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第17話 今日います?
昼を過ぎた頃、真壁修司の私用スマートフォンが震えた。
休憩に入る前だった。画面を見ると、澄川律から短いメッセージが届いている。
《今日います?》
《います》
すぐに既読がつく。
《少し行ってもいいです?》
真壁は午後の予定を確認した。来訪者は多くない。
《構いません》
しばらくして、《じゃあ行きます》と返ってきた。
何の用事かは書かれていなかったが、真壁も聞かなかった。
*
一時間ほどして、地下側から澄川が来たと連絡が入った。
正面玄関ではない。営業中のカフェにも近づいていない。
真壁が地下へ向かうと、澄川は警備員のそばで待っていた。帽子を被り、片手に小さな箱の入った袋、もう片方にはコンビニの袋を提げている。
真壁を見ると、澄川が笑った。
「こんにちは」
「こんにちは」
「ちゃんとこっちから来ました」
「そうしてください」
「名取さんにまた怒られたくないので」
澄川はそう言って、手にしていた袋を持ち上げた。
「これ、持ってきました」
「何ですか」
「焼き菓子です」
真壁の視線が箱へ向く。
「また作ったんですか」
「はい」
澄川が蓋を開けると、中には丸い焼き菓子が並んでいた。以前より形が揃い、近づかなくてもバターの香りが分かる。
「前より丸くしました」
その言葉で、以前の会話を思い出した。
もう少し丸くする。バターも多くする。
そこまで話したあと、澄川は自分で付け足していた。
凪さん用です、と。
真壁は箱を見たまま聞いた。
「……凪さんに?」
澄川がすぐに顔を上げる。
「違いますよ」
返事が早かった。
「では?」
「真壁さんに」
真壁は澄川を見る。
特に照れた様子もなく、澄川はそのまま箱を閉じた。
「前の、ちゃんと食べてくれたので」
「いただきました」
「だから今度は、前より美味しくしたかったんです」
澄川はもう一方の袋を持ち上げた。
「コーヒーもあります。無糖と、甘いやつ」
「今日は何のお仕事ですか」
「ないです」
「では、これを渡すために?」
「それもあります」
「それも?」
澄川は考えてから、真壁を見る。
「真壁さんに会いに来ました」
澄川は答えを求めるでもなく、手元の箱を持ち直した。
「休憩ありますよね?」
「あります」
「待っててもいいです?」
「一階奥の待機スペースなら」
「はい」
澄川は素直に頷いた。
以前なら、アトラボへ来て最初に聞く相手は決まっていた。
凪さん、います?
今日は来る前から違っていた。
《今日います?》
名前がなくても、自分宛てだと分かる聞き方だった。
真壁は澄川を待機スペースへ案内してから、受付へ戻った。
*
休憩に入れたのは、それから三十分ほど後だった。
一階奥の待機スペースへ行くと、澄川は椅子に座ってスマートフォンを見ていた。テーブルには缶コーヒーが二本と、さっきの箱が置かれている。
真壁に気づくと、無糖の方を手前へ押した。
「こっちです」
「ありがとうございます」
向かいへ座り、缶を開ける。澄川も甘い方へ手を伸ばした。
「食べてみてください」
真壁は箱から一つ取った。
前より丸く、厚みもある。口にすると、バターの香りも前より強かった。
澄川がこちらを見ている。
「どうです?」
「美味しいです」
「前より?」
「前より」
それだけで澄川の表情が緩んだ。
「よかった」
「ずいぶん変えましたね」
「一回作ると、次こうしたいってなるんですよね」
「音楽と同じですか」
澄川は自分でも一つ取ってから考える。
「近いかもしれないです」
真壁はもう一度、箱を見る。
「これ、本当に私のために作ったんですか?」
澄川がこちらを向いた。
「そうですけど」
「以前は、凪さん用だと言っていました」
「ああ」
思い出したらしく、澄川が笑う。
「言いましたね」
「覚えていなかったんですか」
「作ろうとは思ってましたよ」
「では、なぜ私に」
澄川は缶コーヒーを一口飲んだ。
「今は真壁さんに食べてほしかったから」
真壁の手が止まる。
澄川は気にせず、もう一つ焼き菓子を取った。
「凪さん、甘いの好きなんですけど」
「はい」
「でもこれ、凪さんに渡したいと思って作ったわけじゃないです」
真壁は続きを待った。
「前のやつ真壁さんが食べてくれたから、次はちゃんと美味しいやつ渡したかったんです」
そこまで言って、澄川が首を傾げる。
「変ですか」
「いいえ」
「ならよかった」
澄川にとっては、それで話が終わったらしい。
真壁はもう一つ焼き菓子を取る。
それを見て、澄川が笑った。
「二つ食べるんですね」
「駄目ですか?」
「いや」
声が弾む。
「嬉しいです」
真壁はコーヒーを飲んだ。
*
しばらくして、澄川が缶をテーブルへ置いた。
「今日は身体見てもらいに来たわけでもないです」
「分かっています」
「仕事もないです」
「それも聞きました」
「念のため」
「何の念ですか」
澄川が笑う。
「さっき凪さんのこと聞いたので」
真壁は缶を置いた。
「確認しただけです」
「そうですか」
澄川はそれ以上追わなかった。
その方が、妙に残った。
「澄川さん」
「はい」
「こういうこと、よくするんですか?」
「こういうこと?」
「用事がなくても、人に会いに行くことです」
澄川は考えた。
「凪さんのところには行きますね」
真壁は缶コーヒーへ視線を落とした。
「そうですか」
「仕事なくても行ってました」
「……そうですか」
澄川はそれ以上説明しない。
する必要がないと思っているのかもしれない。
休憩終了まで、あと数分だった。
真壁が時計を見ると、澄川も気づいた。
「戻ります?」
「はい」
「じゃあ俺も帰ります」
「もう?」
言ってから、真壁自身が止まった。
澄川も気づいたらしく、笑う。
「真壁さん仕事なので」
「それはそうですが」
「焼き菓子渡したかったのと、真壁さんの顔見たかっただけです」
休憩終了の時刻は、もうすぐだった。
二人で立ち、地下側の出口へ向かう。
澄川は歩きながら帽子を被り直した。
「残り、持って帰ってください」
「全部?」
「真壁さんのなので」
真壁は箱を受け取る。
今度は迷わなかった。
「ありがとうございます」
澄川が笑った。
「また作ります」
「まだ変えるんですか?」
「次は分かんないです」
「そうですか」
「でも作ったら聞きます」
「何を?」
澄川は扉の前で振り返った。
「今日います?って」
真壁はその顔を見る。
「それで構いません」
「はい」
澄川は扉の向こうへ出ていった。
真壁の手には、丸い焼き菓子の入った箱が残る。
最初から、自分が受け取るために作られたものだった。
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