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第18話 触れない手
澄川律から連絡が来たのは、真壁修司が休みだった日の午後だった。
《今日来れます?》
真壁は画面を見る。
前回より短い。
《何かありましたか》
すぐに返事が来た。
《曲ちょっと進みました》
間を置いて、もう一通届く。
《あと普通に来てほしいです》
真壁はその文字を見てから、《夕方なら》と返した。
《待ってます》
*
澄川の部屋へ入ると、以前とは違う匂いがした。
靴を脱ぎながらダイニングを見ると、テーブルには二人分の皿が並んでいる。
「……二人分ありますね」
キッチンにいた澄川が振り返った。
「来るって言ったので」
「私の分も?」
「はい」
澄川は鍋の火を止めた。
ご飯と汁物、焼いた肉と野菜。特別な料理ではない。
その分、二人分あることだけが妙に目につく。
「食べてから曲聞きません?」
「そのつもりで作ったんですか」
「来れるって返事きてから」
「前、ちゃんと食べろって言われたし」
「それは澄川さんの話です」
「一人でちゃんと食べるより、二人の方が嬉しいし」
真壁はもう一度テーブルを見る。
断る理由はなかった。
向かい合って座り、同時に箸を取る。
食べ始めてしばらくすると、澄川がこちらを見た。
「味、大丈夫です?」
「美味しいですよ」
それだけで、澄川の表情が緩んだ。
食事のあいだ、会話は多くなかった。
その方が、不思議と居心地がよかった。
食べ終えると、澄川は二人分の皿を重ねてキッチンへ運んだ。
真壁も立とうとしたが、
「今日は俺がやります」
と止められる。
片づけを終えた澄川は、そのままギターを取った。
「前の続きです」
真壁はソファへ座る。
音が始まる。
前回より形が見えていた。
細かい違いまでは分からない。それでも、一度引っかかった場所が今は途切れずに流れていく。
曲が止まった。
澄川がこちらを見る。
「どうです?」
「前より好きです」
「どこが?」
「あの部分が、今日はそのまま流れていました」
澄川の目が動く。
それから同じ場所をもう一度弾いた。
何度か確かめ、ギターを置く。
「それでいいです」
真壁には、その一言で決めていいのか分からなかった。
けれど澄川はもう曲へ戻らなかった。
コーヒーを入れ、二人でソファへ座った。
海外の予定やRidgelineの話をしたあと、会話が途切れる。
澄川が肩を回した。
真壁の視線がそちらへ動く。
首から肩へ落ちる線に、余計な力は入っていない。姿勢も崩れていなかった。
触る理由はない。
澄川が気づいて、こちらを見る。
「今日、見ます?」
「今日は悪くなさそうです」
「じゃあいいです」
そのままコーヒーへ口をつける。
真壁もカップを持った。
それでも、また視線が戻る。
肩から首へ、薄い服の上をなぞるように目が動いた。
必要はない。
分かっているのに、手の方が先に覚えていた。
そこへ触れた時の硬さも、力が抜けていく早さも知っている。
真壁は膝の上にある自分の手を見る。
「真壁さん」
顔を上げる。
澄川がこちらを見ていた。
「触りたいですか」
真壁の指が止まる。
澄川は笑っていなかった。
返事を待つ目だけが、まっすぐ向いている。
「……状態を見ていただけです」
「悪くないんですよね」
「はい」
それ以上、言葉が続かなかった。
澄川が身体の向きを変える。
膝の距離が近くなる。
「じゃあ、何で見てたんですか?」
もう一度、肩へ目が落ちる。
澄川はそこから逃げなかった。
「触ってもいいですよ」
指先が動いた。
手を伸ばせば届く。
今までは、それでよかった。
固いから触れる。
眠れていないから確かめる。
身体の状態を見るために手を置く。
今日は、どれでもない。
理由がないまま触れたいと思っている。
だから、その手を出せば同じではなくなる。
真壁は膝の上で指を閉じた。
「今日はやめておきます」
澄川が首を傾げる。
「嫌です?」
「違います」
それだけはすぐに言えた。
澄川の視線が落ちる。
真壁の手を見ている。
「今までと同じ触り方ではない気がします」
澄川はしばらく何も言わなかった。
やがて視線を上げる。
距離はまだ近い。
「じゃあ、その時は」
声が低くなる。
「その時の触り方でいいですよ」
澄川もそれ以上は言わない。
触れていない距離だけが、そのまま残った。
*
帰る時間になり、真壁は玄関へ向かった。
澄川も後ろからついてくる。
靴を履き、立ち上がる。
目の前に澄川がいた。
さっきより近い。
前髪が目にかかっている。
真壁の手が上がった。
ほんのわずかだった。
髪を払うだけなら何でもない。
そう思った指先が、澄川へ届く前に止まる。
澄川は動かなかった。
目だけが真壁の手を追っている。
そのまま待っていた。
真壁は手を下ろした。
「では」
「はい」
扉を開け、廊下へ出る。
背後で閉まりかけた扉が止まった。
「真壁さん」
振り返る。
澄川は扉に手をかけたまま、こちらを見ていた。
「次は止めなくてもいいですよ」
間を置いて、真壁は口を開く。
「……考えておきます」
澄川が笑った。
扉が閉まる。
エレベーターへ向かいながら、真壁は一度だけ自分の手を見る。
触れる必要はなかった。
それでも、触れたかった。
その違いだけは、もう分かっていた。
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