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第13話 遠いまま
澄川律が海外へ出てから、アトラボの来訪予定から名前が消えた。
今回の滞在は二週間ほど。
最初の数日はロンドンで取材とスタジオ収録。そのあとベルリンへ移り、現地の音楽関係者や一般客を入れたショーケースライブ。最後にパリで、九百席ほどのシアター公演が組まれている。
大規模な海外ツアーではない。
今後どこまで広げられるかを見るための、三都市を回る短いプロモーションだった。
真壁修司の仕事は変わらない。
受付や巡回、来訪者の確認をしていれば一日は進む。昼休みになれば人の流れが変わり、夕方にはガラス扉へ射す光が落ちていく。
ただ、自動扉が開いても、そこに澄川がいることはなかった。
ロンドンへ着いた日の夜、短い連絡が来た。
《着きました》
《お疲れさまです》
翌日は何もなかった。
その次の日、勤務を終えてスマートフォンを開くと、一枚の写真が届いていた。
曇った空の下に、古い建物が並んでいる。
《こっち、夜ちょっと寒いです》
《上着は》
すぐに返る。
《あります》
《なら着てください》
間が空いた。
《真壁さん、そういう返事すると思いました》
真壁は返信しなかった。
数秒後、
《着ました》
と、もう一通届いた。
*
ロンドンでの収録を終えた澄川は、数日後にベルリンへ移った。
ショーケースは、七百人ほどを入れるライブスペースで行われる。
現地の音楽関係者やメディアだけでなく、一般客も入る。その一部が公式で配信されることを真壁が知ったのは、登録しているチャンネルから通知が来たからだった。
勤務を終えて帰宅し、開始時刻に合わせて配信を開く。
日本で見たホールより、ずっと客席が近い。
派手なセットもない。
バンドと最低限の照明だけが置かれている。
国内で澄川が立つ会場と比べれば、大きくはない。
けれど、そのほとんどが普段から澄川律を聞いている客ではない。
聞こえてくる言葉も違う。
真壁はスマートフォンを横向きにした。
照明が落ちる。
澄川が中央へ出る。
暗い色のシャツにギター。
マイクの前で足を止めると、音が始まった。
知らない土地だからといって、澄川は見せ方を大きく変えなかった。
一曲目の途中までは、客席にも探るような空気が残っている。
それが次第に薄れていく。
澄川は無理に近づかない。
必要なところへ声を置き、ギターが残した場所へ次の音を重ねる。
曲が終わる頃には、客席が一度静かになった。
そのあとで拍手が来る。
知らない土地へ来ても、自分を大きく作り変えない。
それでも届いている。
二曲目、三曲目と進むうちに、客席の反応も変わっていく。
前方だけではない。
後ろまで視線がステージへ揃っているのが、配信越しにも分かった。
大きな会場を支配しているわけではない。
初めて澄川の音を聞く人間を、その場に留めている。
真壁には、その方がすごく見えた。
短いMCが入る。
現地向けの言葉を一言添えたあと、澄川は日本語で話した。
「今日は、聞いてくれてありがとうございます」
それだけで次へ進む。
真壁は笑った。
そこまで変えるつもりはないらしい。
最後の曲が終わる。
拍手が広がり、澄川が頭を下げる。
照明が落ちるまで見届けてから、真壁は配信を閉じた。
数分後、スマートフォンが震える。
《今日ライブでした》
ついさっきまで見ていた。
《見ました》
すぐに既読がつく。
間が空いた。
《見たんですか》
《はい》
《最初から?》
《ほぼ》
また返事が止まる。
やがて、
《どうでした?》
と来た。
以前なら言葉を選んだ。
今は、それほど迷わない。
《すごかったです》
既読。
返事は来ない。
真壁はスマートフォンを置いた。
しばらくして、通知が鳴る。
《それ、前も言いました》
《すごかったので》
今度はすぐに返ってきた。
《じゃあいいです》
文字だけなのに、笑っている顔が浮かんだ。
*
ベルリンの翌日、澄川はパリへ移った。
最後の公演は九百席ほどのシアターだった。
ベルリンのショーケースとは違い、こちらは澄川自身のライブとして組まれている。
短い欧州展開だったはずが、取材も増え、次の話も来ているらしい。
澄川から届くメッセージも増えていた。
毎日ではない。
長くもない。
《今日取材でした》
《明日パリでライブです》
《ホテルの朝ご飯多いです》
《今日は寝られました》
最後の一文を見た時だけ、真壁の指が止まった。
《途中で起きずに?》
やがて返る。
《今日は》
真壁はそれ以上聞かなかった。
翌日には、
《昨日は途中で起きました》
その次には、
《今日は大丈夫でした》
と来る。
体調報告を求めた覚えはない。
それでも澄川は送ってくる。
真壁も、食事や睡眠について短く返すようになっていた。
ある夜、短い動画が届いた。
ホテルの部屋らしい。
真壁が以前教えた動きを試している。
肩を動かしたところで映像が終わる。
《これ合ってます?》
真壁は動画をもう一度再生した。
《前よりいいです》
《前より?》
《まだ上がっています》
《右?》
《両方です》
しばらく返事がなかった。
やがて、
《やっぱり帰ったらお願いします》
《分かりました》
既読がつく。
数秒後、もう一通届いた。
《早く帰りたいわけじゃないんです》
続けて、
《こっちも楽しいです》
真壁はそのまま待った。
《ベルリンもよかったし、明日のライブも楽しみです》
そこまで読んだところで、次が届く。
《でも帰ったら真壁さんいるので》
指が止まった。
海外へ行きたくないわけではない。
むしろ、澄川は自分から外へ出ようとしている。
知らない客へ音を届け、次の場所も見ている。
それと、帰った時に真壁がいることは別らしい。
真壁はしばらく考えてから、
《気をつけて帰ってきてください》
と返した。
《はい》
短い返事だった。
遠くにいる。
ベルリンでは七百人の前に立ち、明日はパリで九百席の舞台へ上がる。
その人間が、自分のスマートフォンへ送ってくるのは、眠れたかどうかと肩の上がり方だった。
真壁はスマートフォンを伏せた。
距離が近いのか遠いのか、もうよく分からなかった。
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