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第六十三話 黒き闇に呑まれて

 粘つく濁気と穢れが渦巻く、蠱毒(こどく)の底。 絶望的な圧迫感の中に、かすかな清気が差し込み始めていた。  春雷(しゅんらい)はその劇的な空気の変質を肌で感じ取り、すぐ隣に佇む男を仰ぎ見る。   「光芒(こうぼう)……じゃない、薄明光線(はくめいこうせん)様!」   緊張を解くように、薄明光線がふっと優しく笑った。 春雷は少し照れくさそうに吐息をこぼし、名前を呼び直す。   「光芒、結界が……!」 「うん。昴(すばる)が成功した。まだ荒いが、偽物の結界よりは十分だ」   視界を遮っていた穢獣(けじゅう)の肉壁が、めきめきと音を立てて削ぎ落とされていく。  頭上高くで木蓮桜花(もくれんおうか)が張り直した本物の結界が、無数の穢れを浄化の光で焼き払っているのだ。   「このまま、地上に出られるよ」   光芒が希望を口にしたその瞬間 ——目の前で蠢く穢獣の亀裂から、狂ったような高笑いが響き渡った。   「やだやだ。勝利を確信か? はやすぎるんじゃあない? まだこの体は支配したまま。死んでも渡さない」 「そうですか。ではあなたの本体を破壊するしかありません」   春雷が間髪容れずに言い放つと、穢獣を包む空気が一変した。   「——待て。なぜ分かった」    先ほどまでの紫苑(しおん)の甲高い声は失われ、空気を震わせる不気味な男の声へと切り替わる。 春雷がびくりと肩を震わせて息を呑むと、その視線を遮るように、光芒が静かに一歩前へ出た。   「分からないわけがない。第三者の誘導的な声に惑わされ操られる導士(どうし)、肩に刺さった棘(とげ)など、正直詰めが甘すぎる。分からない方が愚かだ」   光芒の冷ややかな吐露に、穢獣は「はっ」と短く笑った。下卑た嘲笑ではない。高貴な高みから見下ろすような、冷酷で不気味な笑み。   「なんだ、薄明光線の入れ知恵か」 「……そうだ。彼は俺に付いてきただけに過ぎない」   光芒はすっと腕を伸ばし、春雷を背中へ隠すように庇い立てる。   「——それにしては、随分と構うじゃないか」   次の瞬間、周囲の空気が極限まで重く沈み込んだ。凄まじい密度の霊気が束となり、一直線に春雷の胸元へと放たれる。   「今回は天煌麒麟家(てんこうきりんけ)を破滅に導くつもりだったんだ。牡丹花王(ぼたんかおう)はなかなか口を割らなくて苦労しているんだよ。『天命(てんめい)の書』の人物を教えろと言っているのに」 「——見つけたら、どうするつもりだ」   光芒は天虹剣(てんこうけん)の刃を閃かせ、襲いかかる霊気を真っ向から跳ね返した。   「一人は薄明光線、そしてもう一人を見つけたら——」   疾風が過ぎる。 いつの間にか穢獣は春雷の至近距離へと滑り込み、その顔を覗き込んでいた。   「殺すに決まっている」   春雷は息を殺した。 悲鳴すら喉に引きつって出ない。 ——顔がない。 穢獣の顔面は、光を全て飲み込む底なしの真っ黒な闇で塗り潰されていた。   「——させない」   光芒の鋭い制止と同時に、穢獣の歪な口角が吊り上がる。   「やってみろ、若造」   壁を成していた穢獣群が一斉に蠢き、漆黒の津波となって二人に殺到した。   「——っ!」   無数の漆黒の手が、春雷の全身を包み込む。 手、足、顔、口——視界の全てが穢れに飲み込まれていく。 光芒は咄嗟に手を伸ばしたが、春雷の身体は瞬く間に蠢く波の奥底へと引きずり込まれていった。   「春雷——!!」   絶叫が響き渡る。 差し出された手は、虚しく黒濁の空を掻くだけだった。    ◇    木蓮桜花(もくれんおうか)によって結界が再展開される中、鍋の中にいる紫苑(しおん)が蠱毒内部の異変にいち早く気づき、声を上げた。   「蘭(らん)兄さん、春雷の気配が消えたわ」    魂の姿でありながら会話が成立しているのは、蘭淫(らんいん)が鍋の側面に刻みつけた術式のおかげだった。 時雨(しぐれ)による処置が終わり、息絶え絶えになりながらも蘭淫が呟く。   「——結界が張られたというのに、蠱毒がまた活発に動いている」 「まさか!」   時雨はすぐさま鍋の淵へ駆け寄った。 結界の展開前を遥かに凌ぐ禍々しさで、泥が蠢いている。   ——失敗したというのか!   時雨は膝をつき、必死に蠱毒の中を覗き込んだ。 春雷の姿はどこにもない。 しかし、のた打つ穢獣の群れの奥深くに、微かに揺らめく紫の光が見えた。 時雨は強く舌打ちをする。   「世話の焼ける!!」   手にしていた傘を、勢いよく天へ向けて突き開いた。   「水龍の君、何をするつもりだ?」 「決まっている——援護だ」 時雨の喝声とともに、天を突き破る猛烈な激流が、蠱毒の底へと叩きつけるように降り注いだ。 その雨に応えるかのように、刹那、紫の雷鳴が天を割る。 ——ドギャァァン! 激しい雷鳴とともに無数の紫電が走り、蠱毒の渦へと落ちていく。   「なんだ、なんだ!?」 「——五神の儀(ごしんのぎ)で見た雷、春雷だったのね」 「霊力は半分以下のはずなのに、どうして……」   あまりの光景に周りが騒然となる中、苛烈な紫の雷光があたり一面を眩しく包み込んだ。   「——っ、これは!!」   一陣の紫電(しでん)が群がる穢獣を焼き尽くし、一瞬で消し炭へと変えていく。 それは単なる雷ではない。 特別な意思を宿した光。 昴と木蓮桜花は視線を合わせると、静かに頷き合った。

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