢獣(けじゅう)に襲われたときのことなんだけど、誰かが『あの二人を置き去りにしよう』ってコソコソ話していたのを聞いちゃったの」    蘭淫と紫苑が懸命に陣を描いていた、あの時だ。  蘭淫は作業に夢中で気づかなかったが、紫苑の耳には、指導にあたっていた導士(どうし)たちが自分たち二人を穢獣の群れの真ん中に置き去りにしようと企んでいた声が届いていたのだという。   「あとね、あたしが穢獣に穢染(けせん)されたときも『こいつは駄目だ。穢獣になってしまった』って言い放つ声を聞いたわ。あの時と同じ声だった……姿だって絶対に見ていたはずなのに——」   紫苑は一度言葉を切り、息を呑んだ。   「その導士の顔を思い出そうとすると、顔が全く思い出せないの。まるで、顔だけ黒くベタリと塗り潰されているみたいに……」   春雷はやはり、と静かに目を閉じた。 第三者の介入が証明されたのだ。   「おかしな話よね。でもね、後からよく考えてみたら、一度目の置き去りのときも、あたしの穢染の話も、誰も疑問を持たなかったの——まるで最初からそう決まっていたみたいに、みんなが納得して、前提が決まってるように話すの」    二人の放置も、浄化の不可能性も、誰も疑おうとしない異常な空気感。   「……誰に『おかしい』と言われたのですか?」 「……牡丹花王(ぼたんかおう)様よ」    紫苑は真剣に答えた。  蘭淫から聞かされていた認識とは、明確に食い違いがある。  紫苑によれば、牡丹花王は穢染を浄化『できなかった』のではない。  あえて、浄化を途中で『止めた』のだ。  元々、陰(いん)の気が強い紫苑は穢獣に憑かれやすい体質だった。  すでに穢獣の毒が魂と深く癒着(ゆちゃく)しつつあったため、無理に浄化を続ければ紫苑自身の魂まで破壊してしまう危険があったからだという。    継続的な浄化が必要だと判断した牡丹花王は、浄化を得意とする南陽朱雀家(なんようすざくけ)へ手紙を送り、紫苑の受け入れを打診した。  南陽朱雀家も、それを承諾してくれたらしい。  牡丹花王が去る日に、紫苑はその確約の手紙を直接手渡されたのだ。   「……木蓮桜花様が追放と言ったのは、あたしが南陽朱雀家に行くからよ。きっと、天煌麒麟家(てんこうきりんけ)から南陽朱雀家(なんようすざくけ)に行く理由が浄化のためだとわかると、糾弾(きゅうだん)されかねない。捉え方によっては、半霊獣(はんれいじゅう)を優遇したと勘違いされてしまうわ」    紫苑がそう語り終えた瞬間、部屋の隅に立てかけてあった重い錫杖(しゃくじょう)が勢いよく倒れた。  ガタンッ!と乾いた音が響く。  春雷がびくりと肩を震わせると、光芒はすかさず錫杖を拾い上げ、くるりと弄んだ。   「ふうん。すれ違いが悲劇を生んだわけか。それでお前は、なす術もなく封印を受け入れ、錫杖の中で大人しく眠りこくっているとは、いい身分だな?」    光芒は容赦なく錫杖を放り投げ、床に転がったそれを足で踏みつけた。  慌てる紫苑を、春雷はそっと手で制する。   「いい加減、統主としての勤めを果たしたらどうだ。いつまで狸寝入(たぬきねい)りを決め込んでいる?」    抵抗するように、錫杖はひとりでに転がり、光芒の足元から逃れた。  その滑稽な様子を見つめていると、光芒はしれっと春雷に告げる。   「話したくないそうだ。いつまでも甘ちゃんで困るよ」 「……封印は、すでにとれかかっているのでしょうか?」   ふふっと紫苑が可憐に笑うと、逃げてきた錫杖をそっと拾い上げた。   「元より、木蓮桜花様の封印なんて、彼にとったら大したことないの。木蓮桜花様も素直になれなくて気まずいのね。たまにお話をしてくれるわ——まあ、会話の八割は罵倒ですけど」 「そうでしたか。ふむ……これは非常に有益な情報ですね」   春雷は深く考え込み、静かに瞳を閉じる。 頭の中で、次なる策を組み上げていく。 ——なかなか順調にいきそうだ。  

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