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第21話 触れたい方へ
澄川律から連絡が来たのは、数日後の夜だった。
《今度の休み、空いてます?》
真壁修司は翌週の予定を確認する。
《日曜なら》
返事はすぐに届いた。
《じゃあ真壁さんの家行きたいです》
以前、澄川の部屋で言われたことを思い出した。
今度家教えてください。
その時は、まだ行くとは言っていません、と返した。
どうやら澄川の中では、断られたのではなく保留になっていただけらしい。
《何をしに》
間があって、
《遊びに》
と返ってきた。
真壁が画面を見ていると、もう一通届く。
《だめです?》
《構いません》
送信してから住所を続ける。
数秒後。
《やった》
思わず、息が抜けた。
*
日曜の午後、インターホンが鳴った。
扉を開けると、帽子とマスクをつけた澄川が立っている。アトラボへ来る時より服装は軽く、片手には紙袋を提げていた。
「こんにちは」
「こんにちは」
澄川は部屋へ入る前に、玄関の奥を覗くように見る。
「ほんとに真壁さんの家だ」
「住所を送ったでしょう」
「そうなんですけど」
靴を脱ぎ、廊下を進む。
リビングへ入ると、また足を止めた。
「何ですか」
「真壁さんっぽい」
「どういう意味です?」
「物あるのに、散らかってない」
真壁は答えず、澄川から紙袋を受け取った。
中には菓子と飲み物が入っている。
「今日は手作りではないんですね」
「毎回作りませんよ」
「そうですか」
「期待しました?」
澄川が笑う。
真壁は袋をキッチンへ置いた。
「していません」
「ちょっと間ありましたけど」
「ありません」
澄川は楽しそうに、もう一度部屋を見回した。
棚には本が並び、壁際にはトレーニング用品が置かれている。音楽機材もギターもない。
澄川の部屋とはまるで違う。
「これ、家でもやるんですか」
「たまに」
「柔道整復師の勉強してた時から?」
「その頃から身体は動かしています」
澄川が棚の前でしゃがみ込み、置かれている道具を一つずつ眺める。
真壁はその後ろ姿を見る。
自分しか使わなかった場所を、澄川が普通に歩いている。
それだけのことなのに、妙に目についた。
「真壁さん、昔からこんな感じだったんですか」
「こんな感じとは」
「落ち着いてるっていうか」
「あなたが落ち着きがないだけでは」
「それは否定しませんけど」
澄川が振り返って笑う。
その笑い方まで、この部屋の中だと違って見えた。
「でも、たまに年下っぽいですよね」
真壁が眉を上げる。
「私がですか」
「はい」
「どこが」
澄川は考える。
「分かんないことあると、急に慎重になるところ」
仕事中なら、判断材料を集めてから動く。
身体を見る時もそうだった。
けれど澄川のことになると、分からないまま止まることが増えた。
「仕事してる時は全然そう見えないのに」
澄川はそう言って、何でもない顔でソファへ座る。
真壁は飲み物を用意した。
二人でテーブルにつき、澄川が持ってきた菓子を開ける。
特別な話はしなかった。
最近の海外案件。
Ridgelineとの制作。
真壁の休日。
よく行く店。
何を食べるか。
澄川は仕事の話より、真壁が普段どう暮らしているかを知りたがった。
「休みの日、一人なんですか」
「基本は」
「友達と会ったりは」
「しますよ」
間を置いて、澄川が聞く。
「彼女は?」
真壁の手が止まった。
澄川は菓子を食べながら、答えを急かさず待っている。
「いません」
「前は?」
「いました」
「長かった?」
「質問が多いですね」
「気になるので」
真壁は息を吐いた。
「それなりに」
「女の人ですよね」
「そうです」
澄川はそれ以上は聞かなかった。
その沈黙の方を、真壁が意識した。
「澄川さんは?」
「何がです?」
「過去の交際です」
澄川は考えてから、肩の力を抜く。
「付き合った人もいますよ」
「男性は?」
「あります」
返事は軽かった。
真壁はカップへ伸ばしかけた手を止める。
澄川がその動きに気づいた。
「そこ気になります?」
「経験がないので」
「男と?」
「はい」
澄川は笑わず、真壁を見る。
以前なら、その視線を状態確認として受け取っていた。
今はもう違う。
互いに、それを分かっている。
「俺はあります」
「そうでしょうね」
言ってから、真壁は自分で止まった。
澄川の眉が上がる。
「またそれ言う」
「失礼しました」
「別にいいですけど」
口元だけで笑う。
「俺の方が年下なのに、そっちは俺の方が詳しいですね」
「比べる必要がありますか」
「ないです。でも、ちょっと面白い」
「私は面白くありません」
「真壁さん、今困ってます?」
真壁は一度だけ澄川を見る。
「少し」
その答えに、澄川の笑みが深くなった。
「珍しい」
真壁はカップを置いた。
「楽しんでいますね」
「はい」
澄川は悪びれずに答えた。
*
夕方が近づいても、澄川は帰ろうとしなかった。
ソファへ移る。
以前なら一人分ほど空いていた距離が、今日は狭い。
肩が触れるほどではない。
けれど、手を伸ばせば届く。
「真壁さん」
「はい」
「今日、触らないんですか」
真壁は澄川を見る。
「身体は問題なさそうです」
「そうじゃなくて」
もう何度聞いたか分からない言葉だった。
澄川が身体をこちらへ向ける。
「この前、頬触りましたよね」
「はい」
「あれ、状態確認じゃなかったですよね」
「違います」
今度は迷わず答えた。
澄川の目がわずかに動く。
それだけで、部屋の空気が変わった気がした。
「じゃあ今日もいいですよ」
「あなたは簡単に言いますね」
「嫌じゃないので」
真壁は手を上げる。
今度は途中で止めなかった。
頬へ触れる。
掌に体温が乗る。
澄川は目を逸らさない。
近くで見ると、睫毛の影も、頬に落ちる光もよく分かる。
真壁の親指がゆっくり動いた。
髪へ触れ、耳の近くを通り、首の後ろへ手を置く。
今までなら、張りや動きを確かめていた場所だった。
今日は何も確かめない。
ただ触れている。
澄川の呼吸が変わった。
それが分かっても、手を離す理由にはならなかった。
「嫌ですか」
「全然」
声が近い。
澄川が身体を寄せる。
真壁は動かなかった。
受付越しには境界がある。
身体を整える時には理由がある。
ステージの上にいる澄川は遠い。
今は、そのどれもない。
ただ目の前にいる。
澄川は真壁の手を見たあと、顔を上げる。
「真壁さん」
「はい」
「俺に触りたいんですよね」
「はい」
初めて、迷いなく答えた。
澄川の表情が緩む。
「じゃあ、触ってください」
真壁の手は首の後ろに残ったままだった。
澄川を見ているうちに、さっきまで近いだけだった距離が急に足りなく感じる。
呼吸が分かる。
目を逸らせば終わる。
澄川も動かない。
真壁がどうするのかを待っている。
やがて、澄川が小さく言った。
「真壁さん」
名前を呼ばれただけだった。
それでも、背中を押されたように感じた。
真壁は首の後ろへ置いた手を引き寄せる。
澄川の身体が自然に近づいた。
「嫌なら言ってください」
「言います」
それだけでよかった。
真壁から顔を寄せる。
触れるだけの短いキスだった。
離れる。
澄川が真壁を見る。
「……真壁さん」
「はい」
「どうでした?」
真壁は考えた。
嫌ではない。
思っていたより戸惑いもない。
それより、もう一度近づきたい気持ちの方がはっきりしていた。
「もう一度したいです」
澄川の表情が止まった。
さっきまで余裕のあった目が、一瞬だけ揺れる。
「それ、言うんですね」
「聞いたのは澄川さんです」
「そうですけど」
真壁は首の後ろに置いていた手を動かし、澄川の頬へ触れた。
親指で頬をゆっくり撫でる。
澄川は何も言わなかった。
今度は、澄川が何か言う前に真壁から顔を寄せる。
二度目は少し長かった。
最初より近い。
触れている時間が増えただけなのに、呼吸の置き場所が分からなくなる。
離れても、真壁の手は頬に残った。
親指がもう一度、その肌を撫でる。
澄川は静かだった。
目が合う。
笑っていない。
その顔を見た瞬間、真壁はもう一度触れたいと思った。
男と付き合うことを考えたことはなかった。
男性へこうして触れることも。
けれど、今目の前にいるのは澄川だった。
性別より先に、触れたいと思っていた相手だった。
澄川が、頬に触れている真壁の手へ自分の手を重ねる。
「次、俺からしてもいいです?」
澄川の手が重なったまま、真壁はその顔を見る。
もう迷いではなかった。
「……どうぞ」
今度は澄川が近づいた。
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