59 / 65
第五十八話 天命を操る黒い影
一瞬、誰も息すら吸えなかった。
紫苑 が震える手で自分の肩をかばうように抱きしめる。
「……あたしの中に、奴がいる?」
「おそらく」
「……根拠は?」
昴 の問いに、春雷 は静かに微笑んだ。
「まず、紫苑 が穢染 されても意識を失わなかったことです。黒南風 様の領地で見た穢染とは明らかに違っていました。理性を失わず、普段と違う様子を見せたのも、たった二度」
春雷はすっと指を立てる。
「そしてもう一つ。穢 れが侵入したのは、明らかに『棘が刺さった後』です」
蘭淫 の眉間に深い皺が刻まれる。
「通常、穢れは戦いで負った傷口などから侵入する。だが、今回は違う」
「そうです。誰かが、紫苑さんの肩へ意図的に棘を突き刺した」
時雨 が喉の奥で低く唸った。
「第三者が穢れを仕込んだ……?」
「認識を阻害し、誘導まで行えば十分に可能です」
春雷は言葉を切り、静かに光芒 へ視線を向けた。
その視線に導かれるように、全員が光芒を見つめる。
「——何より。天虹剣 を扱う光芒が、咄嗟とはいえ急所を外すでしょうか?」
光芒は何も語らない。
ただ、静かに漆黒の瞳を伏せた。
「……あり得ないな」
昴が呟く。
「だからこそ、あれは偶然刺さった棘ではない。紫苑を操るために仕込まれた『穢獣 の種子 』なのです」
「……目的は何だ?」
蘭淫の声が低く沈み込む。
春雷は、真っ直ぐその目を見返した。
「紫苑を操り、蘭淫と木蓮桜花 様の仲を裂く。そして、天煌麒麟 一族を弱体化させるためです」
蘭淫の拳が、爪が肉に食い込むほど強く握りしめられた。
春雷の脳裏に、あの日の光芒との会話が蘇る。
『僕が天帝の立場なら、罪悪感を持たせる』
『霊獣は恩返しをする性質を持っている。逆を言えば、傷つけることに億劫になるんだ』
『……意図せず相手を傷つけてしまい、謝罪できる機会を失えば……』
『絶望する』
『本人は罪悪感を抱えたままになる。少なくとも、天柱制度そのものに反感を持つことはないだろう』
あの残酷な言葉。
あれこそが、張り巡らされた悪意の答えだった。
「……そして」
春雷の言葉が重く落ちる。
「三人を、牡丹花王 様から遠ざけるためです」
その瞬間。
紫苑の手から、カラン……と虚しい音を立てて錫杖 が滑り落ちた。
地面に転がった錫杖は、中に封じられた木蓮桜花が狂おしく取り乱しているかのように、激しく暴れて回転し続ける。
「木蓮桜花様……」
春雷はひざまずき、回転する錫杖をそっと両手で包み込んだ。
「大丈夫です」
怯える幼子をあやすように、優しく撫でる。
「敵は、恐ろしいほど人の心を理解しています」
春雷は蘭淫を見上げた。
「蘭淫にとって、紫苑は何よりも代えがたい存在」
そして、手の中の錫杖へ視線を落とす。
「木蓮桜花様は、一族の未来を託された身です」
「……」
「もし紫苑が亡くなれば、蘭淫は牡丹花王様を深く恨むかもしれない。もし天煌麒麟一族が滅びれば、その絶望と責任は木蓮桜花様ご自身へ永久に重くのしかかる」
春雷は静かに、深く息を吐き出した。
「どちらを選んでも、心は引き裂かれ、取り返しのつかない傷が残る」
「——すべて、利用されていたということか」
昴の吐息が夜風に消える。
春雷は静かに頷いた。
「ええ。敵は、私たちが命に代えても守りたいものを知っていたんです」
冷たい夜風が通り抜け、長い沈黙が全員を包み込む。
「——どうしたらいい?」
蘭淫が、押し殺した絞り出すような声で呟いた。
一度は迷いに揺れたその瞳に、やがて猛々しい決意の火が灯る。
「我 は……決着をつけたい」
蘭淫は春雷を真っ直ぐに見据えた。
「たとえどんな結果になろうとも、我は春雷を信じよう」
「あたしもよ!」
紫苑が春雷の手を押し潰さんばかりに強く握る。
「蘭兄さんとあたしを利用しようなんて、烏滸 がましいわ!」
春雷は撫でていた錫杖を、そっと蘭淫の手へと託した。
「では、行きましょう」
「うむ」
「ええ!」
春雷は全員を見回し、背筋を伸ばす。
「私と光芒で、穢獣の群れへ飛び込みます」
蘭淫へ強い視線を向ける。
「その間に二人の魂魄 を剥がし、木蓮桜花様の封印を解いてください」
「承知した」
「そして私は、紫苑の肩にある種子を取り除きます」
「分かったわ。ただ……あたしも魂のままだと不安定になる」
「ええ。ですから、しばらくは鍋の中で待機してください」
「……分かったわ」
紫苑は目を伏せ、小さく吐息をついた。
「……どうか、急いで」
「もちろんです。すぐに身体を取り戻してきますから」
春雷の柔らかな微笑みに、紫苑は肩の力を抜き、ほっと胸を撫で下ろした。
「時雨は、お二人の補助を。必要であれば浄化をお願いします」
春雷は時雨の首元にある鎖へ目を向けた。
「……どうか無理はしないで」
「分かっている」
時雨は傘の柄を握る手にぐっと力を込める。
「昴様は、木蓮桜花様を説得してください。そして天煌麒麟家に結界を」
「それだけで穢獣は弱体化する、ということだね?」
「はい。必要に応じて霊力もお貸しください」
「はいはい。任せておきなよ」
昴は鉄扇を軽やかに開いて胸元を煽り、頼もしい笑みを浮かべた。
最後に春雷が光芒を振り返ると、光芒は包み込むような眼差しでそっと大きな手を差し出した。
春雷はその手を力強く握り返す。
「私は弱い……あなたの力が必要です」
光芒は握られた手に、熱を込めて強く握り返した。
「俺が守る。そのために、ここにいるんだ」
春雷はその言葉に胸を熱くし、瞳を細めた。
「……はい」
二人はしっかりと手を繋いだまま、闇の広がる天空庭園を見据えた。
光芒は天虹剣の柄を固く握り直す。
その瞳には、すでに一切の迷いも躊躇いもない。
「では——作戦開始だ」
ともだちにシェアしよう!

