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第19話 避けてません?
数日後、澄川律がアトラボへ来た。
真壁修司は受付で入館処理を済ませ、「三階ですね」と確認した。
「はい」
返事を聞くと、そのまま端末へ視線を戻す。
澄川が受付を離れても、顔は上げなかった。以前なら、歩き方や肩の位置を自然に追っていた。疲労や緊張があれば、本人が何も言わなくても身体には出る。
今日は見ない。
状態を確認する必要がないなら、それでいいはずだった。
けれど気づけば、見なくなったのはそれだけではない。
受付で顔を上げる回数も、通路ですれ違った時に澄川を目で追う時間も、前より短くなっていた。
自分でも分かっているからこそ、真壁はその背中を見なかった。
*
午後、Ridgeline側との打ち合わせを終えた澄川が一階へ降りてきた。
真壁は受付で記録を入力していたが、視界の端に近づいてくる姿は入っている。
「真壁さん」
呼ばれて顔を上げると、澄川は受付の前で足を止めていた。すぐに用件を言わず、こちらを確かめるように見ている。
「何かありましたか」
「今日、なんか避けてません?」
入力していた指が止まった。
「避けていません」
「ほんとです?」
「はい」
澄川は納得していないらしい。受付越しにこちらを見たまま、距離を変えなかった。
「前より見ないですよね」
「何をですか?」
「俺を」
以前なら、そんなことを本人に数えられているとは思わなかった。
「前はもっと見てました」
「状態確認です」
「最近はしないんですか?」
「必要がないので」
澄川が肩を軽く動かす。
「じゃあ、今は?」
促されるまま見る。
肩に余計な力はなく、姿勢も崩れていない。顔色にも問題はなかった。
「大丈夫そうです」
「やっと見た」
「確認しただけです」
「それでいいです」
澄川が笑う。
真壁は端末へ戻ったが、澄川はまだそこにいた。
「まだ何か?」
「あります。この前から真壁さん変です」
もう一度顔を上げる。
「うちでも触らなかったし、今日は俺を見ないし」
「必要がないので」
「そういう意味じゃないですよね?」
前にも聞いた言葉だった。
状態を見るためではないなら、なぜ触れるのか。
その答えを出せないまま止めた手を、澄川はまだ覚えている。
「触りたいなら触っていいって言ったのに」
「勤務中です」
「今すぐって言ってません」
「そういう問題ではありません」
「じゃあ何ですか」
真壁は周囲へ目を向けた。受付前を社員が通り、エレベーターの扉が開いて閉じる。
ここでする話ではない。
「澄川さん。今は仕事中です」
「分かってます」
「では」
「終わったら聞きます」
澄川は真壁から目を逸らさなかった。
話を終わらせたつもりだったのは、自分だけらしい。
「今日は何時までです?」
「遅くなります」
「何時くらいです?」
真壁が時間を伝える。
「じゃあ、その頃また来ます」
澄川が笑った。
「真壁さん、それ多いですよね」
「何がですか」
「理由作るの」
澄川はそれ以上追わず、「じゃあ、あとで」と受付を離れた。
エレベーターへ向かいかけて、途中で一度だけ振り返る。
「逃げないでくださいね」
真壁は端末へ視線を戻した。
*
勤務を終え、更衣を済ませて地下へ降りた時には、外はもう暗くなっていた。
澄川は地下側の通路にいた。
真壁を見つけると、壁際から身体を起こす。
「お疲れさまです」
「お待たせしました」
「大丈夫です」
二人で地下駐車場へ向かう。
昼間のように受付を挟んではいない。隣に並ばれると、歩幅まで近く感じた。
「で」
「何ですか」
「避けてません?」
「避けていません」
昼と同じ返事をすると、澄川がこちらを見る。
「じゃあ、なんで触らないんですか?」
真壁は足を止めた。
澄川も数歩先へ行くことなく、その場に止まる。地下の通路には人の気配がなかった。
ここまで聞かれて、また必要がないからと返すのは違う。
「必要がない時に触れる理由が、分からなくなっただけです」
澄川の表情から、さっきまでの軽さが消えた。
「前は分かってた?」
「身体を見るためでした」
「今は?」
澄川が一歩近づく。
「俺は分かってますけど」
「何がですか」
「真壁さん、触りたいんですよね」
呼吸が一度止まった。
澄川はからかっていない。ただ、返事を待っている。
「違いますか?」
否定する言葉は出なかった。
「……違うとは言い切れません」
口に出した途端、自分の中でも逃げ道がなくなった。
澄川は笑わなかった。
「じゃあ触ればいいのに」
「簡単ではありません」
「俺は簡単です」
「あなたがそうでも、私は違います」
「どう違うんです?」
真壁は澄川を見る。
身体を見るためなら、触れる場所も理由も分かる。肩の張りを確かめる。姿勢を戻す。力の入り方を見る。
そこには目的があった。
「今までと同じつもりでは、あなたに触れないだけです」
澄川は黙って聞いている。
「身体を見るためなら、何をするか分かります。でも、それ以外は」
分からないものを、分かったふりで扱いたくはなかった。
「……分かりません」
澄川の目がわずかに細くなる。
「真壁さんでも分からないことあるんですね」
「あります」
「よかった」
「何がですか」
「全部分かってる人かと思ってたから」
澄川がまた距離を詰める。
真壁は動かなかった。
「じゃあ、分からないままでいいですよ」
「はい?」
「俺、嫌だったら嫌って言うので」
近い距離のまま、澄川は真壁を見ていた。
触れていいとは言わない。
嫌なら、自分で言う。
真壁には、その方が重かった。
「それじゃ駄目です?」
「……駄目ではありません」
「じゃあいいです」
澄川はそこで距離を戻した。
「今日は帰ります。次、避けたらまた聞きます」
「避けていません」
「じゃあ、そういうことにしときます」
澄川が笑って歩き出しかける。
そこで足を止めた。
「真壁さん」
「はい」
「送ってもらえますか?」
真壁は澄川を見る。
「車で?」
「はい」
断る理由はなかった。
「分かりました」
澄川が笑う。
「ありがとうございます」
真壁はそのまま澄川と車のある方へ歩き出した。
触れてはいない。
それでも、以前より近い。
理由がないまま触れたいことだけは、もう否定できなかった。
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