20 / 27

第20話 凪さんじゃないんですか

澄川律の部屋へ行くのは、三度目だった。 今回は曲を聞く約束もない。夕方に届いたのも、《今日、来れます?》という短いメッセージだけだった。 真壁修司は仕事を終え、更衣を済ませてから澄川の部屋へ向かった。 玄関を開けた澄川は、もう外へ出る予定がないらしい。仕事で会う時より力の抜けた格好で、髪もきっちり整えてはいなかった。 「お疲れさまです」 「すみません、遅くなりました」 「全然。ちょうどできたとこです」 部屋へ入ると、テーブルには二人分の食事が並んでいた。 「今日も作ったんですか」 「はい」 「私が来られなかったら?」 「明日食べます」 澄川は特に困る様子もなく答え、キッチンへ戻る。 それで済むらしい。 真壁はジャケットを脱いで、以前と同じ場所へ置いた。最初に来た時は、鞄をどこへ置くか、上着を掛けてもいいか、それだけでも澄川へ確認していた。 今はもう聞かない。 自分でも気づかないうちに、この部屋の中で動くことへ迷わなくなっていた。 食事は前回と同じように、特別なものではなかった。 ご飯と汁物に、肉と野菜。澄川が途中で味を聞くこともなく、真壁も何も言わずに食べる。 沈黙が続いても、埋める必要を感じなかった。 食べ終えると澄川が皿を重ね、真壁が立とうとするより先にキッチンへ運んだ。 「今日は俺がやります」 前にも聞いた言葉だった。 真壁は座ったまま、水の流れる音を聞く。 この部屋へ来る理由は、もう曲だけではない。 それを考えた途端、視線の置き場所が少し難しくなった。 片づけを終えても、今日はギターが出てこなかった。 澄川はコーヒーを二つ持って戻り、ソファへ座る。自分の隣を軽く叩いた。 「こっち座ります?」 真壁は隣へ腰を下ろしたが、澄川との間には一人分ほどの距離を残した。 すぐに気づかれる。 「遠くないです?」 「このくらい普通です」 「前は触ってたのに」 真壁はカップをテーブルへ置いた。 「それは身体を見るためです」 「分かってます」 澄川は笑わなかった。 ソファの背へ身体を預けたまま、真壁の方へ少しだけ向きを変える。 地下で話した時より近い。 肩には力が入っていない。首から鎖骨へ落ちる線にも緊張はなく、膝の上に置いた手も開いている。 以前なら、そこで終わっていた。 状態は悪くない。 それだけだった。 けれど今は、もう一つ余計なものまで目に入る。 力の抜けた姿勢も、低くなった声も、コーヒーを持つ長い指も、仕事中とは違って見えた。 真壁は視線を外した。 澄川が気づく。 「また見ない」 「見ています」 「今、一回逃げましたよ」 「逃げていません」 「そういうことにしときます」 澄川はカップへ口をつける。 その横顔を見て、真壁は膝の上に置いた自分の手へ目を落とした。 触れたいと思っていることは、もう否定できなかった。 ただ、手を伸ばす前に、一つだけ確かめたいことがあった。 最初に受付へ来た時、澄川が探していた相手。 焼き菓子を作って持ってきた相手。 仕事がなくても会いに行く人。 「澄川さん」 「はい」 「一つ、聞いてもいいですか」 「どうぞ」 聞いてどうするのか、自分でもまだ分かっていない。 それでも口に出た。 「……凪さんじゃないんですか」 澄川が瞬きをする。 「何がです?」 本当に意味が分かっていない顔だった。 「あなたが、近づきたかった相手です」 しばらく真壁を見ていた澄川が、ようやく意味を拾ったらしい。 「ああ」 その声が妙に軽くて、真壁の胸の奥に引っかかった。 「凪さんには近づきたかったですよ」 「そうですか」 「音、好きなので。今も好きです」 「それは知っています」 「家も落ち着くし」 真壁はわずかに視線を落とした。 「……そうですか」 澄川はカップへ視線を落とした。 次に顔を上げた時、こちらを見る目が少し変わっていた。 「真壁さん」 「はい」 「凪さんのこと気にしてます?」 「確認しているだけです」 「最近、それ便利に使いますよね」 「使っていません」 澄川の目元に、ようやく笑いが戻った。 「気にしてるんだ」 真壁は否定できなかった。 澄川は少し身体を起こし、正面からこちらを見る。 「凪さんの音は好きですよ。今も」 「はい」 「でも、凪さんに触ってほしいと思ったことはないです」 真壁が顔を上げる。 澄川はもう笑っていなかった。 「でも真壁さんには思います」 澄川は距離を詰めない。 ただ、こちらを見ている。 その方が余計に逃げにくかった。 それでも、胸の奥に残ったものが消えない。 「もし」 自分でも声が低くなったのが分かった。 「凪さんから、そういう意味で求められていたら?」 澄川の指が、膝の上でゆっくり組まれる。 「今ですか」 「今と、昔でも」 「昔なら、断らなかったかもしれないです」 胸の奥が、わずかに重くなった。 それを隠したつもりだったが、澄川は真壁の顔を見ていた。 「でも、好きだったからじゃないですよ」 「では、なぜ」 「昔は、人と近くなること自体に、今ほど理由を求めてなかったんです」 澄川は少し考えるように視線を落とす。 「一緒にいたり、泊まったり、その先に行ったりしても、それを特別だと思ってなかった。男とか女とかも、あんまり関係なかったです」 過ぎた時間を話している声だった。 そこに懐かしさも未練もない。 真壁はその横顔を見た。 「今は?」 澄川がこちらへ視線を戻す。 「性別は今もあんまり気にしてないです」 一度、言葉を切った。 「でも、誰でもいいわけじゃない」 澄川の視線がまっすぐ届く。 「今は真壁さんがいいです」 部屋の静けさが急に濃くなった。 外を走る車の音が遠く聞こえる。 何を返せばいいのか分からないまま見ていると、澄川が少しだけ近づいた。 ソファが沈む。 距離が縮まった分、さっきまで気にならなかったものまで近くなる。 睫毛の影。 頬へ落ちる柔らかな光。 息をするたびにわずかに動く喉元。 真壁は、そこから目を逸らさなかった。 「これで凪さんのこと、気にならなくなりました?」 「……分かりません」 澄川が笑う。 「まだ?」 「あなたが凪さんの家へ行くのは知っています」 「行きますよ」 「そうですか」 「でも真壁さんのところにも行きたいです」 真壁は澄川を見る。 「勤務先には来ています」 「家です」 「なぜ」 「行きたいから」 迷いのない返事だった。 澄川の笑みが少し深くなる。 「やっぱり気にしてる」 「もうその話は終わりました」 「じゃあ、こっちの話にします?」 「何でしょう」 澄川の視線が、真壁の手へ落ちる。 「俺に触りたいって話」 真壁の指がわずかに動いた。 澄川はそれを見てから、もう一度顔を上げる。 「この前、分からないって言ってましたよね」 「はい」 「まだ分かりません?」 「分かりません」 「じゃあ、試します?」 「何をですか」 「触るだけ」 澄川の声は軽い。 けれど目は逸れない。 近い距離で見れば、呼吸の速さまで分かりそうだった。 「嫌だったら言います」 前にも聞いた言葉だった。 その時は、まだそれを理由にできなかった。 今は違う。 逃げる理由の方が、なくなっていた。 真壁はゆっくり手を上げる。 いつもなら肩へ向かう手が、今日はそこを通り過ぎた。 頬へ向かう。 触れる直前で止まる。 澄川は動かない。 待っている。 指先が頬へ触れた。 身体を見るためではない。 状態を確かめるためでもない。 ただ、触れたかった。 澄川の目がわずかに細くなる。 「それでいいですよ」 真壁は手を離さなかった。 掌へ伝わる熱が、思っていたよりはっきりしている。 「簡単に言いますね」 「だって、触るだけですよ」 澄川が少し笑う。 頬に触れたまま、その表情が変わるのを見た。 「真壁さんが難しくしてるだけです」 否定できなかった。 指先の下には、確かな体温がある。 目の前にいる澄川は、もう状態確認の対象ではなかった。 今、触れている相手が自分を選んでいる。 それだけは、もう確認する必要がなかった。

ともだちにシェアしよう!