3 / 3

第3話 仕事ではない

公演当日、真壁修司は開演より少し早く会場へ入った。 関係者席は、客席の中央より少し後ろにある。 仕事でホールへ来る時とは違う。 出入口を確認する必要も、人の流れを見る必要もない。それでも座席へ向かう途中、非常口の位置だけは目に入った。 習慣だった。 席へ着き、ジャケットの裾を整える。 周囲には業界関係者らしい人も多い。挨拶を交わす声がいくつか聞こえたが、真壁は誰とも話さず開演を待った。 照明が落ちる。 ステージ中央に、澄川律が立った。 白いシャツに黒いジャケット。 壁面モニターで見た姿とほとんど変わらない。 音が入る。 真壁は背もたれへ預けていた身体を少し起こした。 澄川は大きく動かない。 客席へ手を伸ばさず、煽ることもしない。声を張り上げるわけでもない。 それでも、一曲が終わる頃には会場の空気が変わっていた。 誰かを近くへ引き寄せる歌い方ではない。 距離を残したまま、届いている。 真壁はステージを見る。 受付で会う澄川は近い。 凪の所在を聞き、焼き菓子の出来を気にして、思ったことをそのまま口にする。 今は違う。 誰にも寄らない。 それでも、目が離れなかった。 曲の間に短いMCが入る。 「今日は、来てくれてありがとうございます」 それだけだった。 すぐに次の音が始まる。 余計な説明をしないところは、普段と同じだった。 違うのは距離だけだ。 真壁は途中から、二つを比べるのをやめた。 澄川律として立っている。 それだけで成立していた。 最後の曲が終わり、照明が落ちる。 少し遅れて拍手が広がった。 真壁も手を叩いた。 終演後、周囲の関係者が立ち始める。 楽屋側へ向かう人もいる。 真壁はその流れとは逆に、出口へ向かった。 関係者席へ座ったからといって、自分まで関係者になるわけではない。 挨拶へ行く理由もない。 外へ出ると、夜気が少し冷たかった。 会場前にはまだ人が残っている。 真壁はその脇を抜けて歩き出した。 数歩進んでから、一度だけ振り返る。 入口の上に、澄川律の名前が出ていた。      * 帰宅後、真壁は着替えを済ませ、簡単に食事を取った。 片づけまで終えると、部屋が静かになる。 スマートフォンを手に取る。 特に連絡はない。 画面を閉じようとして、指が止まった。 白いシャツ。 黒いジャケット。 ほとんど動かないまま、会場の空気だけを変えていた声がまだ残っている。 検索欄を開く。 澄川律。 公式サイトが出る。 その下に動画チャンネル。 真壁は少し迷ってから開いた。 ライブ映像。 楽曲。 短いインタビュー。 一番上の曲を再生する。 今日の公演では聞かなかった曲だった。 画面の中の澄川は少し若い。 髪も今より短い。 それでも、歌い方の芯は変わっていない。 最後まで聞く。 続けて、別のライブ映像を開いた。 客席へ近づかない。 前へ出すぎない。 それでも、視線が外れない。 真壁は一度スマートフォンを下げた。 部屋には、さっきまで流れていた声の余韻だけが残る。 仕事なら、見る理由がある。 今はない。 画面を戻す。 チャンネル登録の表示がある。 指が触れる。 表示が変わった。 真壁はそのまま、もう一本再生した。 短いインタビューだった。 澄川は聞かれたことにだけ答える。 途中で少し笑う。 受付で見る時と同じだった。 真壁はそこで動画を止めた。 画面には、登録済みの表示が残っている。 今日は、仕事ではなかった。

ともだちにシェアしよう!