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第五十八話 天命を操る黒い影

 一瞬、誰も息すら吸えなかった。  紫苑(しおん)が震える手で自分の肩をかばうように抱きしめる。 「……あたしの中に、奴がいる?」 「おそらく」  「……根拠は?」   昴(すばる)の問いに、春雷(しゅんらい)は静かに微笑んだ。 「まず、紫苑(しおん)が穢染(けせん)されても意識を失わなかったことです。黒南風(くろはえ)様の領地で見た穢染とは明らかに違っていました。理性を失わず、普段と違う様子を見せたのも、たった二度」 春雷はすっと指を立てる。 「そしてもう一つ。穢(けが)れが侵入したのは、明らかに『棘が刺さった後』です」 蘭淫(らんいん)の眉間に深い皺が刻まれる。 「通常、穢れは戦いで負った傷口などから侵入する。だが、今回は違う」 「そうです。誰かが、紫苑さんの肩へ意図的に棘を突き刺した」 時雨(しぐれ)が喉の奥で低く唸った。 「第三者が穢れを仕込んだ……?」 「認識を阻害し、誘導まで行えば十分に可能です」 春雷は言葉を切り、静かに光芒(こうぼう)へ視線を向けた。 その視線に導かれるように、全員が光芒を見つめる。 「——何より。天虹剣(てんこうけん)を扱う光芒が、咄嗟とはいえ急所を外すでしょうか?」 光芒は何も語らない。 ただ、静かに漆黒の瞳を伏せた。 「……あり得ないな」 昴が呟く。 「だからこそ、あれは偶然刺さった棘ではない。紫苑を操るために仕込まれた『穢獣(けじゅう)の種子(しゅし)』なのです」 「……目的は何だ?」 蘭淫の声が低く沈み込む。 春雷は、真っ直ぐその目を見返した。 「紫苑を操り、蘭淫と木蓮桜花(もくれんおうか)様の仲を裂く。そして、天煌麒麟(てんこうきりんけ)一族を弱体化させるためです」 蘭淫の拳が、爪が肉に食い込むほど強く握りしめられた。 春雷の脳裏に、あの日の光芒との会話が蘇る。 『僕が天帝の立場なら、罪悪感を持たせる』   『霊獣は恩返しをする性質を持っている。逆を言えば、傷つけることに億劫になるんだ』   『……意図せず相手を傷つけてしまい、謝罪できる機会を失えば……』 『絶望する』 『本人は罪悪感を抱えたままになる。少なくとも、天柱制度そのものに反感を持つことはないだろう』   あの残酷な言葉。 あれこそが、張り巡らされた悪意の答えだった。 「……そして」 春雷の言葉が重く落ちる。 「三人を、牡丹花王(ぼたんかおう)様から遠ざけるためです」 その瞬間。 紫苑の手から、カラン……と虚しい音を立てて錫杖(しゃくじょう)が滑り落ちた。 地面に転がった錫杖は、中に封じられた木蓮桜花が狂おしく取り乱しているかのように、激しく暴れて回転し続ける。 「木蓮桜花様……」 春雷はひざまずき、回転する錫杖をそっと両手で包み込んだ。 「大丈夫です」 怯える幼子をあやすように、優しく撫でる。 「敵は、恐ろしいほど人の心を理解しています」 春雷は蘭淫を見上げた。 「蘭淫にとって、紫苑は何よりも代えがたい存在」 そして、手の中の錫杖へ視線を落とす。 「木蓮桜花様は、一族の未来を託された身です」 「……」 「もし紫苑が亡くなれば、蘭淫は牡丹花王様を深く恨むかもしれない。もし天煌麒麟一族が滅びれば、その絶望と責任は木蓮桜花様ご自身へ永久に重くのしかかる」 春雷は静かに、深く息を吐き出した。 「どちらを選んでも、心は引き裂かれ、取り返しのつかない傷が残る」 「——すべて、利用されていたということか」 昴の吐息が夜風に消える。 春雷は静かに頷いた。 「ええ。敵は、私たちが命に代えても守りたいものを知っていたんです」 冷たい夜風が通り抜け、長い沈黙が全員を包み込む。 「——どうしたらいい?」 蘭淫が、押し殺した絞り出すような声で呟いた。 一度は迷いに揺れたその瞳に、やがて猛々しい決意の火が灯る。 「我(われ)は……決着をつけたい」 蘭淫は春雷を真っ直ぐに見据えた。 「たとえどんな結果になろうとも、我は春雷を信じよう」 「あたしもよ!」 紫苑が春雷の手を押し潰さんばかりに強く握る。 「蘭兄さんとあたしを利用しようなんて、烏滸(おこ)がましいわ!」 春雷は撫でていた錫杖を、そっと蘭淫の手へと託した。 「では、行きましょう」 「うむ」 「ええ!」 春雷は全員を見回し、背筋を伸ばす。 「私と光芒で、穢獣の群れへ飛び込みます」 蘭淫へ強い視線を向ける。 「その間に二人の魂魄(こんぱく)を剥がし、木蓮桜花様の封印を解いてください」 「承知した」 「そして私は、紫苑の肩にある種子を取り除きます」 「分かったわ。ただ……あたしも魂のままだと不安定になる」 「ええ。ですから、しばらくは鍋の中で待機してください」 「……分かったわ」 紫苑は目を伏せ、小さく吐息をついた。 「……どうか、急いで」 「もちろんです。すぐに身体を取り戻してきますから」 春雷の柔らかな微笑みに、紫苑は肩の力を抜き、ほっと胸を撫で下ろした。 「時雨は、お二人の補助を。必要であれば浄化をお願いします」 春雷は時雨の首元にある鎖へ目を向けた。 「……どうか無理はしないで」 「分かっている」 時雨は傘の柄を握る手にぐっと力を込める。 「昴様は、木蓮桜花様を説得してください。そして天煌麒麟家に結界を」 「それだけで穢獣は弱体化する、ということだね?」 「はい。必要に応じて霊力もお貸しください」 「はいはい。任せておきなよ」 昴は鉄扇を軽やかに開いて胸元を煽り、頼もしい笑みを浮かべた。 最後に春雷が光芒を振り返ると、光芒は包み込むような眼差しでそっと大きな手を差し出した。 春雷はその手を力強く握り返す。 「私は弱い……あなたの力が必要です」 光芒は握られた手に、熱を込めて強く握り返した。 「俺が守る。そのために、ここにいるんだ」 春雷はその言葉に胸を熱くし、瞳を細めた。 「……はい」 二人はしっかりと手を繋いだまま、闇の広がる天空庭園を見据えた。 光芒は天虹剣の柄を固く握り直す。 その瞳には、すでに一切の迷いも躊躇いもない。 「では——作戦開始だ」

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