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第3話 仕事ではない
公演当日、真壁修司は開演より少し早く会場へ入った。
関係者席は、客席の中央より少し後ろにある。
仕事でホールへ来る時とは違う。
出入口を確認する必要も、人の流れを見る必要もない。それでも座席へ向かう途中、非常口の位置だけは目に入った。
習慣だった。
席へ着き、ジャケットの裾を整える。
周囲には業界関係者らしい人も多い。挨拶を交わす声がいくつか聞こえたが、真壁は誰とも話さず開演を待った。
照明が落ちる。
ステージ中央に、澄川律が立った。
白いシャツに黒いジャケット。
壁面モニターで見た姿とほとんど変わらない。
音が入る。
真壁は背もたれへ預けていた身体を少し起こした。
澄川は大きく動かない。
客席へ手を伸ばさず、煽ることもしない。声を張り上げるわけでもない。
それでも、一曲が終わる頃には会場の空気が変わっていた。
誰かを近くへ引き寄せる歌い方ではない。
距離を残したまま、届いている。
真壁はステージを見る。
受付で会う澄川は近い。
凪の所在を聞き、焼き菓子の出来を気にして、思ったことをそのまま口にする。
今は違う。
誰にも寄らない。
それでも、目が離れなかった。
曲の間に短いMCが入る。
「今日は、来てくれてありがとうございます」
それだけだった。
すぐに次の音が始まる。
余計な説明をしないところは、普段と同じだった。
違うのは距離だけだ。
真壁は途中から、二つを比べるのをやめた。
澄川律として立っている。
それだけで成立していた。
最後の曲が終わり、照明が落ちる。
少し遅れて拍手が広がった。
真壁も手を叩いた。
終演後、周囲の関係者が立ち始める。
楽屋側へ向かう人もいる。
真壁はその流れとは逆に、出口へ向かった。
関係者席へ座ったからといって、自分まで関係者になるわけではない。
挨拶へ行く理由もない。
外へ出ると、夜気が少し冷たかった。
会場前にはまだ人が残っている。
真壁はその脇を抜けて歩き出した。
数歩進んでから、一度だけ振り返る。
入口の上に、澄川律の名前が出ていた。
*
帰宅後、真壁は着替えを済ませ、簡単に食事を取った。
片づけまで終えると、部屋が静かになる。
スマートフォンを手に取る。
特に連絡はない。
画面を閉じようとして、指が止まった。
白いシャツ。
黒いジャケット。
ほとんど動かないまま、会場の空気だけを変えていた声がまだ残っている。
検索欄を開く。
澄川律。
公式サイトが出る。
その下に動画チャンネル。
真壁は少し迷ってから開いた。
ライブ映像。
楽曲。
短いインタビュー。
一番上の曲を再生する。
今日の公演では聞かなかった曲だった。
画面の中の澄川は少し若い。
髪も今より短い。
それでも、歌い方の芯は変わっていない。
最後まで聞く。
続けて、別のライブ映像を開いた。
客席へ近づかない。
前へ出すぎない。
それでも、視線が外れない。
真壁は一度スマートフォンを下げた。
部屋には、さっきまで流れていた声の余韻だけが残る。
仕事なら、見る理由がある。
今はない。
画面を戻す。
チャンネル登録の表示がある。
指が触れる。
表示が変わった。
真壁はそのまま、もう一本再生した。
短いインタビューだった。
澄川は聞かれたことにだけ答える。
途中で少し笑う。
受付で見る時と同じだった。
真壁はそこで動画を止めた。
画面には、登録済みの表示が残っている。
今日は、仕事ではなかった。
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