16 / 27

第16話 途中の曲

澄川律から連絡が来たのは、その週の終わりだった。 《土曜、空いてます?》 真壁修司は勤務表を確認してから返した。 《午後なら》 すぐに返事が来る。 《じゃあ三時で》 続けて、部屋番号とインターホンの番号が送られてきた。 《曲、聞いてください》 前置きがない。 真壁は画面を見て、《分かりました》と返した。      * 澄川の住まいは、都内の住宅街にある低層マンションだった。 人通りの多い場所から離れ、出入りも外から見えにくい。 真壁がインターホンを押すと、すぐに解錠された。 部屋の前まで行く。 扉を開けた澄川は、黒い薄手のニットに、ゆったりしたパンツ姿だった。 「こんにちは」 「こんにちは」 澄川の視線が止まる。 真壁はそれに気づいた。 「何ですか」 「今日は完全に休みの真壁さんだなと思って」 「前にも見ています」 「車の時は途中だったので」 何が途中なのか分からない。 真壁が靴を脱ぐと、澄川が先へ入った。 部屋は広すぎない。 リビングの一角にギターが二本あり、壁際には小さな機材とスピーカーが並んでいる。必要なものだけが置かれた部屋だった。 ただ、テーブルの上には開けたままの菓子の袋と、水のペットボトルが一本あった。 真壁がそちらを見る。 澄川も気づいた。 「片づけます?」 「いえ」 「見てましたよね」 「見えました」 澄川は菓子の袋を閉じた。 「昼食は」 「食べました」 「何を」 間が空く。 「これ」 真壁は袋を見る。 「それは昼食ではありません」 「結構入ってますよ」 「量の話ではないです」 澄川が笑う。 「来てすぐそこですか」 「見えたので」 真壁は持ってきた袋をテーブルへ置いた。 中には簡単な惣菜とパンが入っている。 澄川が覗く。 「これ、俺に?」 「そうです」 「真壁さん、こういうのするんですね」 「食べていないと思ったので」 「まだ聞く前ですよね」 「当たっていました」 澄川は袋を持ったまま笑った。 「じゃあ、あとで食べます」 「先に食べてください」 「曲聞いてからじゃ駄目ですか」 「空腹で弾くよりは」 「真壁さん、思ったより厳しい」 そう言いながら、澄川は素直に椅子へ座った。 食べる量は多くない。 それでも、真壁が持ってきたものを一つずつ口にする。 「これ、真壁さんが作ったんですか」 「買いました」 「そこは作らないんですね」 「そこまでしません」 「ちょっと期待しました」 「なぜですか」 「何でもできそうだから」 真壁は食べ終わるまで待った。 澄川は最後に水を飲み、ようやくギターを取った。 「まだ途中です」 「はい」 「ちゃんとした音源じゃないです」 「構いません」 澄川はソファの端へ座り、真壁は離れた椅子へ座った。 距離はある。 それでもライブ会場より近く、アトラボのラウンジより静かだった。 澄川が弦へ触れる。 何度か音を置いてから、声が入った。 低いところから始まる。 大きく広げず、窓の外の音も部屋の機械音も消さないまま、その間へ声だけが残る。 真壁は黙って聞いた。 途中で澄川が止まる。 「ここ、まだ決まってないです」 「そうですか」 「何か変ですか」 「私に聞きます?」 「聞きたいです」 真壁は考えた。 音楽の専門的なことは分からない。 ただ、引っかかったところはある。 「さっきまでと、急に近くなった感じがしました」 澄川が顔を上げる。 「近い?」 「声が」 真壁は言葉を探した。 「それまでは離れたところから聞こえていたのに、そこだけ急にこちらへ来たように感じました」 澄川は何も言わず、ギターへ視線を落とした。 同じ場所をもう一度弾く。 今度は歌わない。 「ここか」 小さく言う。 澄川はもう一度、最初から弾いた。 さっきとは違う。 今度は、その部分でも距離が崩れない。 曲が止まる。 「こっちの方がいいです」 真壁が言うと、澄川が笑った。 「真壁さん、ちゃんと聞いてますね」 「聞いてほしいと言われましたから」 「そうなんですけど」 澄川はギターを膝へ置いたまま、真壁を見る。 「音楽の人じゃないのに」 「だからでしょう」 澄川の表情が変わる。 「専門の人なら、別のところを見るかもしれません」 「真壁さんは?」 「聞こえたままです」 澄川はしばらく黙っていた。 それから、ギターをケースへ戻す。 「今日呼んでよかったです」 「それならよかったです」 「またそれ」 真壁が眉を上げる。 澄川が笑った。      * 曲を聞き終わってからも、真壁はすぐには帰らなかった。 澄川がコーヒーを入れると言い、キッチンへ立ったからだった。 動きを見ていると、生活が苦手なわけではない。必要なことは普通にできる。 ただ、食事だけは後回しになりやすいらしい。 「普段、何食べてるんですか」 真壁が聞く。 澄川は湯を注ぎながら答える。 「外が多いです」 「家では」 「適当です」 「それは見れば分かります」 澄川が振り返る。 「この部屋、そんなにひどいです?」 「部屋ではなく、食事です」 「そこか」 コーヒーを二つ持って戻ってくる。 真壁へ一つ渡し、澄川もソファへ座った。 カップを手にしたまま視線を落とす。 「昔から、食べるの後回しなんですよね」 「仕事を始める前から?」 「たぶん」 それ以上は続かなかった。 真壁も聞かなかった。 澄川がカップを置き、肩を回す。 「今日、触ってもらえます?」 真壁は澄川を見る。 「必要ですか」 「ちょっと」 「曲を聞くだけではなかったんですか」 「曲も聞いてもらいました」 「追加ですね」 「駄目です?」 真壁は立ち上がる。 「駄目とは言っていません」 澄川が笑った。 いつものように椅子へ座らせる。 ここは勤務後の休憩スペースではなく、澄川の部屋だ。 同じ動作のはずなのに、それだけで違って感じる。 「触ります」 「はい」 肩へ手を置く。 力はすぐに抜けた。 澄川の身体が、自然にこちらへ重さを預ける。 「今日はひどくないですね」 「最近ちゃんと寝てるんで」 「食事は」 「今食べました」 「一回です」 澄川が笑う。 「真壁さん、ほんと細かい」 「身体を見れば分かります」 「それ、便利」 「便利ではありません」 真壁は必要な場所だけ確かめていく。 澄川の呼吸がゆっくり落ち着いていった。 しばらくして、低い声がした。 「真壁さん」 「はい」 澄川は前を向いたままだった。 「俺、人の家行くの平気なんですけど」 「そうですか」 「人を家に入れるのも、あんまり気にならなくて」 「はい」 間が空く。 「でも今日、来てほしかったのは真壁さんです」 指先の動きが止まる。 澄川が振り返ろうとした。 「動かないでください」 「はい」 素直に前を向く。 「曲、聞いてほしかったから」 「聞きました」 「それだけじゃないです」 部屋には、さっきまで鳴っていたギターが置かれている。 今はもう音がない。 「真壁さんが来るの、ちょっと楽しみでした」 真壁の指先に、澄川の体温が残る。 「そうですか」 「それだけ?」 「では、何と返せば」 「別に」 澄川が笑った。 真壁は肩から手を離した。 「今日はここまでです」 「また逃げました?」 「逃げていません」 「前も言いましたね、それ」 澄川が立ち上がる。 距離が近い。 仕事場なら、自然に一歩離れていた。 今日は、その必要がない。 それでも真壁は動かなかった。 澄川も動かない。 「真壁さん」 「はい」 「また来ます?」 「曲ができたら?」 澄川は考えた。 「できてなくても」 真壁はその顔を見る。 「……予定が合えば」 澄川が笑う。 「じゃあまた聞きます」 真壁は頷いた。 帰るために鞄を取る。 玄関まで見送りに来た澄川が扉を開けた。 「今日はありがとうございました」 「こちらこそ」 「何がですか」 「曲を聞かせてもらったので」 澄川は驚いたように真壁を見て、それから笑った。 「じゃあ、また聞かせます」 真壁は廊下へ出る。 扉が閉まる直前、澄川が言った。 「次はちゃんとご飯食べときます」 真壁は振り返る。 「そうしてください」 扉が閉まる。 エレベーターへ向かいながら、真壁は一度だけ手を見る。 さっきまで、澄川の肩に置いていた手だった。

ともだちにシェアしよう!