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第15話 正面玄関
午後三時を過ぎた頃、真壁修司は一階奥で施設側との確認を終えた。
インカムへ短い連絡が入る。
受付前で来訪者対応が必要らしい。緊急性は高くないが、普段より人が集まっているという。
一階へ戻ると、カフェ側の空気がいつもと違っていた。
入口近くに人が寄り、その中心に澄川律がいる。
帽子は被っていたが、それでも遅かったらしい。客の一人が気づいて声を掛け、そこから周囲へ広がったのだろう。
スマートフォンを向ける人がいる。近くで見ようとする人もいる。
大声を上げる者はいない。ただ、一人が近づけば、次も近づく。
澄川はその場で対応していた。
断って先へ進むタイミングを失っているように見える。
その横から、制作進行を担当する名取圭吾が入った。
「澄川さん」
呼ばれて、澄川が顔を向ける。
名取は周囲を見てから、低い声で続けた。
「営業中のカフェは禁止って言いましたよね?」
「……はい」
「正面から入るのも避けてくださいって」
「忘れてました」
「そこ忘れます?」
澄川が困った顔をした。
その間にも、後ろから声が掛かる。
「澄川さん、写真だけいいですか?」
澄川が振り返ろうとした。
真壁はその間へ入った。
「申し訳ありません」
声を張る必要はなく、近くにいた人の視線がこちらへ向いた。
「こちらは通路になります。立ち止まらず、席へお戻りください」
入口付近へ寄っていた人の流れを見ながら、進める場所だけを空ける。
押さず、触れず、流れだけを戻していく。
もう一人のセキュリティスタッフが入口側へ入り、細くなっていたカフェの出入りも戻っていく。
それでも澄川へ近づこうとする人がいたため、真壁は位置を変えた。
「申し訳ありません。今日は対応できません」
「一枚だけなんですけど」
「こちらは公開イベントではありませんので」
声は変えない。
相手が止まる。
その横で、名取が澄川へ近づいた。
「奥、行きましょう」
「はい」
澄川が動く。
真壁は進路を残したまま周囲へ目を配った。
数分もかからなかった。
澄川が見えなくなると、集まっていた人も散っていく。
真壁は入口とカフェ側を見直した。
大きな混乱はない。
それで十分だった。
名取が奥から戻ってくる。
「助かりました」
「問題ありません」
「いや、問題はありました」
真壁が見る。
名取は奥を指した。
「本人に」
離れたところで、澄川がこちらを見ていた。
目が合う。
真壁は軽く会釈だけ返した。
名取がため息をつく。
「ほんとに忘れてたらしいです」
「そうでしょうね」
「そこ即答します?」
「澄川さんなので」
名取が一度、真壁を見る。
何も言わずに笑った。
*
澄川の予定が終わったのは、夕方も遅くなってからだった。
一階へ降りてきた時には、カフェの客も入れ替わっている。
真壁は受付脇で記録を確認していた。
澄川が前まで来る。
「さっき、ありがとうございました」
「仕事ですから」
「それは分かってます」
澄川はそこで止まった。
「真壁さん、仕事してる時すごいですね」
真壁は端末から顔を上げる。
「普段もしています」
「そういう意味じゃないです」
聞いたことのある返しだった。
澄川は何か考えるように真壁を見る。
「全然怒ってないのに、みんな動くんですね」
「怒る必要がありませんでしたから」
「俺だったら、ああいうの無理です」
「澄川さんが対応する必要はありません」
「そうじゃなくて」
また止まる。
真壁は待った。
「何ですか」
「……かっこよかったです」
澄川が視線を外す。
「ありがとうございます」
真壁がそう返すと、澄川がまた見る。
「普通に受け取るんですね」
「褒めていただいたので」
「そうですけど」
澄川が笑った。
その時、名取が奥から来る。
「澄川さん、迎えなんですけど、さっきの件で正面は避けてもらいます」
「地下ですか」
「車が遅れてます。スタッフも別対応入ってて」
名取は真壁へ目を向ける。
「警備側で地下までお願いできます?」
真壁は時計を見た。
勤務終了まで、あと十分ほどだった。
「あ、上がりですか」
「もうすぐです」
澄川が口を挟む。
「一人で待てますよ」
「今日は一人で外へ出ないでください」
真壁が言うと、澄川は素直に頷いた。
「はい」
名取が笑う。
「そこは真壁さんの言うこと聞くんですね」
「今日助けてもらったので」
「僕も助けましたよね?」
澄川が名取を見る。
「名取さんはいつもでしょう」
「それ、扱いに差ありません?」
「あります?」
「僕に聞かないでください」
澄川が笑う。
真壁は端末を閉じた。
「引き継ぎまでに地下へお連れします」
「お願いします」
*
真壁は勤務中のまま、澄川を地下の待機スペースまで送った。
搬入口から離れた位置にあり、外から直接見えにくい。迎えの車が来るまで待つには十分な場所だった。
「ここで待っていてください」
「はい」
澄川が椅子へ座る。
真壁は周囲を確認した。
「では」
「真壁さん」
呼ばれて振り返る。
「もう上がりですよね」
「はい」
「お疲れさまでした」
意外だった。
真壁は会釈を返す。
「ありがとうございます」
そのまま一階へ戻った。
引き継ぎを終え、更衣を済ませる。
濃紺のジャケットを脱ぎ、薄いグレーのクルーネックニットと黒のパンツへ着替えた。
鞄を持って地下へ降りる。
澄川はまだ待機スペースにいた。
スマートフォンを見ていた顔が上がる。
真壁を見る視線が、一度止まった。
仕事用のジャケットを脱いだ今は、薄いグレーのニット一枚だった。
「お待たせしました」
「……はい」
真壁が近づいても、澄川はまだ見ている。
「何ですか」
「いや」
やがて視線が外れる。
「やっぱり仕事じゃない時、違いますね」
「前にも言っていましたね」
「前より違います」
真壁には違いが分からなかった。
地下駐車場へ目を向ける。
迎えの車は、渋滞でまだ遅れていた。
澄川がスマートフォンを確認する。
「あと二十分くらいみたいです」
真壁は考えた。
自分の車はここにある。
「所属側へ確認してください」
「何をですか」
「私が送って問題ないか」
澄川の目が大きくなる。
「真壁さんが?」
「このまま待つより早いでしょう」
「いいんですか」
「今日は状況がありますから」
澄川はすぐにマネージャーへ連絡した。
数分後、問題ないと返ってくる。
真壁は車の鍵を取り出した。
「では行きましょう」
澄川がついてくる。
助手席へ乗るところで動きが止まった。
「何ですか」
「真壁さんの車乗るんだなと思って」
「嫌なら迎えを待ちますか」
「乗ります」
返事は早かった。
*
地下駐車場を出る。
澄川は帽子を取らないまま、助手席へ深く座った。
車内に音楽は流していない。
真壁が道路へ視線を向けていると、横から見られている気配がした。
「何ですか」
「真壁さん、運転するんですね」
「しますよ」
「まだ知らないことありますね」
「仕事以外で会うことがありませんでしたから」
澄川が笑い、窓の外へ顔を向ける。
やがて、また声がした。
「今日、ほんとにかっこよかったです」
信号が赤になり、真壁は前を見たまま答えた。
「二回目ですね」
「二回言いたかったので」
やがて信号が変わり、車を進める。
澄川はそれ以上言わなかった。
しばらくすると、助手席の身体が沈んだ。
目を閉じている。
真壁は声を掛けなかった。
走行音だけが車内に残る。
やがて澄川の呼吸がゆっくりになった。
自宅マンションが近づいたところで、真壁は声を掛ける。
「着きますよ」
澄川の目が開く。
「寝てました?」
「少し」
「また真壁さんの近くで」
真壁は前方へ視線を戻し、車を地下入口へ入れた。
停車すると、澄川はシートベルトへ手を掛ける前にこちらを見た。
「今日はありがとうございました」
「気をつけて」
「次は正面から入りません」
「そうしてください」
「怒ってます?」
「怒っていません」
「よかった」
澄川が笑う。
ドアへ手を掛ける。
そのまま降りるかと思ったところで、もう一度振り返った。
「真壁さん」
「はい」
「今度、うち来ます?」
真壁は澄川を見る。
澄川はいつもの顔をしている。
「何のためにですか」
「曲、途中までなんですけど」
考えてから続ける。
「聞いてほしいです」
真壁はハンドルへ置いた手をそのままに、澄川を見た。
「予定が合えば」
「じゃあ連絡します」
話が決まったらしい。
澄川は車を降りた。
地下の入口へ向かいながら、一度だけ手を上げる。
真壁も軽く返した。
扉の向こうへ姿が消える。
真壁はすぐには車を出さなかった。
次に会う場所は、アトラボではないらしい。
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