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第14話 帰りました

欧州滞在を終えた澄川律がアトラボへ戻ったのは、帰国から二日後だった。 真壁修司は一階受付で来訪予定を確認していた。 午後の欄に、澄川の名前がある。 分かっていた。 それでも、自動扉が開いた時には自然に顔が上がった。 澄川が入ってくる。 帽子を取り、いつものように軽く頭を下げる。 二週間ほど見ていなかっただけなのに、画面越しで見る時より細く見えた。 真壁の前まで来る。 「帰りました」 挨拶より先に出た言葉だった。 真壁は澄川を見る。 「お帰りなさい」 澄川の目が動いた。 「それ、初めて言われました」 「何がですか」 「真壁さんに、お帰りなさいって」 言われてみればそうだった。 これまでは、来れば「こんにちは」、帰れば「お疲れさまでした」で終わっていた。 「海外帰りですから」 「そういう理由ですか」 「他にありますか」 澄川は考えてから笑った。 「まあいいです」 真壁は入館処理を進める。 今日の予定は三階だった。 「移動は大丈夫でしたか」 「大丈夫です。時差がちょっと変ですけど」 「睡眠は」 「昨日は寝ました」 「途中で?」 澄川が真壁を見る。 「帰ってきて最初にそれ聞きます?」 「必要なので」 「寝ました。途中で一回起きましたけど」 「では、まだ戻っていませんね」 「厳しい」 口ではそう言いながら、澄川の表情は明るかった。 真壁は肩を見る。 以前ほど上がってはいない。 それでも、長い移動の疲れは残っているように見える。 「今日は仕事が終わったら、すぐ帰って休んでください」 「その前に」 澄川が身を寄せた。 「約束」 「何のですか」 「帰ったらお願いしますって言ったやつ」 真壁は一瞬だけ考える。 ベルリンのホテルから届いた短い動画。 《やっぱり帰ったらお願いします》 「覚えています」 澄川が笑う。 「よかった」 エレベーターの到着表示が変わる。 「では、終わったあとに」 「はい」 澄川は奥へ向かった。 数歩進んでから振り返る。 「真壁さん」 「はい」 「ベルリン、ほんとに見てたんですよね」 「見ました」 「パリは?」 「配信はありませんでした」 「残念」 そう言って、今度こそエレベーターへ乗った。 扉が閉まる。 真壁は端末へ視線を戻した。 海外にいる間は、スマートフォンの中にいた。 今は、同じ建物にいる。 それだけで距離の測り方が変わっていた。      * 勤務を終え、更衣を済ませて一階へ戻る。 澄川は前と同じ窓際の椅子に座っていた。 以前なら送迎を待つ場所だった。 今日は真壁を待っている。 顔を上げると、すぐに立った。 「お疲れさまでした」 「お待たせしました」 「大丈夫です」 澄川が肩を回す。 「これ、まだ変ですか」 真壁は立ち方を見る。 「右が上がっています」 「やっぱり」 「移動の疲れもあるでしょう」 「ベルリンからパリ行って、そこから帰ってきたんで」 「でしたら余計に」 二人で人の少ない休憩スペースへ移る。 澄川が椅子へ座り、真壁は後ろへ回った。 「触ります」 「はい」 肩へ手を置く。 その瞬間、澄川の身体から力が落ちた。 真壁の手が止まる。 以前なら、触れた瞬間に身体が固くなった。 そこから呼吸を合わせ、力が抜けるのを待っていた。 今日は違う。 肩へ触れただけで、重さがこちらへ来る。 「澄川さん」 「はい」 「今、力抜きました?」 「はい」 「意識して?」 間が空く。 「たぶん」 真壁は肩の位置を確かめる。 無理に落としている感じではない。 身体の方が先に反応している。 「前より上手くなりましたね」 「何がですか」 「力を抜くのが」 澄川が笑った。 「真壁さんだからじゃないですか」 手が止まる。 言った本人は、目を閉じたままだった。 真壁はすぐには返さず、首へ続くあたりへ指を移した。 張りはある。 それでも、以前ほど抵抗がない。 「痛くないですか」 「大丈夫です」 腕の位置を変える。 澄川は何も言わず、そのまま預けてきた。 呼吸も深い。 海外にいる間、何度も画面越しに見た。 七百人の前に立ち、知らない客席を止める声で、次の場所へ進もうとしていた。 今は、その身体の重さが真壁の手にある。 「眠いです」 「時差もありますから」 「それだけじゃない気がします」 真壁は、肩へ置いた手をそのまま滑らせた。 澄川も続けない。 やがて、真壁は手を離した。 「今日はここまでです」 澄川が目を開ける。 「早い」 「移動後です。やりすぎない方がいい」 「分かりました」 立ち上がり、肩を回す。 動きは軽くなっていた。 「帰ったら寝られそうです」 「そうしてください」 澄川は鞄を持つ。 出口へ向かう前に、真壁を見る。 「真壁さん」 「はい」 「帰ってきてよかったです」 真壁は一瞬、言葉を止めた。 澄川が海外を嫌がっていたわけではないことは知っている。 ベルリンもパリも、きっとまた行く。 それでも、今そう言う。 「それならよかったです」 澄川が笑う。 「やっぱり、そういう返事ですよね」 「何がですか」 「別に」 そのまま自動扉へ向かう。 外へ出る直前、澄川が一度だけ振り返った。 真壁はその姿を見送った。 遠くへ行って、また帰ってきた。 それでも、触れた時に力を抜く距離だけは、前より近くなっていた。

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