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第20話 凪さんじゃないんですか
澄川律の部屋へ行くのは、三度目だった。
今回は曲を聞く約束もない。夕方に届いたのも、《今日、来れます?》という短いメッセージだけだった。
真壁修司は仕事を終え、更衣を済ませてから澄川の部屋へ向かった。
玄関を開けた澄川は、もう外へ出る予定がないらしい。仕事で会う時より力の抜けた格好で、髪もきっちり整えてはいなかった。
「お疲れさまです」
「すみません、遅くなりました」
「全然。ちょうどできたとこです」
部屋へ入ると、テーブルには二人分の食事が並んでいた。
「今日も作ったんですか」
「はい」
「私が来られなかったら?」
「明日食べます」
澄川は特に困る様子もなく答え、キッチンへ戻る。
それで済むらしい。
真壁はジャケットを脱いで、以前と同じ場所へ置いた。最初に来た時は、鞄をどこへ置くか、上着を掛けてもいいか、それだけでも澄川へ確認していた。
今はもう聞かない。
自分でも気づかないうちに、この部屋の中で動くことへ迷わなくなっていた。
食事は前回と同じように、特別なものではなかった。
ご飯と汁物に、肉と野菜。澄川が途中で味を聞くこともなく、真壁も何も言わずに食べる。
沈黙が続いても、埋める必要を感じなかった。
食べ終えると澄川が皿を重ね、真壁が立とうとするより先にキッチンへ運んだ。
「今日は俺がやります」
前にも聞いた言葉だった。
真壁は座ったまま、水の流れる音を聞く。
この部屋へ来る理由は、もう曲だけではない。
それを考えた途端、視線の置き場所が少し難しくなった。
片づけを終えても、今日はギターが出てこなかった。
澄川はコーヒーを二つ持って戻り、ソファへ座る。自分の隣を軽く叩いた。
「こっち座ります?」
真壁は隣へ腰を下ろしたが、澄川との間には一人分ほどの距離を残した。
すぐに気づかれる。
「遠くないです?」
「このくらい普通です」
「前は触ってたのに」
真壁はカップをテーブルへ置いた。
「それは身体を見るためです」
「分かってます」
澄川は笑わなかった。
ソファの背へ身体を預けたまま、真壁の方へ少しだけ向きを変える。
地下で話した時より近い。
肩には力が入っていない。首から鎖骨へ落ちる線にも緊張はなく、膝の上に置いた手も開いている。
以前なら、そこで終わっていた。
状態は悪くない。
それだけだった。
けれど今は、もう一つ余計なものまで目に入る。
力の抜けた姿勢も、低くなった声も、コーヒーを持つ長い指も、仕事中とは違って見えた。
真壁は視線を外した。
澄川が気づく。
「また見ない」
「見ています」
「今、一回逃げましたよ」
「逃げていません」
「そういうことにしときます」
澄川はカップへ口をつける。
その横顔を見て、真壁は膝の上に置いた自分の手へ目を落とした。
触れたいと思っていることは、もう否定できなかった。
ただ、手を伸ばす前に、一つだけ確かめたいことがあった。
最初に受付へ来た時、澄川が探していた相手。
焼き菓子を作って持ってきた相手。
仕事がなくても会いに行く人。
「澄川さん」
「はい」
「一つ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
聞いてどうするのか、自分でもまだ分かっていない。
それでも口に出た。
「……凪さんじゃないんですか」
澄川が瞬きをする。
「何がです?」
本当に意味が分かっていない顔だった。
「あなたが、近づきたかった相手です」
しばらく真壁を見ていた澄川が、ようやく意味を拾ったらしい。
「ああ」
その声が妙に軽くて、真壁の胸の奥に引っかかった。
「凪さんには近づきたかったですよ」
「そうですか」
「音、好きなので。今も好きです」
「それは知っています」
「家も落ち着くし」
真壁はわずかに視線を落とした。
「……そうですか」
澄川はカップへ視線を落とした。
次に顔を上げた時、こちらを見る目が少し変わっていた。
「真壁さん」
「はい」
「凪さんのこと気にしてます?」
「確認しているだけです」
「最近、それ便利に使いますよね」
「使っていません」
澄川の目元に、ようやく笑いが戻った。
「気にしてるんだ」
真壁は否定できなかった。
澄川は少し身体を起こし、正面からこちらを見る。
「凪さんの音は好きですよ。今も」
「はい」
「でも、凪さんに触ってほしいと思ったことはないです」
真壁が顔を上げる。
澄川はもう笑っていなかった。
「でも真壁さんには思います」
澄川は距離を詰めない。
ただ、こちらを見ている。
その方が余計に逃げにくかった。
それでも、胸の奥に残ったものが消えない。
「もし」
自分でも声が低くなったのが分かった。
「凪さんから、そういう意味で求められていたら?」
澄川の指が、膝の上でゆっくり組まれる。
「今ですか」
「今と、昔でも」
「昔なら、断らなかったかもしれないです」
胸の奥が、わずかに重くなった。
それを隠したつもりだったが、澄川は真壁の顔を見ていた。
「でも、好きだったからじゃないですよ」
「では、なぜ」
「昔は、人と近くなること自体に、今ほど理由を求めてなかったんです」
澄川は少し考えるように視線を落とす。
「一緒にいたり、泊まったり、その先に行ったりしても、それを特別だと思ってなかった。男とか女とかも、あんまり関係なかったです」
過ぎた時間を話している声だった。
そこに懐かしさも未練もない。
真壁はその横顔を見た。
「今は?」
澄川がこちらへ視線を戻す。
「性別は今もあんまり気にしてないです」
一度、言葉を切った。
「でも、誰でもいいわけじゃない」
澄川の視線がまっすぐ届く。
「今は真壁さんがいいです」
部屋の静けさが急に濃くなった。
外を走る車の音が遠く聞こえる。
何を返せばいいのか分からないまま見ていると、澄川が少しだけ近づいた。
ソファが沈む。
距離が縮まった分、さっきまで気にならなかったものまで近くなる。
睫毛の影。
頬へ落ちる柔らかな光。
息をするたびにわずかに動く喉元。
真壁は、そこから目を逸らさなかった。
「これで凪さんのこと、気にならなくなりました?」
「……分かりません」
澄川が笑う。
「まだ?」
「あなたが凪さんの家へ行くのは知っています」
「行きますよ」
「そうですか」
「でも真壁さんのところにも行きたいです」
真壁は澄川を見る。
「勤務先には来ています」
「家です」
「なぜ」
「行きたいから」
迷いのない返事だった。
澄川の笑みが少し深くなる。
「やっぱり気にしてる」
「もうその話は終わりました」
「じゃあ、こっちの話にします?」
「何でしょう」
澄川の視線が、真壁の手へ落ちる。
「俺に触りたいって話」
真壁の指がわずかに動いた。
澄川はそれを見てから、もう一度顔を上げる。
「この前、分からないって言ってましたよね」
「はい」
「まだ分かりません?」
「分かりません」
「じゃあ、試します?」
「何をですか」
「触るだけ」
澄川の声は軽い。
けれど目は逸れない。
近い距離で見れば、呼吸の速さまで分かりそうだった。
「嫌だったら言います」
前にも聞いた言葉だった。
その時は、まだそれを理由にできなかった。
今は違う。
逃げる理由の方が、なくなっていた。
真壁はゆっくり手を上げる。
いつもなら肩へ向かう手が、今日はそこを通り過ぎた。
頬へ向かう。
触れる直前で止まる。
澄川は動かない。
待っている。
指先が頬へ触れた。
身体を見るためではない。
状態を確かめるためでもない。
ただ、触れたかった。
澄川の目がわずかに細くなる。
「それでいいですよ」
真壁は手を離さなかった。
掌へ伝わる熱が、思っていたよりはっきりしている。
「簡単に言いますね」
「だって、触るだけですよ」
澄川が少し笑う。
頬に触れたまま、その表情が変わるのを見た。
「真壁さんが難しくしてるだけです」
否定できなかった。
指先の下には、確かな体温がある。
目の前にいる澄川は、もう状態確認の対象ではなかった。
今、触れている相手が自分を選んでいる。
それだけは、もう確認する必要がなかった。
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