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第六十話 血に刻む兄妹の絆

 春雷(しゅんらい)の鋭い声と同時に、百花開陣(ひゃっかかいじん)の中心で禍々しい変化が起きた。  閉じ込められた数百の穢獣(けじゅう)が、逃げ場を失い、狂乱のまま共食いを始めたのだ。  一体が別の穢獣に喰らいつく。その肉体を引き裂こうとする別の個体へ、さらに別の穢獣が襲いかかる。  喰らうものと喰らわれるものの境界は、瞬く間に失われていった。  怨念の叫びが幾重にも重なり、泥状の穢(けが)れが渦を巻く。 無数の穢獣が互いの肉体に食い込み、溶け合い、ひとつの巨大な塊(かたまり)へと変貌していった。  喰らい合うたびに膨れ上がる異形。  その表面には無数の口が浮かび上がり、獲物を求めるように蠢(うごめ)いている。  やがて、百花開陣の中心を覆い尽くすほどの巨大な影が生まれた。  蠱毒(こどく)の完成体。  その異形の中心には、右肩に禍々しい種子を埋め込まれている紫苑(しおん)の姿が見える。 「——予定通りです!」  春雷は手を振り翳し、手のひらに紫電(しでん)を走らせると、迷いなくその雷を中心へと打ち込んだ。 「紫電招来(しでんしょうらい)!」  激しい雷撃が蠱毒を打ち、中心部に僅かな亀裂が走る。  光芒(こうぼう)は春雷と視線を交わすと、静かに、けれど強く頷いた。 「行きましょう」  二人は蠱毒の中心に開いた亀裂へと足を進めた。  その瞬間、目の前の景色が一変する。  外側からは巨大な化け物にしか見えなかった蠱毒。  その内部には、果てしなく広がる異空間が広がっていた。 空も大地も、泥状の穢れに覆われている。  足元では黒ずんだ泥が絶え間なく泡立ち、あちこちから怨念の声が響いていた。  視界の果てまで続く闇の中、無数の穢獣が互いに喰らいつき、引き裂き、呑み込んでいく。  喰われた穢獣の身体は泥の中へと沈み、やがて別の異形の一部となって這い出してくる。 終わりのない共食い。 喰らうものも、喰らわれるものも、すべてが穢れに呑まれていく。 そこは、生と死の境界さえ失われた地獄だった。 春雷は息を呑んだ。  この異空間の中心にいるのが、紫苑(しおん)の身体を奪った穢獣だ。 けれど、そこへ辿り着くには、果ての見えない穢れの中を進まなければならない。 一瞬でも穢れに呑まれれば、正気を失う。  穢染(けせん)に耐え、意識を保てるほど ——春雷の霊力は強くない。 (大丈夫。大丈夫……) 春雷は震える指を握り込み、己を奮い立たせた。 心を落ち着かせるように何度も深呼吸を繰り返す。 その隣に立つ光芒が、静かに声をかけた。 「怖い?」 春雷は黙って頷いた。弱音を吐く自分が恥ずかしくなり、俯いてしまう。 「あの時も泣いていた——あなたは勇敢なのに、怖がりだ」 光芒は春雷の手を強く握りしめた。 「今度は僕もいる」 光芒は春雷を安心させるように、ふわりと温かく笑った。 「誓うよ。不安になることなんてない」 春雷は光芒を黙って見つめた。その眼差しに触れると、不思議と胸の内の不安が消えていく。 「誰にもあなたを傷つけさせない」  光芒が天虹剣を蠱毒へ向けて振り翳すと、内部の穢獣たちが悲鳴をあげ、瞬く間に美しい純白の雪へと姿を変えていく。 春雷は光芒の手を強く握り返すと、足にぐっと力を込めた。 「光芒、ありがとう」 「行こう、春雷」  二人は強く地面を蹴った。  次の瞬間、蠱毒の中心に開いた亀裂へと身を躍らせる。  足元の感覚がふっと消えた。  底の見えない闇へ、身体が吸い込まれるように落ちていく。紫の雷光が尾を引き、純白の雪片が二人を包み込むように舞い散った。  果てのない異空間へと、二人は落ちていく。 その勇姿を、離れた場所から蘭淫(らんいん)と紫苑が見つめていた。 ◇  春雷たちが敵の注意を惹きつけて踏み込むと同時に、蘭淫は紫苑の元へ疾走した。    その魂魄(こんぱく)を引き離す極秘の術へと躍り出る。  時雨が春雷から託されていた鍋を差し出すと、蘭淫は迷わず己の指を噛み切り、溢れ出る血で鍋の側面に禍々しくも清廉な術式を刻みつけた。 「時雨(しぐれ)様……申し分ないが、紫苑の周りを浄化してほしい!」 「……承知した」 時雨が傘を翻して開くと、天から清冽な浄化の雨が降り注ぎ、蠱毒から噴き出す黒ずんだ邪気が音を立てて浄化していく。 「紫苑、また痛いかもしれない。……耐えられるか?」 「大丈夫……っ。蘭(らん)兄さん、今までの方が……ずっと辛かったわ」 紫苑の頭を撫でる蘭淫の手に、紫苑は必死に笑みを返した。 「それに比べたら、こんなの……なんてことないんだから!」 蘭淫は唇を激しく噛み締め、そっと己の指の皮を引きちぎった。溢れ出る血で容赦なく術式を描き進める。 ——直後、空気を引き裂いて天から漆黒の楔(くさび)が飛来した。  ドスッ、と惨烈な音が響き、蘭淫の手足を貫いて床深くへ縫い留める。 「蘭兄さん!?」 「……ッ!」  悲鳴を上げる紫苑を余所に、蘭淫は意識を飛ばしそうになりながら血文字を書き連ねていく。 楔は容赦なく形を変え、鋭利な太釘となって蘭淫の踵を深く深く突き刺した。 「ぐ、ぁぁっ……!」 絶叫を噛み殺し、蘭淫は震える手を紫苑の胸元へとあてる。 かつて心臓を掴みだした時とは違う。傷つけぬよう、包み込むように優しく。 次いで頭部へ手を添えると、強引に固着した彼女の魂魄の端を掴み、じわじわと引き抜き始めた。 全身を這う紫黒の呪紋(じゅもん)が暴発し、皮膚が裂けて血飛沫が舞う。 間髪入れず、新たな楔が蘭淫の掌を穿ち、床へと縫い留めた。 「——つ、がハッ……!」 「蘭淫!」 異様な惨状に昴と時雨が息を呑み、思わず踏み出そうとした。だが、蘭淫が血の泡を吹きながら叫ぶ。 「来るな……! 術が、まだ終わっていない……っ!」 激痛に狂いそうになる脳味噌を無理やり叩き起こし、一寸の狂いもなく紫苑の魂魄を引き抜いていく。 蘭淫は天を仰ぎ、喉を叩き割るような声で叫んだ。 「たとえこの身が八つ裂きに引きちぎられようとも……ッ! 全身の血が枯れ果て、魂ごと肉が潰れようとも!!」 紫苑の青ざめた唇が、かすかに「蘭兄さん」と動く。 「春雷が……春雷が示してくれた光の道を、俺も歩みたいんだ……ッ! もう、あの泥のような暗闇はいやだ……ッ!」 蘭淫の濁っていた瞳から、溢れんばかりの温かい涙が血汚れを洗うようにこぼれ落ちる。 「一緒に帰ろう……紫苑!」 死力の一引き。魂魄を一気に引き抜き、春雷の鍋の中へと滑り込ませた。 器と化していた木蓮桜花の肉体がドッと血を吐き出し、泡を吹いて激しく痙攣を始める。 「ぐ……あ……っ!」 満身創痍(まんしんそうい)の蘭淫は、最後の力を振り絞って足元に転がっていた錫杖を昴へ向けて投げつけた。 声も出ず倒れ込む蘭淫に代わり、時雨の鋭い一喝が響く。 「今だ! 破壊しろ!」 「はいはい、任せておきなよ!」 鉄扇を仰いで風を起こし、その流れを操る。 昴は爽やかな笑みを崩さぬまま、錫杖を高く宙へと舞い上がらせた。 次の瞬間、一閃。鉄扇から放たれた風が錫杖を打ち据え、澄んだ音が空気を震わせた。 甲高い破砕音が響き、宝珠(ほうじゅ)が粉々に砕け散る。 宝珠が弾けた瞬間——禍々しかった錫杖はまばゆい光を放ち、かつて牡丹花王(ほだんかおう)が携えていた元の神聖な姿へと変貌を遂げた。 「――――蘭淫!!!!」 紫苑の魂が抜け出た少年の肉体が、鬼のような形相で弾かれたように起き上がった。 吊り上がった血走る目が、血の海に倒れ伏す蘭淫を捉える。 歪んだ殺意を剥き出しにし、蘭淫を叩き潰そうと突進する木蓮桜花(もくれんおうか)。だ が、その前に立ちはだかったのは昴だった。 「そこまで、だよ」 鉄扇を優雅に開いた昴が、薄く笑いながらその動きを制する。 「一発殴らなきゃ、気が済まないんだよ!」 「そうだね。でも、今やることかい?」 「知ったことか! 朕(ちん)の邪魔をするな!」 昴はやれやれと軽薄に首を振ると、一文字に鉄扇を仰いだ。 瞬間、音もなく荒れ狂う暴風の竜巻が発生し、幼き暴君をその檻の中へと閉じ込め拘束する。 「まったく。お前ときたら、人の話を聞かない」 時雨は目を見開いた。 西霞白虎家(せいかびゃっこけ)は身体強化の武術に長け、術には疎いという通説を覆す業。 何より、術名すら詠唱せずにこれほどの規模の術を発動させるなど——正真正銘のバケモノだ。 「水龍の君、申し訳ないが浄化と蘭淫の保護を頼むよ。俺は……俺に託されたことをしよう」 「……かたじけない」 時雨はすぐさま蘭淫の元へ滑り込み、溢れ出る血を止めるべく術を施し始める。 昴は静かにため息をついた。 「どうやら、時間がかかりそうだ」 鉄扇をコンと地面に叩きつけると、竜巻は霧散した。そこには屈辱と怒りで顔を真っ赤に染めた木蓮桜花が立っている。 昴は、ただ絶望的なまでに冷たい眼光で、その小柄な身体を見下ろした。

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