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第五十五話 理の向こう側

 広間には重々しい空気が満ちていた。膳に並ぶ食事に箸を付けながら、春雷(しゅんらい)は紫苑(しおん)との会話から導き出した作戦を語り始める。   「策を考えたのですが、その前にひとつ確認させてください」    春雷は、静かに咀嚼を繰り返す蘭淫(らんいん)へ視線を向けた。  まず果たすべきは、木蓮桜花(もくれんおうか)の肉体にとらわれた紫苑の魂を引き離すことだ。   「魂魄(こんぱく)を肉体から引き剥がし、たとえば……あの鍋へと移すことは可能でしょうか?」 「……不可能なことではありません。ただ——」    蘭淫は言いにくそうに言葉を濁した。   「陣(じん)を描き直す必要があります。少々、時間を要するかと」 「構いません。時雨(しぐれ)、蘭淫の手伝いを頼めますか? 術の理(ことわり)については、私よりもあなたの方がずっと詳しい」 「分かった。……で、お前はどうする気だ?」    時雨が箸を置き、春雷をじっと見つめ返した。  春雷のやるべきことは、はじめから一つしかない。 紫苑の体を乗っ取っている穢獣(けじゅう)は、なぜか薄明光線(はくめいこうせん)に執着し、春雷に対して露骨な憎悪を向けている。 標的が自分であるなら、自ら出向くのが道理というものだ。   「私は、紫苑の体に潜む穢獣の相手を移します。……付き合っていただけますか、光芒(こうぼう)?」    春雷が振り返ると、光芒は目元を緩め、柔らかく微笑んだ。   「もちろんだよ。あなたとなら、どこまでだって一緒に行く」    その言葉を聞いた瞬間、時雨は心底嫌そうな顔をかみ殺した。   「……春雷、こいつを放っておいたら地の果てまでついて行きかねんぞ。不都合なら言え、今すぐ叩き出す」 「できない大口は叩かないことだね。僕の方が遥かにに強い」 「言わせておけば……表へ出ろ!」    時雨が勢いよく立ち上がると、光芒もまた、やれやれといった風情で腰を上げた。  春雷は一触即発の二人の間に割り込み、頭を抱える。   「お願いですから、せめて私の話を最後まで聞いてください……」    その押し問答を、蘭淫はどこか懐かしむような眼差しで見つめていた。  昔もこうだった。いつだって紫苑が間に入り、木蓮桜花と時雨が派手に衝突していたのだ。  当時は分かり合えずにいたが……あの頃、もし自分からほんの少しでも歩み寄っていれば、違った未来があったのだろうか。  誰もがみな、孤独を抱えて生きていたのだから。   「……春雷。あなたは、本当はどうするつもりなのですか?」 蘭淫の問いかけに、春雷はしっかりと視線を結び直した。   「……すべてを、あるべき姿へと戻します。今回の件、私には誰かが意図的に糸をひき、事態を操っているように思えてならないのです。そして真の目的は、きっと別のところにある」    春雷はちらりと、いまだ互いを睨み合っている時雨と光芒へ目を遣った。   「つまり、あなた方は利用されたに過ぎない。そのような理不尽、見過ごせません」 「……なぜ我らを巻き込む必要があったのです?」    蘭淫の低く掠れた声に、春雷は迷いなく答えた。   「あなた方三人が、牡丹花王(ぼたんかおう)様にとってかけがえのない、大切な人たちだからです」    その言葉は、蘭淫の心に響いた。  蘭淫にとって牡丹花王は命の恩人であり、育ての親だった。  けれど、かつて牡丹花王が木蓮桜花を連れてきたあの日胸の中で何かが弾け飛び、「自分はこの者には勝てないのだ」と思い知らされた。  だが、違ったのだ。  はじめから争う必要などなかった。  くだらない意地に固執するあまり、自分も傷つき、木蓮桜花をも深く傷つけてしまった。  本当はとっくに気づいていたはずだ。  木蓮桜花もまた、寂しさを抱え、誰かに存在を認められたかったのだと。   「春雷……我は、木蓮桜花様に謝罪したい。我はいかに振る舞うべきか、どうかもう一度導いてくれ」    蘭淫は着物の裾を整えると、畳に額を擦りつけんばかりに膝をついた。  春雷は「な、なにを!」と慌てふためき、急いでその肩を抱え上げた。   「ええと、はい! では紫苑の魂魄を無事に鍋へ移せましたら、錫杖(しゃくじょう)に封じられている木蓮桜花様の封印を解いていただけますか? 彼にはこの場に強力な結界を張っていただきたいのです」 「お安い御用です。……ですが、木蓮桜花様が素直に結界を張ってくださるでしょうか?」 「張るわけないだろ」 「あいつ、素直じゃないからね」    間髪入れず、時雨がまくし立てたと光芒の声に、春雷は「こういう時だけ息が合うんですから……」と唇を尖らせてみせた。   「そこはご安心を!」   春雷はふんと胸を張り、自信満々の笑みを浮かべる。   「私より遥かに弁が立ち、口八丁(くちはっちょう)で押しも強い『最適任者』がいらっしゃいますから」   「まさか、あの人を……」   時雨が思わず口元を押さえる。   「私に関わった以上、ただの傍観者でいられると思ったら大間違いです!」   光芒が「なるほどね」と面白そうに目を細める一方で、蘭淫だけが状況を呑み込めず戸惑いの色を隠せない。   「私、こう見えても相当な負けず嫌いなんですよ」    悪戯っぽく、春雷は笑った。   ◇   「——ハハハ! それで俺のところに話が回ってきたというわけか! これは見事に一本取られたな!」    豪快な笑い声を響かせ、磁器の茶碗を傾けたのは——西霞白虎家統主(せいかびゃっこけとうしゅ)、昴宿流星(すばるぼしりゅうせい)であった。    急ぎ交渉にと春雷が屋敷へ足を踏み入れると、拍子抜けするほどあっさりと奥に通された。  出迎えた警護の霊獣(れいじゅう)に「お待ちしておりました」と静かに頭を下げられた段階で、この男の手の平の上だったのだろう。    ——どこまでも喰えないお人である。    白磁の茶碗からゆらゆらと立ち上る白煙の向こうで、昴は畳んだ鉄扇(てっせん)の先を春雷へと向け、不敵に笑ってみせた。   「さて、一体どのような作戦なのか話を聞こうじゃないか」    春雷は向けられた鉄扇を、手のひらでそっと押し返す。   「どうせ、ご存知なのでしょう」 「いいや、知らない。だが予想はつくよ」    温かいお茶の湯気の隙間から、白虎(びゃっこ)の瞳が春雷を鋭く射抜いた。  まるで獲物を丸呑みにしようと狙いを定める、捕食者の目だ。  一瞬でも隙を見せれば、そのまま呑み込まれてしまう。   「木蓮桜花の説得は引き受けよう。さほど難しいことではないし……俺はこう見えて、五神貴族を大切にしているんだ」    言いながら昴(すばる)はお茶に口をつけ、ふうと息を吹きかけた。   「——ただし」    湯気の途切れた瞬間、その目が冷たく光る。   「見返りは欲しい。まさか、無償で動くと思っていたわけじゃないよね?」    今度は、春雷が口元を緩める番だった。   「白耀宴(はくようえん)の惨劇」    言葉を発した瞬間、お茶を啜ろうとしていた昴の肩がびくりと揺れた。   「あなたが一番知りたい真実……ではないでしょうか」 「へえ」    昴はお茶を卓へ静かに置くと、温度の消えた目で春雷を見つめた。  春雷は以前、この屋敷でお茶を振る舞われた時のことを思い出す。  木蓮桜花の名を出した時は煙に巻くような態度だった男が、亡き兄について語る時だけは、隠しきれない感情を言葉に載せていた。    霊獣は嘘をつけない。 ——それは、滲み出る感情も同じだ。   「いいね。では、そうしよう」    パッと鉄扇を開き、顔を半分隠しながら昴は了承した。あまりにあっさりと引き下がったため、春雷は肩透かしを喰らう。   「え……あの、よろしいのですか?」 「こう見えて、俺は君を買っているんだよ。それに——」    昴は伏し目になり、卓の上のお茶に映る自分の影を見つめながら呟いた。   「いい加減、俺も片をつけたい」    立ち上るお茶の香気の中に落ちたその声には、策士としての面影はなく、ただ一人の男としての本音が宿っていた。春雷は静かに笑い返す。   「交渉成立です。ありがとうございます」    立ち上がり、静まり返った屋敷を後にしようとしたその時、背後から声が届いた。   「春雷」    振り返ると、彼は冷めかけたお茶の湯気越しに、どこか切なさの混じる表情を浮かべていた。   「俺たち五神貴族は、いつだって立場に縛られている。仲間を助けることすら、自由に動けないことばかりだ。……故に俺たちは、君のような異分子をずっと待っていたのかもしれない」 「……過大評価では?」    春雷が苦笑交じりに答えると、昴はふっと目元を緩めた。   「そうでもないさ。いつかわかる」    澄み渡る白虎の瞳が、まっすぐに春雷を捉える。   「君は——この理(ことわり)の向こう側から来た霊獣だからね」  昴の周りに爽やかな風が吹くのを春雷は感じた。    

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